米国最後の奴隷船、帰らざる旅の記憶

クロティルダ号に乗せられたアフリカ人は二度と故郷に戻ることはなかった

2020.01.31
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後にポリー・アレンと名乗るクポリーは、製材所で1日12時間働いた後、自宅の菜園で暗くなるまで作業して、その収穫で15人の子を育て上げた。PAINTING BY SEDRICK HUCKABY

 1860年5月、帆船クロティルダ号に若い男女と子ども、合わせて110人が乗せられた。出身地はアフリカのベナンおよびナイジェリアで、それぞれの民族に属していた。

 クポリーという男性は、両耳に小さな輪を通していた。これはヨルバの宗教に入信した印だ。オッサ・キービーの出身地ケビは、腕の立つ漁師たちがいることで知られる王国だった。19歳のコソラのように奴隷狩りに遭った者もいた。コソラの祖父はバンテ王の家臣だったという。若い女性は多くが誘拐されてウィダーに連れてこられ、奴隷を集める囲いに放り込まれた。

 新聞のインタビューや口述記録によると、クロティルダ号のフォスター船長がやって来て、10人ごとに円陣をつくらせ、皮膚、歯、両手両足、脚、腕を検分して125人を選び出した。出発は翌日だと告げられて、泣いて夜を明かした者もたくさんいた。この先どんな運命が待っているかわからないまま、大切な人たちと引き離されたくなかったのだ。

 打ちひしがれた一行は、潟湖を横断して外海に面した浜辺まで歩かされ、そこからカヌーに乗せられて、沖に停泊したクロティルダ号まで連れていかれた。そこで待っていたのは、永遠に忘れられない屈辱だった。衣服をすべて脱ぐよう命じられたのだ。奴隷貿易では、アフリカ人は全裸にするのが原則だった。クロティルダ号の生存者たちは何年たっても、「アフリカ人は裸」という思い込みで野蛮人扱いされたことに怒りを隠さなかった。

証拠隠滅のために放たれた火

 航海の最初の13日間、アフリカ人たちは船倉に閉じ込められていた。それから40年以上たった1906年、アバッチ(クララ・ターナー)という女性は『ハーパーズ』誌のインタビューで、航海の様子を語っている。不潔で暗く、暑い船内に鎖でつながれ、喉の渇きに苦しんだという。「記憶を語る彼女の目は燃え上がり、魂が激しく揺さぶられているようだった」と聞き手は記している。

 子どもたちが苦しみ、恐怖におびえても、親はどうしてやることもできない。それが絶望と苦悩をさらに募らせた。後にグレイシーと名乗った女性は、4人の娘と船に乗せられた。末娘のマティルダは2歳前後だった。水不足は拷問に近く、甘ったるい糖蜜と穀物のかゆも、渇きを癒やしてはくれなかった。その食事も1日に2回、「ほんのひと口」だけで、しかも酸っぱい味がした。病人も出て、2人が息を引き取った。

 7月8日、遠くに陸地が見えた。クロティルダ号をモービル湾へと曳航するタグボートが、ハチの羽音のような音を響かせて近づいてきた。奴隷たちは蒸気船に乗り換えて川をさかのぼり、アラバマ州クラーク郡のプランテーションに移動する。その後、フォスターは証拠隠滅のため、クロティルダ号に火を放った。

※ナショナル ジオグラフィック2月号「米国最後の奴隷船」では、米国に向かう最後の奴隷船に乗せられたアフリカ人とその子孫の物語を綴ります。

文=シルビアン・ディウフ/歴史家

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