原爆投下によって焦土と化してから長い歳月がたち、広島は復興を果たした。だが、生き残った人々にとって、核兵器の恐怖と戦争の記憶は色あせない。
広島に原子爆弾が投下された9日後、母親と1歳だった弟をすでに失い、実家を焼け出された7歳になる田邊雅章は、やはり被爆して瀕死の重傷を負った父親の最期を看取った。米国に対して拭い去れない憎しみを抱く軍人だった田邊の父親は、軍刀を傍らに置いて死んでいった。
田邊の祖父は息子の軍刀を形見に残しておきたがったが、占領軍がその軍刀を祖父から取り上げていった。「情け知らずの野蛮人」。少年だった田邊はそう思い、米国への復讐を決意したという。そう思うのも無理はない。田邊は無一物になり、家族をあらかた失ったのだ。田邊の実家は広島県産業奨励館、つまり、後に核兵器の惨禍のシンボルになった、鉄骨がむき出しの原爆ドームのすぐそばにあった。
現在、80歳を過ぎた田邊は灰色の甚平をまとい、日本の伝統文化をかたくなに守っているかのように見えた。田邊はやがて映像作家となり、コンピューターグラフィックスを学んで、原爆で壊滅した広島の街並みを仮想空間上に再現しようと決心した。そして、原爆を生き延びた人々へのインタビューを織り交ぜて、映画『ヒロシマからの伝言』を製作したのだった。
広島とその3日後の長崎への原爆投下によって、20万人もの命が奪われ、程なくして日本はポツダム宣言を受け入れて降伏する。これにより、数百万人が犠牲になるおそれのあった連合軍の日本本土上陸作戦が回避されたとされる。
終戦時、自分自身と日本にどれほど痛みを伴う変化が待っているか、田邊には知る由もなかった。田邊の娘は米国人と結婚し、米国に移り住むことになったのだ。娘が“敵国の人間”を愛するようになったことを、田邊は長い間受け入れられなかった。結婚から2、3年たって、娘が祖父(田邊の父)の墓所である山口県の石仏の下に手紙を残していたことを知る。手紙のなかで、娘は自分が祖父を失望させたのなら申し訳ないと書きつづっていた。歳月がたつにつれ、田邊は、同世代の多くの人々と同様に、世の中の変化を受け入れるようになった。
終戦から75年がたち、田邊がたどった人生は、広島、そして日本がたどった歴史そのものとなった。そこでは伝統と現代が混在し、過去を忘れまいとする信念と、過去にだけ縛られまいという決意とが共存している。