1880年代、現在のヨルダンでイスラム教徒とキリスト教徒の対立が起きた。やがて、この対立は次のような妥協案――キリスト教徒はマダバという町に移り住んでもよいが、教会を建てる場所は過去に教会があったところに限定される、で一応の解決を見た。
提案には一定の理があった。マダバは、当時のオスマン帝国にとっては埃まみれの辺境の地に過ぎなかった。そしてキリスト教徒から見れば、マダバはビザンチン時代に大いに栄えた場所だった。
1884年、新たに移住してきたギリシャ正教の信者たちは、過去に聖ゲオルギウスの教会があった場所に改めて教会を建てようとした。古代の教会があった場所を整地すると、驚くべきものが見つかった。
瓦礫の下には、詳細な地図が描かれた巨大なモザイク画が隠されていたのだ。ところどころ破損はしていたものの、色とりどりの破片からなるこのモザイク画には、エルサレムをはじめとする聖地の様子が、目もくらむほどの克明さで描き出されていた。 (参考記事:「出エジプト描いた貴重なモザイク画が出土」)
希少な地図の発見
マダバの人々は喜んだが、当時オスマン帝国の支配下にあったエルサレムのギリシャ正教会上層部は、当初この発見に関心がなかった。それから10年ほど過ぎ、1890年代半ばになって、ようやくエルサレム総主教座の司書クレオパス・コイキリデスが、マダバを訪れて調査を行った。コイキリデスはすぐにこのモザイク画の重要性を理解した。
ビザンチン時代の教会の床を飾るモザイク画には、一般に都市や大きな建造物を絵画的に表現しているものが多い。マダバのモザイク画にもそうした要素はあったが(ありのままの姿を詳細に描いた建物、物や動物の生き生きとした描写など)、一帯を上空から見下ろした形で描かれたものは、あまり例がなかった。
しかも、マダバのモザイク画は地図として正確に描かれていたため、エルサレムにあたる場所に描かれた建物も特定できた。絵には、542年11月20日に奉献された、神の母たる聖マリア新教会も描かれていた。 (参考記事:「ダ・ヴィンチが変革、正確で美しい500年前の地図」)