触れ合いのパワー

“触れる”の謎に挑戦する研究の最前線を追う

2022.05.27
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米コーネル大学の研究チームは、この半透明の素材に触れた手の影をカメラで撮影し、その映像をコンピューターで情報に変換することで、触覚を“ 感じる” 仕組みを開発した。これをロボットに組み込む研究が進む。(PHOTOGRAPH BY LYNN JOHNSON)
米コーネル大学の研究チームは、この半透明の素材に触れた手の影をカメラで撮影し、その映像をコンピューターで情報に変換することで、触覚を“ 感じる” 仕組みを開発した。これをロボットに組み込む研究が進む。(PHOTOGRAPH BY LYNN JOHNSON)

この記事は雑誌ナショナル ジオグラフィック日本版2022年6月号に掲載された特集です。定期購読者の方のみすべてお読みいただけます。

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この特集には、手術の場面などの写真が含まれています。

握手や抱擁など、誰かと触れ合うことは、私たちの健康にどのような効果があるのか。そして、事故や病気で失った触覚を取り戻すことはできるのか。研究の最前線を追った。

 仕事中の事故で左の前腕を失ってから6年後の2018年9月、米国メリーランド州で開催された研究者向けのシンポジウムで、ブランドン・プレストウッドは半ば笑い、半ば泣いているような顔つきで妻を見つめていた。夫妻の周りに集まった数人の一人がこの場面を記録しておこうとスマートフォンを構えた。ひげ面の男性が、長髪のきれいな女性と向き合っている。男性は肘先に白い義手を装着している。テーブルには電子機器が置かれ、その導線は彼のシャツの下に潜り込んで、肩の辺りにつながっている。彼の生身の体が電子機器に接続されている状態だ。

 プレストウッドは、世界各地の神経科学者、医師、心理学者、医用生体工学者らが連携して進めている野心的な実験に参加している。オハイオ州クリーブランドにあるケース・ウェスタン・リザーブ大学の外科医らが、彼の左腕の切断面にメスを入れ、断ち切られた神経と筋肉に小さな電極を取り付けたのだ。さらに、そこから細い導線を50本近く上腕の皮下に通し、肩の付近で外に出した。この処置後、プレストウッドは上腕に貼ってあるパッチをはがすたびに、皮膚から突き出した多数の導線を見ることになった。

よみがえる感覚
よみがえる感覚
事故で前腕を失ったブランドン・プレストウッドが、米国ノースカロライナ州の自宅で、肩付近から出た導線の周りを消毒する。この導線をコンピューターに接続し、試作段階の義手を装着すれば、上腕に埋め込まれた電極に信号が送られ、失った手でさわったかのような感覚を得られる。腕のタトゥーは、彼と妻が早産で失った2人の子の1人にささげたもので、これを傷つけないことが実験参加の条件だった。(PHOTOGRAPH BY LYNN JOHNSON)

 ここ何カ月かはクリーブランドに定期的に通い、試験段階にある次世代型の義手を装着して、さまざまなテストを受けていた。この義手はモーターを内蔵し、指先にセンサーが付いている。こうした義手は機能回復を促す装置として大いに期待されているが、ケース・ウェスタン・リザーブ大学の研究チームが最も関心を寄せていたのは、単なる操作性の向上ではない。人が何かに“触れる”体験だ。そのために研究者たちは、プレストウッドの腕の導線をコンピューターに接続し、その反応を注意深く観察していた。

 触れるという体験には、皮膚と神経と脳が関わっている。それらが相互に連携する仕組みは驚くほど入り組んでいて、それを理解し、測定し、ごく自然な形で再現する試みには、数々の困難が伴う。

 ケース・ウェスタン・リザーブ大学の感覚復元研究室で行われた実験では、期待のもてる進展があった。たとえば、義手で発泡スチロールのブロックを握る実験。プレストウッドはブロックの手応えを感じた。かすかだが、まるで失われた手の指から伝わってくるようだった。

 妻のエイミーはそれまで研究室での実験に立ち会うことができず、冒頭で述べた9月のシンポジウムが初めての機会だった。新型の義手を装着した夫と、手を伸ばせばさわれる距離で向き合っている。

 このときプレストウッドはスマートフォンでこの場面を録画していた。その動画を見ると、広い研究室で、二人の大人が不安げに相手の表情をうかがいながら向き合っている。まるで、初めてダンスを踊ろうとしている思春期の少年と少女のようだ。プレストウッドは足元に目を落とし、それからおもむろに義手の指に視線を移して、にっこり笑うと、右手でエイミーに義手を指さした。さあ、さわってごらん。

触れ合いの欠乏

 触覚に関する論文は続々と発表され、そこには新たな知見や推論、未来に向けた素晴らしい提案が記されている。だが、ここで伝えたいのはプレストウッドが撮影したわずか4秒ほどの出来事だ。

 エイミーが義手の左手をそっと握ると、プレストウッドは、はじかれたように顔を上げた。目を大きく見開き、口をぽかんと開けて、まっすぐ前を見つめるばかり。エイミーはそんな彼を見守っていたが、当のプレストウッドは虚空を凝視したままだった。

「感じたんですよ」。後日、プレストウッドはそう話してくれた。「ちゃんと反応があり、妻に触れている実感があった。不覚にも泣いてしまいました。妻も泣いていたんじゃないかな」

 そう、エイミーは泣いていた。プレストウッドが動画を見せてくれた日は、新型コロナウイルス感染症のパンデミックの真っただ中。世界中の人々が互いへの接し方、触れ合い方を探っているような日々だった。

次ページ:社会に多大な影響を与えた研究

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