この記事は雑誌ナショナル ジオグラフィック日本版2023年1月号に掲載された特集です。定期購読者の方のみすべてお読みいただけます。
フロリダ沿岸部にすむ海洋哺乳類のマナティーは、数十年前まで絶滅が危惧されていた。人々の努力によって個体数は回復したものの、近年、大量死が起きていて、懸念が強まっている。
初対面の人を曽祖母の家に招くとは、思ってもいなかった。その日の午後は、ナショナル ジオグラフィックのエクスプローラーであるバディ・パウエルに、水上で話を聞く予定だった。場所は米国フロリダ州西海岸にある小さな町クリスタルリバー。草食性の海洋哺乳類マナティーをめぐる近年の動きの中心地だ。ところが乗る予定だったボートが故障し、桟橋で話を聞くには暑すぎた。そこで私たちは、曽祖母の家の居間で向かい合うことになった。曽祖母がここに移住したのは60年以上も前のこと。彼女は1993年に亡くなった。
パウエルがここで育った1960年代、マナティーはフロリダからほぼ姿を消していた。彼はマナティーの世界的な専門家で、電子メールの署名は「ジェームズ・パウエル博士、クリアウォーター海洋水族館館長・エグゼクティブディレクター」だが、バディと呼ばれるのを好む。
マナティーは海牛とも呼ばれ、動物界では異色の存在だ。体長4メートル、体重900キロを超えることもあるが、捕食者でも被食者でもない平和な生き物で、進化の過程で攻撃性を失った。人間を魅了するカリスマ的な野生動物でもある。フロリダにおけるマナティーの存在は、人間の善意による努力を証明するものだ。1960年代に1000頭を切ったマナティーの数は、空からの調査に基づく推定ではあるが、6年前には7500頭以上に増えた。生息域の保護と回復、船との衝突を防ぐための規則を整備したことに加えて、啓発活動にも力を入れたおかげだ。その中心地クリスタルリバーは、今や「世界のマナティーの首都」になっている。
これだけ数が増えたにもかかわらず、マナティーは今なお脅威にさらされている。フロリダ州の人口2200万のうち4分の3は沿岸部に居住しており、マナティーの主要な生息域と重なる。フロリダ州を彩る水源や水路、湿地の環境は、人間の活動によって悪化してきた。
たとえば、マナティーの重要な生息域であるインディアンリバー・ラグーンはフロリダ州でも人口密度の高い東海岸にあるが、何十年にもわたって下水や不動産開発による堆積物、芝生や農地で使う化学肥料が流れ込み、水質が悪化した。このため、マナティーの主要な食料である海草が枯れてしまい、この2年間だけで1000頭以上が命を落とした。タンパ・ローリーパーク動物園やオーランドのシーワールドなど、衰弱したマナティーを治療して野生に戻す施設では、運び込まれる個体が急増している。