この記事は雑誌ナショナル ジオグラフィック日本版2023年1月号に掲載された特集です。定期購読者の方のみすべてお読みいただけます。
外部の人間が立ち入れなかったかつての王国が世界に向かって門戸を開きつつある。
ネパール北部にかつて存在したムスタン王国。その王となるはずだった人物が今、私の目の前にいる。
彼は着古したジーンズ姿で、何世紀もの歴史をもつ王宮内にある、天井の低い部屋の真ん中に立って、数珠を手に経を唱えていた。壁や、屋根を支える柱には、金色の衣をまとって穏やかにくつろぐ姿や火焔(かえん)を背負って剣を手に憤怒の相を見せる、諸仏諸尊の複雑に入り組んだ仏画が描かれている。
王宮は、ヒマラヤ山脈北端の殺風景な丘の懐にひっそりと立っている。10月半ば、土壁の部屋は寒々としていて、冬の訪れが近いことを感じさせた。
窓からは、600年の歴史をもつ城郭都市ローマンタンが一望できる。そこはネパールのムスタン地方にある、かつての王国の首都で、中国の国境までわずか15キロの場所に位置している。眼下には、しっくいを塗った泥れんがの建物が密集して立ち並び、屋根からは煙が立ち上っている。南東には、いくつもの川筋を谷いっぱいに広げたカリガンダキ川が、雪を頂いてそびえる峰々の間に向かって流れていく。
こうした光景を外国人が見ることは、以前ならかなわなかった。20世紀の大半、ムスタンへの入域はネパール政府によって厳重に管理されていたのだ。
王宮で私を待っていた人物は、「ジグメ」と自己紹介した。フルネームはジグメ・シンギ・パルバル・ビスタ。かつての王国が直面している問題を取材してもらいたいと、彼が私を招いてくれたのだ。白髪が薄くなり始めているが、60歳を過ぎているとは思えないほど元気そうで、王宮内を機敏な足取りで案内してくれる。老朽化が進む王宮は、2015年に起きた地震によって建物が大きく損傷し、家族は引っ越しを余儀なくされたという。ぐらつく木の階段や床に開いている穴に注意し、仏画が描かれた崩れそうな壁を避けながら進んだ。
王宮全体に比べれば、私たちが今いる部屋の状態はかなり良好に思われた。伝統的なチベットの民族衣装をまとった男女の肖像を見ている私にジグメが言った。「両親です。ここは父の祈祷室でした。父は25代目に当たるムスタン最後の国王で、私は26代目になります」
私の左手には、床から天井まで届く、金箔に覆われた白檀材の棚があり、その中には諸仏諸尊の小さな銅像が雑然と置かれていた。ヤクのバターを燃やすランプからは、酸っぱいような独特の香りが立ち込めていた。
これらの像は単なる芸術品ではなく、魂を宿し、古代から王家を見守ってきた仏たちだとジグメは語る。祭壇に置かれる前に、悟りを開いた高僧が像に魂を吹き込む儀式を行うという。
現実には、こうした仏の像を守っているのはジグメの方だ。仏教美術品は、闇市場で相当な額で取引される。仏教徒の多い、この孤絶した都においては、これまで盗難の心配をする必要はほとんどなかった。だが、外界がすぐ近くまで迫った今、ジグメが抱える数多くの心配事のなかに、美術品の盗難が加わった。