この記事は雑誌ナショナル ジオグラフィック日本版2023年3月号に掲載された特集です。定期購読者の方のみすべてお読みいただけます。
かつて植民地や先住民から持ち去られた文化財を、故国に返還する動きが出てきた。その現状と課題を欧州と米国、アフリカで取材した。
ここはアフリカ中部のカメルーンにある都市フーンバン。
2022年2月、人口約10万のこの都市では、はるかサハラ砂漠から風が運んでくる塵(ちり)がすべてを赤く染めていた。あと1カ月ほどは太陽がもやでかすみ、暑く乾燥した日が続く。目抜き通りには、車のクラクションやオートバイのエンジン音がけたたましく響いていた。
この一帯は1884年から1916年までドイツの植民地だった。ドイツもほかの宗主国と同様、植民地の文化財を収集し、その保存や研究、展示に力を入れた。収集は人類の本能に深く根ざした欲求だが、現在のような博物館は、19世紀に欧州諸国が探検と征服の成果を披露するために造られた。
植民地主義の時代、収集活動は熱狂の域に達した。欧州の強国が探検家に地図を製作させたのは、純粋な知識欲のためではなかった。それと同じで、文化財も自然に集まったわけではなく、人類学者をはじめ、宣教師や貿易商、将校までもが、博物館と結託して世界の驚異と富を欧州に持ち帰ったのだ。博物館の学芸員が、武装した探検隊に希望の品々の収集を託すことさえあった。
1907年、カメルーンのバムン人を統治するスルタン(君主)だったイブラヒム・ジョヤに宗主国ドイツから信書が届く。皇帝ウィルヘルム2世の50歳の誕生日に玉座の複製を贈れば、さぞや心証が良くなるはずと書かれていた。父王から引き継いだ玉座はビーズで美しく装飾され、背後に立つ2体の守護神にちなんで「マンドゥ・イェヌ」と呼ばれていた。
玉座を買い取りたい、交換してほしいという数々の申し出をすべて断ってきたジョヤだが、このときばかりは了承している。その理由を記した記録は残っていない。確かなのは、職人に玉座をもう一つ作るよう命じたことだ。ところが皇帝の誕生日に間に合わないことが判明し、ジョヤは説得に応じて本物を差し出した。現在、ドイツの首都ベルリンにある民族学博物館が所蔵するのがそれだ。
2021年、ジョヤのひ孫に当たるナビル・ジョヤが、父の死去に伴ってバムンのスルタンに就任した。フーンバンの王宮で会見したとき、28歳の若き王はスマートフォンを取り出して、米国のプロバスケットボール・チームの帽子をかぶった自撮り写真を見せてくれた。ニューヨークの大学に5年間留学していたという。
現代のカメルーンでは、スルタンの称号は名誉職に近く、権限も小さいが、人々の尊敬を集める存在ではある。スルタンは後継者のために玉座を作って権威を引き継ぐのが決まりだ。ところが玉座がベルリンにあることで、「そのつながりに空白ができています」とナビルは言う。
父が自分のために作ってくれた玉座で、ナビルは話を続けた。1世紀以上前の祖先の所業について今のドイツ人を責めているわけではなく、曽祖父の玉座を返してほしいだけだ。「今の私たちは当時の出来事に関わっていません。でも問題を解決する責務があると思います」
父王は玉座をはじめとするバムンの工芸品を展示するために、王宮の敷地に博物館を建設した。双頭の蛇を模した建物の上で、クモがにらみを利かせている。力と警戒と勤勉の象徴だという。