この記事は雑誌ナショナル ジオグラフィック日本版2023年5月号に掲載された特集です。定期購読者の方のみすべてお読みいただけます。
バルカン半島の小国コソボの未来は、独立国としての承認とセルビアとの紛争解決に懸かっている。
コソボは若い国だ。戦乱を生き延びた国民の誰もが、語るのもつらい記憶を抱えている。だが、この国で生きるからには語らないわけにはいかない。世界も耳を傾けるべきだと考えている。首都プリシュティナの議事堂で、議会の副議長を務める36歳のサランダ・ボグジェビッチの執務室を訪ねた。ボグジェビッチは笑顔で力強く握手をしてくれたが、彼女の変形した左手と、その前腕にある深い傷痕に思わず目がいってしまう。
1999年3月28日、ポドゥイェバの町にセルビア人民兵組織の部隊が侵入した。彼らはボグジェビッチの一族21人を庭に集め、壁の前に並んで立たせて銃を発射した。彼女の親友でいとこのノラ、一族の長老だった女性、2歳の男児も殺され、死体の山ができた。だが、5人はまだ息があった。その一人が当時13歳のボグジェビッチで、16発も銃弾を浴びながら命だけは助かった。
「時がたつにつれ、記憶がとても重要だとわかってきました。記憶が消えないように、懐かしみ、大切に残さないと」。自分とおそろいだったノラの靴は、まだ手元にあるとボグジェビッチは言う。幸せな思い出がないと、悲惨な経験しかよみがえってこない。セルビア人がもたらした望まない過去は「死ぬまでついて回るでしょう。それは昔話などではないのです」
もうすぐ来る15歳の誕生日は、解放されたコソボで迎えられるかもしれないと、ノラは楽しみにしていたという。だが、彼女が命を落とす4日前、北大西洋条約機構(NATO)による空爆が始まり、アルバニア系住民とセルビア人との対立は最も深刻になった。第2次世界大戦後からこの地を支配していたセルビア政府は、1989年から“穏便な”民族浄化を始めていた。ボグジェビッチのようなアルバニア系の生徒は公立学校に通えなくなり、公務員で電気技師だった彼女の父親のようなアルバニア系住民は職を失った。
彼らの平和的な抗議は、やがて激しい独立運動へと発展した。98年夏には、数十万ものアルバニア系住民が強制退去させられてしまう。そしてNATO介入後は民族浄化が激化し、何千人という民間人が殺害されて、その多くは場所を伏せた集団墓地に埋められた。
ボグジェビッチは、親族が埋葬されたポドゥイェバの墓地を訪ねたとき、女性たちの一団に出会った。セルビア当局に逮捕され、行方不明となった家族をしのぶ場所がなく、そこに集まったのだという。紛争による行方不明者はいまだ1600人以上もいて、残された家族はいつか埋葬場所が明らかになることを願っている。