この記事は雑誌ナショナル ジオグラフィック日本版2024年3月号に掲載された特集です。定期購読者の方のみすべてお読みいただけます。
認知症の人々が世界中で増えるなか、介護者や家族は本人が尊厳をもって生きられるような新しいケアの在り方を見いだしている。
娘たちが母親の行動に異変を感じ始めたのは、2012年のことだった。
娘の一人であるジャッキー・ボーハウアは、当時をこう振り返る。母親のナンシーはガラス作家で、当時70代前半だったが、ジャッキーの誕生日に電話するのを忘れ、携帯電話を失くし、請求書の支払いを失念し、合鍵をいくつも作った。症状が進むにつれ、ジャッキーが米国西海岸のカリフォルニア州ロサンゼルスの自宅から大陸を横断して、母親の住む東海岸のニュージャージー州に様子を見に行く回数は増えた。
ある晩、ジャッキーが母親のアパートに着くと鍵がかかっていた。それから数時間がたち、夜の10時半頃になって、ナンシーはキャスター付きのスーツケースを転がしながら帰宅した。中には大量のバスの時刻表、猫用のおもちゃ、壊れたクリスマス用の飾り、母親の代表作であるガラスのビー玉が一握り入っていた。娘を見た母親は、驚いた様子もなく言った。「あらジャッキー、何でこっちにいるの?」
後にナンシーは、まるで記憶にブラックホールがあるようだと娘たちに語ったそうだ。認知症だった。2017年に診断を受けた後、4年間を2カ所の認知症介護施設で過ごした。最初の施設は、認知症患者の問題行動を抑えるために使われることの多い抗精神病薬を多用する傾向があった。2カ所目の施設には、素晴らしい介護スタッフもいたが、人手不足で、認知症対応の訓練も十分ではなかった。また「施設」という雰囲気が強く、母親が庭に出ようとすると、重い扉の警報が鳴り響いた。
現在、認知症患者の数は世界全体で5700万人と推定されている。それが2050年には1億5300万人まで増加し、医療費と介護費は約2450兆円に達すると予測されている。
患者が増えている要因はまず、高齢者人口の増加だ。次いで肥満や糖尿病のような危険因子の増加。大気汚染の悪化もある。大気汚染は脳の健康を損なうことが研究でわかっている。そこに出生率の低下、すなわち介護者の減少という要素が加わる。「患者数が増えるほど状況は厳しくなるでしょう」と米ミシガン大学で認知症を研究するケネス・ランガは話す。
認知症患者のために優先されるべきことは、より人道的なケアだ。患者を支えている多くの人々が、そう痛感している。彼らは、発話に苦労する母親や、先立った妻が夕食に帰ってくると信じて待つ祖父の姿を見守るつらさを知っている。患者を一人の人間として見ているのだ。個人的な経験から生まれた強い信念が、旧来の認知症介護を見直し、全人的なケアを推進する人々を動かしている。
認知症を死と関連づけるのではなく、そこからどう「豊かに生きるか」が大事だと語るのはエルロイ・ジェスパーセン。北米初の大規模な「認知症村」であるカナダの「ビレッジ・ラングレー」の共同創設者だ。「その人がどんな人で、どういう人間でありたいと望んでいるか、どんなことに喜びを感じるか」――患者自身に注目すれば、人生を豊かにできると彼は言う。