家康の再来と倒幕派が評す「徳川慶喜」意外な辣腕 敵対勢力のもくろみを何度も打ち砕いた政治力

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薩摩、長州など倒幕派にとってやっかいな人物となっていた徳川慶喜(写真:近現代PL/アフロ)
倒幕を果たして明治新政府の成立に大きく貢献した、大久保利通。新政府では中心人物として一大改革に尽力し、日本近代化の礎を築いた。
しかし、その実績とは裏腹に、大久保はすこぶる不人気な人物でもある。「他人を支配する独裁者」「冷酷なリアリスト」「融通の利かない権力者」……。こんなイメージすら持たれているようだ。薩摩藩で幼少期をともにした同志の西郷隆盛が、死後も国民から英雄として慕われ続けたのとは対照的である。
大久保利通は、はたしてどんな人物だったのか。その実像を探る連載(毎週日曜日に配信予定)第19回は、15代将軍に就いた徳川慶喜と大久保利通との熾烈なかけひきについてお届けする。
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<第18回までのあらすじ>
薩摩藩の郷中教育によって政治家として活躍する素地を形作った大久保利通。21歳のときに父が島流しになり、貧苦にあえいだが、処分が解かれると、急逝した薩摩藩主・島津斉彬の弟、久光に取り入り、島流しにあっていた西郷隆盛が戻ってこられるように説得、実現させた。
ところが、戻ってきた西郷は久光の上洛計画に反対。勝手な行動をとり、再び島流しとなる。一方、久光は朝廷の信用を得ることに成功。大久保は朝廷と手を組んで江戸幕府に改革を迫るため、朝廷側のキーマンである岩倉具視に「勅使派遣」を提案。それが受け入れられ、勅使には豪胆な公卿として知られる大原重徳が選ばれた。
得意満面な大久保を「生麦事件」という不測の事態が襲うが、実務能力の高さをいかんなく発揮し、その後の薩英戦争でも意外な健闘を見せ、引き分けに持ち込んだ。
勢いに乗る薩摩藩。だが、その前に立ちはだかった徳川慶喜の態度をきっかけに、大久保は倒幕の決意を固めていく。閉塞した状況を打破するために尽力したのが、2度目の島流しになっていた西郷の復帰だった。復帰後、西郷は勝海舟と出会い、それまでの長州藩討伐の考えを一変させる。そして坂本龍馬との出会いを経て、薩長同盟へと至る。

徳川家康にも通じる入念な「根回し」を実行

「ようやく」という表現がぴったり来るだろう。慶応2(1866)年12月5日、徳川慶喜が二条城において将軍宣下を受け、第15代将軍に就任する。

第二次長州征討中に、第14代将軍の徳川家茂が病死したのが7月20日だから、実に約4カ月にわたって、将軍の座は空位だったことになる。慶喜にとっては、我慢の日々だったに違いない。「徳川宗家のみを継いで、将軍は継がない」という異例のスタンスで、周囲の空気を探っていた。

トップリーダーは周囲から強く熱望されたうえで、引き受けなければ、その後の組織運営に影響する。現代のビジネスにも通じる原則を慶喜はよく理解していた。

歴史を紐解いたならば、初代将軍の徳川家康ですら、関ケ原の戦いの勝利のあと、将軍就任にあたって入念な根回しを行っていた。

豊臣秀頼を慕う大名の存在を気にした家康は、朝廷からの要請に加えて、僧の金地院崇伝や、もともとは豊臣家に仕えた藤堂高虎から、あくまでも「薦められた」というかたちで、将軍宣下を受けている。金地院崇伝も藤堂高虎も家康のブレーン的存在であり、茶番も良いところだが、それくらい「リーダーを引き受ける形」を重要視したのだ。

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