明治の"熱海への足"は人が押す「人車鉄道」だった 国木田独歩も乗車、ラッパを吹きながら走る

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豆相人車鉄道の1等(上等)客車。人が押して軌道上を走った(写真:内田昭光氏提供)
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熱海駅前のロータリー広場の片隅に、小さな蒸気機関車が保存・展示されているのをご存じだろうか。機関車の前に立てられた説明板によれば、「車両の長さ3.36m、高さ2.14m、幅1.39m、重さ3.6t、時速9.7km」。日本の蒸気機関車の王様的な存在であるD51(デゴイチ)の全長が19.73mであるのと比較すれば、その小ささがよくわかる。

この「熱海軽便鉄道7機関車」は、明治の終わりから大正にかけて、熱海と小田原を結んでいた軽便鉄道で使われていたものである。

JR熱海駅前に保存されている「熱海軽便鉄道7機関車」(筆者撮影)

説明板には「熱海・小田原の所要時間 軽便鉄道=160分 東海道本線=25分 新幹線=10分」という興味深い数字も書かれている。軽便鉄道の旅は、現代の旅と比較すればずいぶんとのんびりとしたものだった。だが、軽便鉄道が登場する以前、熱海―小田原間には「人車鉄道」と呼ばれる、さらに原始的な鉄道が走っていたのである。これは文字どおり、レールの上の客車を人間が押すという乗り物であった。

「鉄道が来なかった街」への足として

熱海軽便鉄道の前身である「豆相人車鉄道」の開業には、東海道線のルート選定が関係している。1889年、東海道線は国府津駅―静岡駅間が延伸開業したが、天下の険である箱根を迂回するため、現在の御殿場線に当たるルートが選定された。その結果、江戸時代に宿場町として栄えた小田原や、古くから温泉地として知られていた箱根・熱海では、鉄道が来ないことによる街の衰退、陸の孤島化が危惧され、鉄道誘引の機運が高まった。

1888年に国府津―小田原―箱根湯本間を結ぶ小田原馬車鉄道(箱根登山鉄道の前身)が一足先に開業すると、熱海では“軽便鉄道王”として知られた雨宮敬次郎が中心となって人車鉄道の建設が進められた。当時、熱海温泉は名湯として知られていたものの、30軒ほどの旅館が軒を連ねるにすぎず、採算を考慮した結果、人車が採用されたのだという。

こうして1895年7月に熱海―吉浜間、翌1896年3月に小田原(現在の早川口)まで全線25.6kmが開通した豆相人車鉄道であったが、実際に営業してみると、車夫の人件費がかさんで思うように利益が上がらず、1907年(文献によっては1908年)には動力変更(蒸気)し、前述の軽便鉄道になった。

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