怒る武田信玄が猛攻、家康の窮地救った忠臣の正体 「3年間のうっぷんを晴らす」信玄が怒った根本原因

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浜松城
徳川家康が拠点にしていた浜松城(写真:ryuukikou/PIXTA)
NHK大河ドラマ「どうする家康」の放送で注目を集める「徳川家康」。長きにわたる戦乱の世に終止符を打って江戸幕府を開いた家康が、いかにして「天下人」までのぼりつめたのか。また、どのようにして盤石な政治体制を築いたのか。
家康を取り巻く重要人物たちとの関係性をひもときながら「人間・徳川家康」に迫る連載『なぜ天下人になれた?「人間・徳川家康」の実像』(毎週日曜日配信)の第19回は、家康と武田信玄が対立することになった理由について解説する。
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徳川家康を深く恨んだ武田信玄

徳川家康といえば、織田信長との同盟を堅持したこともあって「義理堅い」というイメージが強い。しかし、ある戦国武将ならば「家康ほど自分勝手で信用できない相手はいない」と怒りにふるえることだろう。その武将とは「甲斐の虎」として知られる武田信玄である。

好き放題にふるまう家康に対し、信玄は相当な怒りを抱いていたらしい。元亀3(1572)年10月21日付で、山家三方衆の奥平道紋(奥平貞勝)に宛てて、こんな書状を送っている。

「五日之内越天竜川、向浜松出馬、可散三ケ年之鬱憤候」

5日の間に天竜川を越えて、浜松に向け出馬して、3年間の鬱憤(うっぷん)を晴らす――。3年にもわたる家康への恨みとは何なのか。書状から3年前の1569(永禄12)年に行われた家康の動きに注目したい。

信玄と家康は「ともに今川領を切り取っていこう」と手を結んだにもかかわらず、永禄12年、家康は勝手に今川氏真を助命し、北条とも和解。信玄との甲三同盟を一方的に破棄している。氏真は妻の実家である北条氏のもとへ置かれることになった。しかも、その翌年には、家康は信玄の宿敵である上杉謙信と「越三同盟」を結んでいる。

信玄からすれば、家康は自分より格下だと思っていただけに、家康の暴走はなおさら腹立たしかったことだろう。だが、一方の家康からすれば、先に約束を破ったのは信玄だという思いがあった。どういうことだろうか。

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