『アイリッシュマン』は、家の小さな画面で繰り返し観るためにつくられている:映画レヴュー

アル・パチーノやロバート・デ・ニーロといった大物俳優が出演しているNetflixの映画『アイリッシュマン』。監督であるマーティン・スコセッシは、全編に散りばめられた巧妙な表現によって、3時間半にわたる長編映画を「繰り返し観るための作品」に仕上げている。映画批評家のリチャード・ブロディによるレヴュー。
『アイリッシュマン』は、家の小さな画面で繰り返し観るためにつくられている:映画レヴュー
PHOTOGRAPH BY NETFLIX

Netflix映画『アイリッシュマン』を、初演だったニューヨーク映画祭の大きなスクリーンで鑑賞した。その後、自宅で改めてNetflixで観たのだが、この映画はNetflixで観たほうが断然面白く、スリリングだった。

この映画を気に入った理由を考えるとき、マーティン・スコセッシ監督ならではの特異な芸術的手腕と彼の選択、そして家で観たときに余韻として残された感情や考えのことを切り離すことができない。

『アイリッシュマン』の上映時間は約3時間半ある。このため家で観たときには、ありきたりで実際的な理由のほかにも、何度も休憩を入れた。湧き上がってくる感情や思考、完璧な美しさに圧倒され、何度も映画を止めて感慨にふけり、少し前に戻ってもう一度観る。この方法では観終わるまでに5時間近くかかった。いい一日の過ごし方である。

巧妙に組み合わされた3つの構成

何度も止めて感慨にふけった理由のひとつは、話の構成が非常に複雑であることだ。

『アイリッシュマン』は、フランク・シーラン(ロバート・デ・ニーロ)の物語である。フランクは1950年ごろ、スーパーマーケットチェーン向けに冷凍肉を運搬するトラックの運転手で、フィラデルフィアを拠点に仕事をしていた。屈強な男たちが集うバーに出入りしていたところ、地元のギャング(ボビー・カナヴェイル)に取り入るために運搬していた牛肉を盗み、ギャングに横流しすることになる。

その後、マフィアの大物ボスであるラッセル・ブファリーノ(ジョー・ペシ)の仲間となり、暴力的な仕事をこなしていく。こうした仕事における成功と失敗を積み重ねながら、フランクはヒットマンになっていく(仲間うちでの通称は「家のペンキ塗り」だ。壁についた血をどうするか想像してほしい)。

そしてフランクは、全米トラック運転手組合の指導者であるジミー・ホッファ(アル・パチーノ)のボディーガード兼右腕になる。ホッファは75年に突如として失踪し、いまだに行方がわかっていない人物だ(そしてフランクは、この失踪について何か言うことがあるらしい)。

この物語(脚本はスティーヴン・ザイリアン)は、巧妙に組み合わされた3つの構成で語られる。まず、年老いたフランクが老人ホームで過去を回想するシーンだ。この回想においては、ふたつのレイヤーがフラッシュバックする。ひとつ目は、75年のラッセルを伴ったロードトリップ。ふたつ目はフランクがラッセルと初めて出会った場面で、そこから順を追って75年に追いつき、そのまま75年以降も描かれる。

『ウルフ・オブ・ウォールストリート』と『アイリッシュマン』

わかりきった話ではあるが、『アイリッシュマン』は精緻に描かれた生死にかかわる交渉シーンと、マフィアの一派が形成されていく血塗られた争いについての暗示に満ちている。

現実でのホッファは当時、(映画で描かれている通りに)政治的にも文化的にも重要な人物だった。全米トラック運転手組合の委員長を務め、ギャング界でも、実際の政治でも重要なプレイヤーだったのだ。

さらに、この作品を通して重要であることは、ギャングと政治は切り離せないという点である。『アイリッシュマン』は社会政治的なホラーストーリーで、米国現代史の多くを犯罪の連なりと捉えている。地方企業、大企業、国内政治、国際政治まであらゆるものが、汚職や贈賄、怪しい取引、不正な金、暴力の脅威と陰惨な法律、不当な免罪によって汚されており、それがシステム全体を動かし続けているいう見方だ。

ところが、2度目に鑑賞したとき(家で子細に見直した回だ)には、ぞっとする政治的な面よりも、メタファーのような面が際立っていた。スコセッシは単に一連のスキャンダルを見せているのではなく、社会の実存的なヴィジョンや人類のインモラルな本質、そして人々が現実を直視しつつ着飾るさまを描いていたのだ。

今回の視聴では胸を打たれた。『アイリッシュマン』が、スコセッシの宗教的な映画のなかで最もひねくれていて世俗的な作品であり(あるいは世俗的な映画のなかで最も宗教的な作品と言えるかもしれない)、誘惑と破滅の巨大なフレスコ画のようであり、そしてスコセッシの最近の傑作、13年公開の『ウルフ・オブ・ウォールストリート』と対になっているようにも感じたからだ。

ペテン師ののし上がりと衰退、そしてスケールダウンした復活を描いた、セックスとドラッグまみれの『ウルフ・オブ・ウォールストリート』は、近代映画で最も独特なシーンで幕を閉じる。このシーンは狂気を消費するなかで、映画のテーマを貪欲と欲望まみれの人々から、観衆、平たく言えば一般大衆へと変えるのだ。

静寂がもつ大きな役割

スコセッシは『アイリッシュマン』でも、『ウルフ・オブ・ウォールストリート』に似た手法を用いている。ドラマのなかで、ある一連の「しぐさ」を例外的に示すことで、非常に強力な役割をもたせているのだ。

このしぐさは、ある登場人物によって特に強烈に示されている。ギャングたちのアクションの裏で、ほとんどアクションが目立たないような人物だ。それでも、家の小さなスクリーンで繰り返し観てみると、そのしぐさと人物の存在は痛烈に感じられた。

そのしぐさとは静寂、具体的には静かに見つめることだ。そして、この人物とはペギーのことである。ペギーはフランクと最初の妻メアリー(アレクサ・パラディノ)との間の4人娘のひとりで、幼少期をルーシー・ガリナが、10代から大人をアンナ・パキンが演じている。

ペギーは作品を通して傑出した存在だ。フランクのことを完全に拒絶しており、それがフランクにとって癒えない傷となっている。そして、作品を通してほんのわずかしか喋らない。

こうした性格の大部分は事実に基づいている。だが、ペギーの(相対的な)静寂がどのような役割を果たしているのかは、史実とはまったくの別物だろう。この作品の目的、コンテキスト、そして主題である人間関係のなかでペギーがもつ重要な役割は、わたしの心を確かに打った。

ペギーにスポットライトを当てることは、スコセッシの重要な芸術的選択だろう。その選択が、自宅で鑑賞する際の心地よさを生み、何度も繰り返し観るに値する作品をつくりだしたのである。

鋭い観察者としてのペギー

映画の序盤、50年代の後半ころ、幼いペギーは生涯の心の傷となる出来事のただなかにいた。食料品店でうっかり棚の商品を落とした際、店主がペギーを小突いたのだ。

フランクはそのことを知ると、ペギーの手を引いて食料品店に向かい、ペギーの目の前で店主を店のガラスの扉に押し倒し、頭を蹴り、骨が折れる音が聞こえるなかで手を何度も踏みつけた。恐怖で声も出ないペギーや、ほかの通行人の目の前でだ(誰も何も言わないのは当然だろう。告げ口をするとどうなるのか、みなわかっているのだから)。

ペギーの恐怖は、その後まもなく、用心深くて打算的なラッセルへの嫌悪に表れる。ラッセルはシーラン一家とよく一緒に過ごしている(そしてペギーと打ち解けようとする努力が日増しに顕著になるが、それと逆行するようにペギーに拒絶されていく)。

ペギーの本質は、ホッファへの親愛に表れている。ホッファもまた、シーラン一家とよく一緒に過ごしている人物だ。ホッファが組合の指導者として全米トラック運転手組合の組合員向けになし遂げた素晴らしい業績(賃金の上昇、年金制度、医療給付)が、ペギーの愛情をホッファに引き付けることになった(もちろん、ホッファの開放的な人柄もだ)。

ペギーはフランクの前ではあまり話さなかったし、フランクの人生から消えるときに、ペギーは言うべきことをはっきりとは口にしなかった。しかし、ペギーが考えていることは手にとるようにわかるのだ。そして、ペギーが何を知っているのかも。

ペギーが知っていたのは、父親が極悪非道な一味に関係していたことだけではない。彼女は作品を通して重要な瞬間に登場する、鋭い観察者なのだ。彼女は事件の裏側で何が計画されていたのか、これからどんな破壊的行為が実行されるのかを、組合の役員や政治家、法執行機関の役人はもちろん、ほかのギャングたちよりもはるかに鋭く見破り、識別していた。

しかも、ペギーはただ傍観していたのではなく、残酷で暴力的な人たちを心の底から横目で見ていた。ペギーも彼らのうちのひとりだったのだ。もちろん、ペギーは暴力的ではない。しかし、同じ気質をもっている。同じ洞察、同じ無情で明快な観察力、同じ眼識の鋭さをもち合わせているのだ。

沈黙という「カインの刻印」

しかし、ペギーの強力に射抜く目線は、ほかと自らを隔絶するものではない。むしろ彼女の沈黙は、ほかの沈黙と同じ気質をもっている。

『アイリッシュマン』を理解するうえで重要な瞬間は、そして犯罪者間の信頼における重要な絆の中心にあるのは、沈黙だ。ペギーの沈黙は、法廷で黙秘するためにやり取りを暗号や沈黙でこなさなければならないギャングたちはもちろん、フランクやラッセルとも同じ種類で、同じ気質、同じレヴェルのインサイトをもっている(「家のペンキ塗り」という婉曲的な表現さえも、この物語の中心にある策略を示唆している)。

ペギーはフランクやラッセルと同じように、自分も沈黙が力をもつ側にいることに気付いている。それに対し、ホッファは沈黙と対極にいる。ホッファは喋りのうまい壇上の演説家であるのみならず、1対1や“ビジネス”の話し合いといったプライヴェートな場面ではよく考えずに口走ってしまう。

ペギーは単にホッファの政治的な演説に惹かれたのではない。ホッファが自分たちとは違うから、ホッファがおしゃべりだから明らかな信頼を寄せていたのだ。フランクもよどみない映画のナレーションで、自分の人生と仕事、それもフランクとラッセルの間の決定的な瞬間について説明している。それでも、ヒットマンとしての仕事を請け負うときは口をつぐむのだ。

『アイリッシュマン』を観る価値は、こうした静寂にある。そしてその静寂は、家で観るとひときわ染みる。

フランクとラッセルが絆を強める場面のひとつに、フランクが第二次世界大戦でイタリアに出兵した経験をラッセルに話すところがある。そこでも、フランクの説明には静寂が染み渡っている。そして、血にまみれた結末を導く。

この作品の静かな目線は、それが破滅的な仕返しをする犯罪者を守る恐怖に満ちた沈黙だろうと、犯罪者が互いを守る忠義の沈黙だろうと、または犯罪者の互いのやり取りの象徴的な静寂であろうと、非常に見ごたえがある。こうした沈黙の目線は、「カインの刻印」なのだ。

ペギーの沈黙も冷酷で汚れたものだが、最後には簡単に、決定的に、批判的に、本質的に、そして訴追者のようにこの沈黙を破り、フランクに破滅的な影響を及ぼす。フランクと彼がいる世界に対するペギーの究極的な拒絶は、修道女のような隔絶なのだ。

フランクと同じ才能、同じ頭脳、同じ大胆さに恵まれたペギーは、フランクが犯罪生活のために断念した日常生活を選択する。劇中、それは人間同士の接触から切り離された、ガラスの後ろの生活として描かれる。(『アイリッシュマン』という政治的、歴史的、家族的なドラマにおけるもうひとつの「カインの刻印」を知りたいなら、たびたび繰り返される「限界だ(It’s what it is)」というセリフに注意しながら観るといい)。

繰り返し観るためにつくられた映画

沈黙の視線と、和解できない権力に必然となる静寂の力を、スコセッシは明確に理解している。映画史におけるこうした要素の歴史的な役割を熟知した彼は、それを前面に出し、視聴者の目に焼き付けるのだ(本作の編集を担当し、長年スコセッシに協力するセルマ・スクーンメイカーは、こうした瞬間をまるでカミソリの刃のように輝かしく、鋭く仕上げた)。その手法は、ラッセルがフランクにリスクの高いいちかばちかの命令をするシーンで顕著である(これ以上のネタバレはやめておこう)。

早朝の静かなモーテルのレストラン。決定的な瞬間に、ラッセルをじっと見つめるフランクは、カメラにまっすぐ視線を向けている。数分後にも、同じような沈黙がおりる。この沈黙は、『ウルフ・オブ・ウォールストリート』のラストシーンで、ペンをどうやって売ろうかと奮闘し、ジョーダンに憧れるセミナー参加者の視線と同様に、すさまじい威力をもっている。

ただし『アイリッシュマン』が異なるのは、それが無知からくる必死な目線ではなく、絶望的な認識、そして計り知れない孤独という、フランクの精神的な試練に近いものであることだ。

『アイリッシュマン』の全体に散らばるディテールは、自宅で鑑賞すると雷のようにいっそう際立つ。意識的であろうとなかろうと、スコセッシは明らかに、繰り返し視聴した人に報いるようにこの映画を構成した。さらに言うなら、ノートパソコンやスマートフォンによる詳細で繰り返し視聴できるスタイルに報いたと言えるだろう。

この作品は、視覚的側面を非常に重視している。スコセッシの以前の作品では、こうした側面はあまり顕著ではなかった。しかし『アイリッシュマン』は、テレビドラマではない。長編映画だが、主にストリーミング事業に携わっているスタジオ向けに制作されたもので、ストリーミング体験ならではの利点を得ている。

『アイリッシュマン』をあるべき姿にするための制作費を差し出したのは、ネットフリックスだけだった。同社だけが、デ・ニーロ、ぺシ、パチーノに精巧なデジタルテクノロジーを適用し、何十年にもわたる年齢の役を演じられるようにしたのだ(スコセッシは当代で最も偉大なデジタルアーティストのひとりだ。この映画は『ウルフ・オブ・ウォールストリート』に劣らずデジタルテクノロジーに頼っており、スコセッシはほかの誰よりも大胆にテクノロジーを使用する)。

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同じ役者を使い続けるとう決断は、合理的というよりも、必要不可欠だった。この映画にはフランクたちのように、史実とまったく同じ瞬間、同じ力、同じトーンとムードによって特徴づけられる役者が登場する。これにより、映画が仮想ドキュメンタリーに変わるのだ。

アイリッシュマンは恐怖を描いた映画である。それは、単に冷酷な犯罪者の致命的な脅威に対する恐怖ではなく、むしろそのような犯罪者によって支配された世界で機能しかたちづけられることによって、ともに罪を担うことが避けられなくなるという恐怖だ。アイリッシュマンは、社会や人類だけでなく、自分の魂をも恐れる映画制作者によって制作された映画なのである。

リチャード・ブロディ|RICHARD BRODY
映画批評家。1999年から『ニューヨーカー』に映画のレヴューなどを寄稿。特にフランソワ・トリュフォー、ジャン=リュック・ゴダール、ウェス・アンダーソンに詳しい。著書に『Everything Is Cinema: The Working Life of Jean-Luc Godard』など。


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TEXT BY RICHARD BRODY

TRANSLATION BY YUMI MURAMATSU