中国発の決済サーヴィス「Alipay」運営企業は、悪化する米中関係のなか飛躍できるか

中国のモバイル決済アプリ「Alipay(アリペイ、支付宝)」が快進撃を続けている。Alipayを運営するアント・グループの新規株式公開が実現すれば世界最大級の金融サーヴィス企業の仲間入りを果たすことになるが、緊張が高まる米中関係が深刻な影を落としかねない。
中国発の決済サーヴィス「Alipay」運営企業は、悪化する米中関係のなか飛躍できるか
アント・グループは米国の金融ITスタートアップ各社の“手本”のような存在にもなりつつある。 PAUL YEUNG/BLOOMBERG/GETTY IMAGES

上海の出版社で働くシャン・リーは、中国のモバイル決済アプリ「Alipay(アリペイ、支付宝)」が手放せないという。この一週間で夕食の宅配サーヴィスの注文と支払い、映画のチケット購入、光熱費の支払い、自転車のレンタルにこのアプリを使った。「Alipayは、わたしのライフラインなんです」と、彼女は言う。「最後に現金を使ったのはいつだったか思い出せません」

彼女は決して突飛な例ではない。毎月7億1,100万人を超える消費者と、8,000万店舗以上の加盟店がAlipayを利用しており、2020年6月末までの12カ月に発生した決済額は118兆元(約1,816兆円)に上る。

Alipayの登場により、中国の大都市圏では現金がほとんど前時代のものになってしまった。ごく小さな商店や食堂、市場の露店での支払いも、その場でQRコードを提示したりスキャンしたりするだけで済んでしまうのだ。

支払い機能のほかに、Alipayは驚くほど多くの関連サーヴィスを提供している。例えば、QRコードをスキャンしてAlipayアプリからメニューを呼び出し、店の人と顔すら合わせずに料理を注文できるレストランがたくさんある。タクシーを呼ぶ、荷物を送る、携帯電話のプランに細かなサーヴィスを追加するといったことのほか、ヴィデオを通じて医師の診察を受けることさえ、このアプリひとつでできてしまう。

ユーザーの好みや生活習慣に合わせて、Alipayは親会社が運営するネット通販サイト「淘宝網(タオバオ))」が扱う商品の情報も提供している。「Alipayはわたしたちの生活を、何から何までカヴァーしようとしているのだと思います」とリーは言う。

欧米企業も追随

Alipayを運営するアント・グループ(螞蟻科技集団)は、20年の最大規模となる見込みの新規株式公開(IPO)に向けて準備を進めている。このIPOによって、金融とテクノロジーの融合における中国の躍進ぶりと、世界進出への意欲のほどが明確に示されるはずだ。

なにしろ中国では人口のおよそ65パーセントがデジタルウォレットを利用しており、この数字は世界のどの国よりも多い。Alipayは、そのうち55パーセントを占めている。

欧米企業も次々とアントに追随している。「Apple Pay」「Google Pay」「PayPal」などが、近距離無線通信(NFC)やQRコードを使ったスマートフォン用の決済サーヴィスを展開している。米国では、ソーシャルメディアなどから得た個人情報を基に小口の融資を展開するAffirmやLendUpのようなスタートアップも現れている。

投資会社ARK Investのアナリストで決済と金融におけるイノヴェイションを研究しているマキシミリアン・フリードリッヒによると、モバイル決済のほかに銀行取引や投資などの機能を併せもつSquareの決済アプリ「Cash App」は、アントのビジネスモデルをまねているようだという。しかし、事業規模や多様性、中国のeコマース最大手のアリババ(阿里巴巴)との結びつき、人工知能AI)の活用といった点で、アント・グループにかなう企業はどこにも存在しない。


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AIと個人情報を駆使

とはいえ、アントも大きな課題をいくつか抱えている。あまりに手広く事業を展開している上に、政府系銀行と競合関係にあることから、中国の国内では政府の監視対象になっているのだ。個人情報の収集に積極的であることや、中国政府との結びつきを噂されていることで、特に海外での事業が拡大するにつれプライヴァシーに関する懸念を引き起こす可能性もある。

また、このままアントが業績を伸ばして海外での存在感を高めることによって、米国が対中政策をますます強硬化することも考えられる。この件に関してアントにコメントを求めたが、拒否された。

Alipayの利便性を支えているのは、AI技術やこれまでに蓄積された個人情報を使って構築された戦略だ。例えば、Alipayで自転車やクルマをレンタルする場合、デポジットの支払いが必要かどうかアプリに査定されているかもしれない。その際、従来のようにクレジットカードの支払履歴に基づく信用スコアを分析されるほかに、どんな友人がいるか、どんなアプリをインストールしているか、果てはバッテリーを充電する頻度といった、思いもよらない目安が使われているかもしれないのだ。

「アントのビジネスのいたるところにAI技術が使われています」と、マサチューセッツ工科大学(MIT)の教授で、同社の研究プロジェクトに何度か協力した経験をもつホイ・チェンは言う。チェンは、アントの子会社でAlipayを通じて中小企業向けの融資を展開しているネット銀行のMYbank(網商銀行)を例に挙げる。

チェンによるとMYbankは、3,000を超える変数を用いるリスク管理モデルを使用しており、変数は常に少しずつ更新されているという。同行のシステムにはコンピューターヴィジョン、音声認識、自然言語処理、財務予測などの技術が用いられていると、チェンは言う。「融資判断はほんの数分で下されます。その間、人間の銀行員は一切関与しません」

スマートフォンの普及に合わせて急成長

Alipayは、ジャック・マーが創業した中国のeコマース最大手アリババ傘下の企業として、04年に誕生した。取引が確定するまで購入者から代金を預かることで、安全を担保するために設立された会社だ。

そのころ中国では、クレジットカードをもつ人はまだほとんどおらず、現金決済が一般的だった。ところが、この仕組みによってネット通販が急速に発展した。Alipayはまた、売り手側の信用を証明する手段にもなった。

2009年にはスマートフォン用デジタルウォレットのサーヴィスも開始している。クレジットカードの普及率が低い一方で、スマートフォンの利用者は非常に多いという当時の中国の状況に助けられ、このサーヴィスは急速に成長した。利用者数は最初の6カ月で1億人から1億5,000万人に増えている。アリババは11年に、Alipayにアント・フィナンシャルの社名を与えて独立させている。同社は20年に再び改称し、アント・グループとなった。

独立後のアントは決済ビジネスの多様化を進め、金融サーヴィス企業として幅広い分野で成長を続けてきた。現在、デジタル決済とその周辺サーヴィスから得られる利益は、アントの全収益の半分に満たない。利益の大部分を稼ぎ出しているのは、さまざまな金融サーヴィスを提供する子会社10数社による、融資と資産管理業務である。

20年1月時点で、アントのマネー・マーケット・ファンド(MMF)であるYueBao(ユエバオ、余額宝)の資産管理額は1,570億ドル(約16兆5,000億円)に上る。同種のファンドとしては、JPモルガンとフィデリティに次ぐ世界第3位の規模を誇っている。

上場計画が浮き彫りにしたこと

その事業規模の大きさから、アントは中国で規制の対象にされている。中央銀行である中国人民銀行は20年9月、同社を19年に発議された新金融規制の対象とすることを確認した。また中国人民銀行は、独自のデジタル通貨の開発やQRコードの新たな規格づくりを進めており、このことがアントのビジネスに思わぬ影響を与える可能性もある。

ハーヴァード大学教授で中国ビジネスが専門のウィリアム・カービーは、アントには中国の国有銀行群をはるかに凌駕し、弱体化させるほどの革新性と有用性があると語る。「中国におけるアントの事業拡大を阻んでいるのは、国有の各銀行と政府当局が抱える不安感であると言っていいでしょう」と、彼は指摘する。

いまのところアントは、減速することなく成長を続けている。19年の収益は25億ドル(約2,635億円)であったと同社は発表している。新型コロナウイルスの世界的流行による個人消費の落ち込みに影響を受けたとしているが、20年上半期は38パーセントの増益を記録しており、巧みに難局を乗り切っていることがうかがえる。

アントは香港証券取引所と、上海証券取引所に新たに開設されたテック産業中心の株式市場STAR(科創板)に、株式の10~15パーセントを分割して同時上場する計画を立てている。評価額は2,000億ドル(約21兆837億円)前後と見込まれ、アントは世界最大級の金融サーヴィス企業の仲間入りを果たすことになる。なお、競合各社の企業価値はペイパルが2,060億ドル(約21兆7,185億円)、マスターカードが3,350億ドル(約35兆3,190億円)とされている。

香港と上海の両証券取引所への上場計画には、米中関係悪化への不安感がはっきりと表れている。親会社のアリババが14年の株式公開の際に上場したのは、米国のニューヨーク証券取引所であった。

深刻化する米中関係の影響

アントはまた、投資と買収を通じて国際市場における意欲的な事業拡大を進めてきた。すでにシンガポール、香港、英国、米国で企業買収を展開し、19年11月にはインド最大手の電子決済サーヴィス企業Paytm(ペイティーエム)に10億ドル(約1,054億円)を投資している。

しかし、アントが計画していた米国の送金サーヴィス企業MoneyGram(マネーグラム)の買収は、18年1月に国家安全上の理由から米政府によって阻止されている。それより前の16年に、アントは眼の虹彩認証技術を有するカンザス州のテクノロジー企業EyeVerify(アイベリファイ)を買収している。

そのころから米中関係は悪化の一途をたどっており、最近ついに米政府は国内で業績を伸ばしている中国製アプリの追放に乗り出した。トランプ政権は20年9月18日、人気の動画アプリ「TikTok」と、多くの在米中国人が利用するメッセージアプリ「WeChat(微信)」の使用を禁止すると発表したのだ。

「アントにとって危険なのは、米国政府が独自の判断で、中国人の客からAlipayでの支払いを受けないよう全米の商店主に命ずることもできてしまうことです」と、カービーは言う。

世界的なフィンテック企業へと成長できるか

個人情報の流用が懸念されていることや、中国政府とのつながりを疑われていることが、海外市場におけるアントの成長に影響を与える可能性もある。アントの技術力は、国民の行動を把握し、評価しようとする中国政府の思惑と結びついている。だが、その結びつきが実際にどのようなものであるかは不透明なままであり、政府の具体的な考えも明らかになっていない。

この試練を乗り切ることができれば、アントはAI主導型フィンテック企業の世界的拡大の波に乗る、絶好のポジションを確保できるかもしれない。アントはIPOで見込まれる収益の40パーセント、すなわちおよそ120億ドル(約1兆2,638億ドル)を、研究開発に投じる予定だとしている。

アントは「すでに世界中のさまざまな市場に参入しています」と、ARK Investのフリードリッヒは言う。「世界のあらゆる国、市場、経済が、遅かれ早かれこうしたデジタルウォレットの台頭を目の当たりにすることになるでしょう」

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TEXT BY WILL KNIGHT

TRANSLATION BY MITSUKO SAEKI