「新建築圏」はどこに創造されたのか?:現代美術のアルケオロジー第3回「分離派建築会100年 建築は芸術か?」

世界に批評的な視点をもたらす「現代美術」の表現の深層には、必ずや人類学的、民俗学的な文脈が流れている。気鋭の民俗学者・畑中章宏が現代美術を読み解く連載第3回は、日本で最初の建築運動、建築運動体といわれる「分離派建築会」が8年という短い活動期間において、先端的な理念とデザインで建築史にいかなる問題を提起していったのかを探る。
「新建築圏」はどこに創造されたのか?:現代美術のアルケオロジー第3回「分離派建築会100年 建築は芸術か?」
京都国立近代美術館「分離派建築会100年 建築は芸術か?」展示風景(撮影:若林勇人)

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先鋭な設計・言論活動を展開

日本で最初の建築運動、建築運動体だといわれる「分離派建築会」は、1920(大正9)年に東京帝国大学建築学科の卒業を控えた学生によって結成された。結成時のメンバーは、石本喜久治、瀧澤眞弓、堀口捨己、森田慶一、矢田茂、山田守の6人で、その後に大内秀一郎、蔵田周忠、山口文象が加わる。彼らは28(昭和3)年までという短い期間だったが、作品展と出版活動をとおして、先鋭な設計・言論活動を展開していった。

習作展における集合写真。(前列左から)矢田茂、山田守、石本喜久治、(後列左から)森田慶一、堀口捨己、瀧澤眞弓。1920(大正9)年2月3日、撮影者不詳。写真提供:NTTファシリティーズ

「分離派建築会100年 建築は芸術か?」の展覧会場である京都国立近代美術館3階のエントランス・スペースには、分離派建築会の構成員が設計した建築のうち、現存作品の撮り下ろし写真(撮影:若林勇人)が、大きく引き伸ばされて展示されている。

分離派宣言の朗読が流れるこの空間に掲げられた写真10点のうち、多くの観覧者に見覚えがあるのは、東京お茶の水の「聖橋」くらいだろうか。京王線の沿線に住む人なら、聖蹟桜ヶ丘にある「旧多摩聖蹟記念館」は観に行ったことがあるかもしれない。

前者は山田守が設計したものだが、神田川に架かるこの橋を、渡る人も見る人も、建築だと認識していないのではないか。しかし、この橋を設計した建築家が、「日本武道館」(64年)や「京都タワー」(同年)を設計したと聞かされると、初めて驚きの声をあげることだろう。後者は蔵田周忠が設計したもので、現存作品のなかでは、分離派の個性を最も強く感じさせる要素を含んでいる。

分離派はグループとしての活動期間が短かったせいもあり、21世紀の現在からその活動を顧みるには、今回の展覧会のように図面や写真、資料をよりどころにするしかない。しかしそれでも、建築史にくさびを打ち込んだ先端的な理念とデザインは、こうした形であっても重要な問題提起しているといえるだろう。

関東大震災の前と後

この意欲的な展覧会は7つのパートから、分離派の建築思想と活動を、歴史的かつ多面的に明らかにしようとする。

分離派建築会は20年の夏に第1回作品展を開催し、卒業設計を発表した。〈第Ⅱ章 大正9年『我々は起つ』〉で展示される山田守の「国際労働協会 正面図」、瀧澤眞弓の「山岳倶楽部 正面図」の曲線を活かした大胆なフォルムは、様式建築を超えようとする彼らの意志を強く感じさせる。

山田守 卒業設計 国際労働協会 1920(大正9)年 東京大学大学院工学系研究科建築学専攻

分離派建築会の社会的デビューは、「トピック1・平和記念東京博覧会一分離派建築会のデビュー」で取り上げられ、この博覧会の3年後に起こった関東大震災とその復興については、「トピック2・ 関東大震災一新しい東京」で光があてられる。

22(大正11)年に上野公園で行なわれた平和記念東京博覧会は、第一次世界大戦終結後の平和を記念して開催され、伊東忠太と佐野利器が展示施設の顧問を務めた。この博覧会では、分離派建築会の堀口捨己、瀧澤眞弓、蔵田周忠らの作品も展示され、彼らの理念の一端が初めて社会的に披露されたのである。なお、博覧会の来場者は約1,100万人にも及んだ。

華々しいデビューを飾った分離派だったが、前述したようにこの博覧会3年後、23年に関東大震災に向き合うことになる。甚大な被害をもたらした大災害からの復興にかかわるなかで、分離派も、都市を舞台に理念の実践を果たすことになる。

山田守が設計した東京中央電信局(25年)、森田慶一の京都帝国大学楽友会館(同年)、石本喜久治による東京朝日新聞社社屋(27年)などがその成果である。

またそれ以前、関東大震災の翌年には国民美術協会主催の「帝都復興創案展覧会」が上野公園竹之台陳列館で行なわれ、そこにも分離派のメンバー招待されている。この展覧会計画の中心人物は、当時国民美術協会側の建築部主任で、のちに「考現学」で知られるようになる今和次郎だった。

バラック装飾に対する批判

今和次郎は、関東大震災発生直後に震災バラックの採集と分析(いまはそれをシェルター→ハット→バラックの変化というふうに捉えた)に取り組んでいたが、その後は一転して、バラックに装飾の手を加える活動を始めた。

「バラックを美しくする仕事一切──商店、工場、レストラン、カフェ、住宅、諸会社その他の建物内外の装飾」(「バラック装飾社宣言文」)とうたい、装飾美術家団体「尖塔社」や前衛芸術家団体「アクション」などから構成されたバラック装飾社は、開進食堂(日比谷公園)、東條書店(神田)、カフェー・キリン(銀座)、堀金物店(芝)などを、次々と装飾していった。震災後にバラック装飾を手掛けたのはバラック装飾社だけではなく、当時の最前衛だった村山知義が率いる「MAVO(マヴォ)」も理髪店などを装飾している。

一過性であることを逆手にとり、震災直後の東京に流動的で優美な曲線を躍動させたバラック装飾社の活動とそのデザインは、自分たちこそが先端的だと自認していた分離派から批判を浴びることになる。今和次郎や村山知義たち「芸術家」による社会的な活動を、分離派のメンバーは見過ごすことができなかったのだ。

瀧澤眞弓 山の家 模型 1921(大正10)年 再制作:1986年 瀧澤眞弓監修 個人蔵

瀧澤真弓はバラック装飾について、「建築の真実の上に立つ主要な原理を持たない装飾は、死んだ花に過ぎず」「虚偽のファンタジーを作っているに過ぎない」、そしてその作者らの「疲れて、興奮し、酔っぱらった頭脳で造られた」建築は、「余りにも自己満足に満ち、単なる看板に堕している」と断定したのである。さらに、「建築の壁面は絵描きや装飾家のキャンバス」ではないというところに、分離派の矜持もみえる。

そもそも、この瀧澤の文章自体が「ペンキ屋へ 大工よりの抗弁」と題されているように、分離派が「大工」であるのに対して、バラック装飾社を「ペンキ屋」と揶揄し、蔑む意図が明らかなものだった。

瀧澤の批判に対する今和次郎の反論は、「装飾芸術の解明」と題して、建築にとっての装飾の意味を根底的に問い直す内容になっている。分離派に対して、その偏狭なエリート意識を批判するとともに、自分たちが目指す建築美を謳いあげたのである。

都市に芸術を、建築に芸術を導入しようとした点で、バラック装飾社と分離派とのあいだに大きな齟齬はなかった。しかし前者のほうがより生活者に即し、後者はあまりにも理想主義的で理念が勝ち過ぎたのではなかったろうか。

都市から農村へ

分離派建築会は都市での夢を追っていたわけではなく、農村にも目を向けていた。

瀧澤眞弓の「日本農民美術研究所」(22年)は同郷の画家・山本鼎の農民芸術運動のために設計したものである。この運動は大正時代中期から昭和初期にかけて、長野県小県郡神川村(現在の長野県上田市)を拠点に展開された、ユニークな文化芸術運動である。

この研究所の建物自体は急勾配屋根の木造民家風で、分離派が目指した先端的なデザインとはかけ離れているかもしれない。しかし、民家研究家でもあった今和次郎が、積雪地方農村経済調査所(37年)や試験農家(実験農家・38年)などに取り組むより、かなり先んじる点でも興味深い仕事である。

堀口捨己 紫烟荘 1926(大正15)年 『紫烟荘図集』(洪洋社)所収 東京都市大学図書館

分離派と農村といえば堀口捨己が設計した「紫烟荘」(26年)を避けては語れない。その丸窓を付けた四角いハコに茅葺屋根をかぶせた、一見奇妙だが不思議な造形美を感じさせる作品にこそ、分離派宣言に謳われた「新建築圏」の「創造」という理想の到達点が表されているように思えるのだ。

写真と記憶のなか建築群

現実に地上に建った建築よりも、アンチビルドのなかにこそ、建築作家、建築運動体の思想が体現されていることは明らかである。そのうえ、現存する建築が少ないため、分離派を実感することすらおぼつかない(この展覧会はもちろんその溝を埋めるために企画されたのにちがいないのだが)。分離派の建物でも、ある期間に都市の上で生彩を放った建築がある。

展示の最後に紹介されている「大阪市電気科学館」(大阪市電気局時代に大内秀一郎が関与)は37(昭和12)年3月に開館し、89(平成元)年5月に閉館したが、大阪西区四ツ橋に存在し、内部のプラネタリウムが子どもたち宇宙への夢を広げたのだった。

手塚治虫が少年時代に友人と何度も通ったというエピソードは、この展覧会で初めて知ったが、この建物は私自身も見覚えのあるものだった。小学校の先生に引率されて、日本で最初に導入されたというこの科学館のプラネタリウムを鑑賞しに行ったことがあり、たしかにあの建物は、街なかに宇宙や未来を感じさせるデザインだったと、何十年かぶりに思い出したのである。

山田守 フリーデザイン クレマトリウム 1921(大正10)年 『分離派建築会の作品 第二』(岩波書店)所収 曽我高明(現代美術製作所)

分離派建築会の建築のほとんどは、いまとなっては写真や記憶のなかに眠っている。しかし彼らの想念は、現在から見たほうがその前衛性を認識できるのではないか。もしかすると、ある未来になって、山田守が100年前にイメージした「フリーデザイン クレマトリウム」が地上に出現することを夢想したりもするのである。

畑中章宏|AKIHIRO HATANAKA
1962年大阪生まれ。作家、編集者、民俗学者。平凡社で編集者としてのキャリアをスタート。雑誌『月刊太陽』や『荒木経惟写真全集』などの編集にたずさわり、その後フリーランスとなる。著作に『柳田国男と今和次郎』〈平凡社〉、『災害と妖怪』〈亜紀書房〉、『ごん狐はなぜ撃ち殺されたのか』〈晶文社〉、『先祖と日本人』〈日本評論社〉、『21世紀の民俗学』〈角川学芸出版〉、『死者の民主主義』〈トランスビュー〉があるほか、2020年8月に『五輪と万博:開発の夢、翻弄の歴史』〈春秋社〉を上梓。


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「分離派建築会100年展 建築は芸術か?」 ](https://www.momak.go.jp/Japanese/exhibitionArchive/2020/440.html)
会場/京都国立近代美術館
会期/2021年1月6日(水)〜3月7日(日)
時間/9:30〜17:00(入館は閉館30分前まで)
休館日/月曜日
観覧料/一般:1,500円(1,300円)、大学生:1,100円(900円)、高校生:600円(400円)
※( )内は前売りおよび20名以上の団体
※中学生以下は無料


連載:現代美術のアルケオロジー

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TEXT BY AKIHIRO HATANAKA