歴史の背後で〈起こり得た〉かもしれない、もうひとつのハングル創製記:映画『王の願い ハングルの始まり』池田純一レヴュー

15世紀、李氏朝鮮の第4代国王・世宗のもとで創製されたとされる表音文字「ハングル」。『王の願い ハングルの始まり』では「仮想史」として、この新たな文字というテクノロジーが開発された過程が描かれている。あくまでフィクションとして創作されながらも「良質な歴史エンタテインメント」へと昇華した本作を、デザインシンカーの池田純一が読み解く。
歴史の背後で〈起こり得た〉かもしれない、もうひとつのハングル創製記:映画『王の願い ハングルの始まり』池田純一レヴュー
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※本記事には物語の核心に触れる部分があります。十分にご注意ください。

この映画が描くのは、ハングル創製にまつわる架空の歴史だ。その仮想史としての特性を認めた上でストーリーに目をやれば、文字というひとつのテクノロジーを開発したイノベーション奮闘記である。15世紀の東アジアで起きたシリコンバレー顔負けの開発奮戦記であり、その開発過程で示されるのは、ハングルという文字体系を支える知的な深みだ。

この映画の面白さはいくつもあるのだが、どれをとっても何らかの意味で「知的」なのだ。といっても、鼻持ちならない学識の話ではない。なにかワクワクさせる、好奇心を刺激するたぐいのものだ。政治的な駆け引き、宗教的な対立、自然の法則の数理的な解明、などの場面で、極めて人間臭い情念が知的探求を駆り立てていることが示される。

物語の前半は、仮想のハングル開発秘話からなり、後半は、なんとか開発にこぎつけたハングルを普及させる際の政争劇に移る。現代的な「技術のデモクラタイズ」という主題を内に孕んだ奇妙な映画でもある。それにしても、首尾よくハングルが開発された後に訪れる政治の世界の意地汚さ。それでも、「民への恩恵」を重視し、自らの功績を捨て、歴史に名を残すことなく闇に消える開発者たち。その気高さが、観る者の「こんな歴史だったら格好いいなぁ」という願望とともに、物語の信憑性を高めてしまう、いかにも現代的な作劇なのだ。そこはかとなくポピュリズム的な香りも漂っている。

映画『王の願い ハングルの始まり』は、6月25日(金)よりシネマート新宿ほか全国ロードショー(公式HPはこちらから)。

巧妙に練られた「架空の歴史」

この映画は「歴史のIF」の物語である。

ハングルの歴史では、この文字体系は1443年に李氏朝鮮の第4代国王である世宗が「訓民正音」として公表したとされる。だが、その開発には、歴史から抹消された影の貢献者たちがいた、それは実は仏僧たちだったのだ……というのが、この物語の基本構成だ。

背景にあるのは、李氏朝鮮における儒教vs仏教の宗教対立である。李氏朝鮮は、仏教を国教としていた高麗を倒して成立した王朝であったため、仏教に代わり儒教を国教に据えた。王の側近も儒教を修めた高官たちからなった。

世宗の治める李氏朝鮮は儒教に基づく国だから、その儒教の国で造られた新たな文字の開発者として仏僧の名を残すわけにはいかない、だから、彼らの名は抹消されたのだ、という推測から生じた「歴史のIF」である。

このIFがどの程度、学説的に妥当性があるのかは、残念ながら判断不能なのだが、しかし、その「歴史のIF」に基づいた「偽史」ないしは「仮想史」として見るならば、この映画は実によく出来た歴史エンタテイメントといえる。

確かに、儒教vs仏教の対立構図の下では、仮にハングルの開発に仏教徒が関与していたとしても、その事実は歴史に残ることはないだろう。そうした憶測から始まる「歴史のIF」の物語だ。その「架空の歴史」を極めて説得力高く練り上げてみせたのが、この映画である。

世界で最も合理的な文字、と言われるハングルの誕生を巡る物語。いや、世宗たちによる創意工夫の為せる技なので、「誕生」ではなく「創製」といわれる。その創製過程については諸説あり、その意味でも本作は正しく「フィクション」である。

ハングルの創製の背後には仏僧がいた、だが彼らは、歴史の表舞台からは消えた。歴史の表舞台には上がれない真の開発者がいたという点ではダン・ブラウンの『ダ・ヴィンチ・コード』のようであるし、時代を刷新する新たな技術(この場合は「文字」)の開発に数学や天文学の思考方法が役立ったという点では、冲方丁の『天地明察』のようでもある。良質の歴史ミステリーなのだ。

自国語を書き表す文字が存在せず、上流階級層だけが特権として中国の漢字を学び使用できる状況をもどかしく思う朝鮮第4代国王・世宗と、仏教弾圧のため低い身分とされながらも言語に詳しい仏僧・シンミが中心となり、新たな文字「ハングル」をつくり上げてゆく。© 2019 MegaboxJoongAng PLUS M,Doodoong Pictures ALL RIGHTS RESERVED.

ハングル創製の真の立役者・ソホン王后

その歴史物語を紡いでいくのが、世宗とシンミ、そして王妃のソホンの3人だ。彼ら3人のつくる不思議な三角形によって、適宜、2人だけで生じる緊張関係が崩され、それによっておのずから物語にダイナミズムが生まれる。

当代の李氏朝鮮国王である世宗は、物語早々、旱魃への対処のために龍神に雨乞いの祈祷を行っていたが、その際の姿勢にも、彼が呪術的なものに一方的に頼るのを好まず、自らの手でなんとかしようとすることを尊ぶ人物であることが描かれていた。

一方、シンミは、表音文字であるハングルの創製において、開発方法の採択に多大なインスピレーションを与える八萬大蔵経の管理を任されていた人物である。仏僧として、自然の理を極めるところに最大の関心をもち、始めたからには何が何でもやりとげるという強い意志の持ち主だった。

そして、ともに頑固な世宗とシンミの橋渡し役がソホンだ。彼女は世宗とシンミをつなぎとめる媒介者である。世宗に対しては、彼の幼少時に王位に就くよう勧めた年上の妻として。シンミに対しては、同じ「逆賊」扱いされた仏教徒のひとりとして。ともにプライドが高く、それゆえ時に年甲斐もなく意固地になる2人の男も、ソホンの尽力によって歩み寄ることができた。そもそも世宗とシンミを結びつけるべく奔走したのもソホンだったのである。その意味では彼女こそ、ハングル創製の真の立役者だったといってよい。内助の功を遥かに超える賢明さと、対立する者のすべてを包み込む包容力を湛える女性、それがこの映画におけるソホン王后なのである。

そのため、最後に描かれたように、亡くなったソホンの供養の場は、新たな文字であるハングルを広めるための決起集会となった。王妃に仕えた女官たちと、シンミに従う修行僧たち。それに、儒教の正装をした世宗の2人の息子、スヤンとアンピョン。今風に言えば、儒家というエスタブリッシュメントに抗するマイノリティの集結である。そこから、文字革命という文化の闘いの火蓋が切って落とされたのだ……。そのような前途多難だが同時に希望に満ちた未来を匂わせて、この映画は終幕を迎える。

仏僧シンミと世宗、そして世宗の妻であるソホン王后。© 2019 MegaboxJoongAng PLUS M,Doodoong Pictures ALL RIGHTS RESERVED.

物語を加速させた「切迫感」

世宗が、漢字に代わり誰もが使える文字の開発に長年携わってきたのは、国の滅亡を何よりも恐れ、それゆえ、民への知識の伝授を望んでいたからだった。知の独占は、国を分断させる原因となり、遂には滅びをもたらしてしまう。そのことを危惧しての行動だった。

ひとつ前の王朝であった高麗も、仏僧が知識を占有し、その知識を盾にして富と権力も独占したために、結局は滅んでしまった。同じ轍を踏まないためにも、民への簡潔な知識の伝授方法や学習方法の開発が必要であると、世宗は早くから感じていた。

世宗は、民が日頃口にしている言葉をそのまま記録できるよう、外来の漢字のような表意文字ではなく、日常的に使っている言葉をそのまま転記できる表音文字を欲していた。その開発に、王自ら何年もかけて取り組んできたものの、しかし、一向にうまくいかない。

その上、加齢に伴い糖尿病を患い、体調もずっと思わしくない。死の影もちらついてきた。仮に死は免れたとしても、世宗が求めるのは新たな文字の開発である。糖尿病の進行で両目を失明してしまったら元も子もない。そうした「残った時間は限られている」という切迫感も、物語を加速させる要因のひとつとなっていた。新たな文字の開発は、晩年に差し掛かった世宗のたっての望みだったのである。

「王の願い」の本懐

それにしても、この映画を観ると、「文字はテクノロジーである」ということがよくわかる。

世宗はかねてから外来文字である漢字は、所詮は借り物の文字であり、自分たちが日常話す母語とは全く出自が異なるものと捉え、それゆえ母語を記すのに適していないことに不満を感じていた。

一般の民が言葉を自由に駆使できることが、回り回って国の強さにまで及ぶと考えた世宗は、民への啓蒙のために、挿絵付きの漢文の書を創ったりもした。しかし、それでは、民に自由に言葉の読み書きをさせる、という理想には全く届かないことに苛立ちを覚えていた。

そこでたどり着いたのが、母語の音をそのまま記す表音文字の開発だった。だが、表音文字を作ろうというのに、世宗の周りにあるのは、表意文字である漢字からなる、いわゆる「漢文」の文献ばかり。世宗からすれば、八方塞がりの状況だった。やりたいこと、やらなければならないことは、ようやくはっきりした。だが、それを実現するための手立てがない。

そこに現れたのが、王妃ソホンが古馴染みの僧侶を辿って招き寄せた仏僧シンミだった。そのシンミが、文字開発の相談を受けて開口一番述べたことは、随分と無駄なことに時間を費やしたな、という暴言だった。表音文字を作ろうというのに、表意文字の文献を当たってヒントを見つけられるはずがなかろう、と。代わりに彼が述べたのが、答えは八萬大蔵経の中にある、というものだった。

実際、表音文字開発の糸口は、八萬大蔵経の中に眠っていたのである。

シンミは、仏典がもともと表音文字であるサンスクリット文字(いわゆる梵字)で記されていたことを世宗に伝える。それだけでなく、サンスクリットを手本にして開発されたチベット文字やパスパ文字を参考にしながら、独自の文字の開発に着手した。それぞれ使う文字の数は、サンスクリットで50文字、チベット文字で34文字、パスパ文字で41文字、だったが、これらよりも少ない文字数で李氏朝鮮の国民の言葉を音写したいというのが、物語冒頭で世宗の口から漏れた「王の願い」だった。

当時最下層の身分であった仏僧と、国の最高位である王が手を取り合い「新たな文字」を開発してゆく。© 2019 MegaboxJoongAng PLUS M,Doodoong Pictures ALL RIGHTS RESERVED.

啓蒙的で教育的な構成

このように、開発の糸口を八萬大蔵経に求めたという点で、確かにこの映画世界の中では、ハングル創製におけるシンミの貢献は計り知れないのだが、しかし、もちろん、彼だけの知恵で開発が首尾よく進むわけもない。

その途中では、他の開発協力者たちの知恵や振る舞いが、いくつもの難局の打開に貢献した。

ところで、八萬大蔵経の「八萬」は、経典の版木が8万枚もあることから名付けられている。作中でシンミが常駐する寺として、8万もの版木がひしめき合うように収蔵された海印寺が紹介されたが、この寺は韓国に実在する。このあたりの描写も、この物語の「あり得たかもしれない歴史」というフィクション性のリアリティを高めることに貢献している。

作中では、この八萬大蔵経の版木を求めて渡来した日本の仏僧たちも登場する。シンミは彼らと聞いたことのない言葉を発して対話するのだが、その言葉がサンスクリットであった。仏教徒ならば国境を超えて理解し合える言葉としてサンスクリットが使われていたことを表す場面であった。サンスクリットは、いわば中世ヨーロッパ社会におけるラテン語のような存在だったのである。

ちなみに、日本から渡来した仏僧たちが言っていた「八萬大蔵経の版木から印刷された大蔵経」は、実際に東京の増上寺と京都の大谷大学で所蔵されているのだという。

このように、謎解きではないけれど、どこまでが史実だったのか、見終わってから、思わず確認したくなってしまう作りになっており、その意味では、見事に啓蒙的であり、教育的ですらある。

作中でシンミが常駐する寺として紹介され、八萬大蔵経が実際に納められている海印寺蔵経板殿。IMAGE BY EYE UBIQUITOUS/GETTY IMAGES

新たな文字をつくるという「革新」

ともあれ、このように協力しあって表音文字の開発に取り組むことになった世宗とシンミは、自分たちの母語で利用される音素を、母音と子音の観点から分類し、その音を転写することを考えた。

「開発主任」となったシンミは、自分たちの母語の発声状況を分析することで、母音が13、子音が26、の合計39個の音素を特定した。シンミの考えでは、この39の音素にそれぞれ対応する文字をあてるつもりだった。だが、世宗は39文字でも、民が日々使うには多いと考えたため、さらなる分析を求めた。

その際に世宗が持ち出したのが天文図であり、そこに描かれた、夜空に煌めく無数の星に秩序を与えるために考案された28の星座だった。そのような「構造化」のために役立てるものとして、続けて世宗が触れたのが数学と幾何学の話だった。

長年、新文字開発のために各種文献に当たってきた世宗は、数学について学んだこともあった。そのため、数学が単純で簡潔な原理を探求し、その原理を幾何学が点と線と面で表現していることを告げ、彼らの文字開発プロジェクトにおいても、そのような合理性やシンプルさを追求すべきだと提案した。

その際、そうした数学や幾何学の思考法が適用された先行事例として紹介したのが、先ほど触れた天文図だった。合理的な構造化を図ることで、無数に見える星も、28の星座で説明できる。この「28」という数字が、後にハングルの文字の選択の際に効いてくるところも、ニクい演出となっている(今ではハングルの文字数は24だが、昔は28だったのだという)。

シンミがもたらした仏教における法則の重視と、世宗が言及した数学・幾何学におけるシンプルな原理とその表記法を探求する姿勢。この2つがあいまって、そこから、幾何学の基本である「点と線」の組み合わせからなる文字体系が目指されることになった。
その傍らで、より根源的な音素の特定に取り組むために、さしあたって現在絞り込んだ「音素」がどうやって音になるのか、どうすれば「真」の音素を見いだせるのか、試行錯誤する日々が続いた。

合理的な文字体系に相応しい「文字の構成単位」を見つけ出す作業を行う一方で、それらの文字が捉えようとする「音の構成具合」を探求する作業が、同時並行で進められたのである。

このあたりは知的にも興味深く、音がどう構成されるのか、文字通り、自分たちの口の周りの発声状況を観察しては、ああだこうだ議論して分析する一方、すでに音が構成して出力されている装置として琴(のような弦楽器)を参考にしながら、音の構成方法の解析に乗り出していた。

しかも、その際には、その開発の現場に居合わせた者たちの間では、王も師も関係のないフラットな意見のやり取りがなされていた。見事なまでに、「新たな文字」を生み出そうとする、イノベーションの現場がそこにはあった。見ていて微笑ましく、思わず唸らずにはいられない場面である。

発音する口に手を入れて舌の動き=発声状況を確かめるなどの試行錯誤を重ねて表音文字の開発が進められた。© 2019 MegaboxJoongAng PLUS M,Doodoong Pictures ALL RIGHTS RESERVED.

ハングル開発の背後にあるのは、「知識の民への浸透」という目的である。誰もが自ら思うところを書き留めることができ、そうして知恵を、知識を、民草の間から、今風に言えば、ボトムアップで書き上げることのできる環境を整える。そのことを世宗は目指していた。

万人が簡単に使えるような文字=表現様式を作ろう、という点では、WWW(World Wide Web)を開発したティム・バーナーズ=リーのようであり、極めて数学的な合理性に支えられた永続性のあるシステムを作ろうという点ではベネディクト・カンバーバッチが『イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密』で演じたアラン・チューリングのようでもある。

家族や仲間、弟子が見るに見かねて勝手に協力しだすところは、映画『アポロ13』で、なんとかアポロを地球に帰還させようと宇宙船に積んであるもので打開策を練ろうと躍起になったNASAの技術者たちのようであった。なにより、プロジェクトリーダーたる国王の世宋と、開発者である僧シンミの関係は、2人のスティーブと称された、ジョブズとウォズの関係のようでもある。

とどのつまり、この映画は、イノベーターたちが周囲の人びとの反対を押し切って理想のマシンを強靭な意志で作り上げた開発ドラマなのである。

シンミがもたらした仏教における法則の重視と、世宗が言及した数学・幾何学におけるシンプルな原理とその表記法を探求する姿勢があいまって、「点と線」の組み合わせからなる文字体系が目指された。© 2019 MegaboxJoongAng PLUS M,Doodoong Pictures ALL RIGHTS RESERVED.

ハングルの普及を阻む政争劇

もっとも、そうして創製されたハングルを普及させることは、簡単に済ますことのできない難題だった。

物語の終盤で世宗は、儒教を修めた臣下の高官たちに、仏僧の助力を得て作り上げた新たな文字ハングルに対して、「寛容の精神」を求めるのだが、彼らは、普及のために用意された『訓民正音』の冊子には一切、関心を示さなかった。世宗ならびに彼の継承者たる息子たちの進む道は茨の道だったのある。

王朝に仕える儒教を修めた高官たちは、独自の文字を作り出すことは、中国に対する造反行為とみなされることを危惧していた。だから、彼ら儒家の臣下たちは、世宗が仏教徒と協力して文字開発を行うことに、事あるごとに反対した。彼らにとって仏教徒は、自分たちの正統性を脅かす政敵だったのである。

だが、その後の歴史を知る現代人からすれば、ハングルが今にまで続く文字となったことを知っている。となると、作中では描かれなかった、その後のハングルの普及の過程がいかなるものであったのか、気にせずにはいられない。

そのようなハングルが民の間に広まった未来を確信するかのように、物語の最後は、シンミによる、ハングルは世宗が残した次代の八萬大蔵経である、という最大級の賛辞で締められる。

『パラサイト 半地下の住人』でも主人公の役を担ったソン・ガンホが、世宗役を務めた。© 2019 MegaboxJoongAng PLUS M,Doodoong Pictures ALL RIGHTS RESERVED.

「仮想史」を描いた良質なエンタテインメント

実際、韓国では、李氏朝鮮の第4代国王である世宗は偉人として誉れ高く、彼が主人公の映画やドラマは数多く制作されており、この『王の願い』で取り上げられたハングルの創製についても何度か扱われてきたという。つまり、この映画は韓国の人たちにとっては、よい意味で「またか?」と思わせるところもあるようなのだ。今回のハングル創製秘話についても、こういう話ならばきっと興味深く見てもらえるだろう、と観客に思わせるような脚本や構成が採られている。

つまり、この映画は、ひとつのありえたかもしれない歴史の裏話として受け止めるのが先決で、その上で、あとはフィクションとして自由に愉しめばよいのである。裏返すと、この映画を歴史の真実を描いた映画、というような構えた姿勢で見る必要は全くない。

開始早々の出来事ですっかり見過ごしてしまうのだが、映画冒頭で予め断られているように、ハングルの創製の過程を扱ったこの映画は、まごうことなきフィクションなのである。必ずしもハングル創製の史実が語られているわけではないのだ。つまりこの物語は、一種の偽史である。しかし、この「仮想史」は、文字の発明という歴史を揺るがす大発明の物語としてみたとき、比類のない良質のエンタテインメントに仕上がっている。

そう思って周りを見渡せば、『王の願い』では、主人公の国王世宗と仏僧シンミ、それから王妃であるソホンの3人を除けば、ハングル創製にあたった者たちは、みな、ふとしたことで笑いを誘うコミカルな存在として演じられている。

なかでも、シンミの弟子である若い修行僧であるハクチョ。彼が思わず現代の若者のようにサムズアップしている場面を見かけた時は、あぁ、たしかにこれはフィクションなんだな、という気にさせられる。こちらが気づいていないだけで、そのような「現代性の介入」を匂わせる仕草は他にもあったのかもしれない。

そう考えると、むしろ、現代のイノベーション社会の視点からハングル創製の時代を振り返ったら、一連の出来事をどのようなものとして想像できるのか。そんな空想から生まれたのがこの映画なのかもしれない。そのような具合に、純粋にエンタテイメントとして楽しんでしまえば、それでよいのである。

それにしても驚くべきは、『パラサイト 半地下の住人』の主役も務めた、世宗役のソン・ガンホの抑制された存在感だ。いつの日か、韓国映画の歴史は、彼の活躍に沿って書き換えられるのではないかと思えてくる。本作は、その意味でも見逃せない一作である。

池田純一|JUNICHI IKEDA
コンサルタント、Design Thinker。コロンビア大学大学院公共政策・経営学修了(MPA)、早稲田大学大学院理工学研究科修了(情報数理工学)。電通総研、電通を経て、メディアコミュニケーション分野を専門とするFERMAT Inc.を設立。『ウェブ×ソーシャル×アメリカ』『デザインするテクノロジー』『〈未来〉のつくり方 シリコンバレーの航海する精神』など著作多数。

※『WIRED』による映画のレヴュー記事はこちら


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TEXT BY JUNICHI IKEDA@FERMAT