これは確かに7周目の〈進化〉したマトリックスである:『マトリックス レザレクションズ』池田純一レヴュー

1999年に公開された『マトリックス』とは、哲学的考察というハイカルチャーと香港ノワール的暴力というサブカルチャーが混在する世界であり、そのごった煮状態こそが当時のインターネットの「エッジ感」をも伝えていた。そんな、極めて「同時代的な作品」だった第1作目から22年。現在公開中の『マトリックス レザレクションズ』は、いかなる「同時代性」を孕んでいるのか。デザインシンカー・池田純一がひも解く。
これは確かに7周目の〈進化〉したマトリックスである:『マトリックス レザレクションズ』池田純一レヴュー
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「不思議の国」から「鏡の国」へ

バスタブに浸かって、頭に黄色いアヒルのおもちゃを載せながら、呆けたように新作ゲームの構想に耽る、虚空を見つめたキアヌ。

映画が始まってしばらくしてから映ったシーンだが、なんだかもう、このショットを見られただけで十分な気がした。幸せな気分になれた。ロン毛で髭面の姿から、引退したジョン・ウィックのようにも見えて、もうこのキアヌでいいんじゃないか、と思ってしまった。

いや、でもまあ、そんなわけにはいかない。それでは映画は終わらない。

それにこのジョン・ウィックと誤認させるシーンもわざとやっている。

現実の、現代の、素顔のキアヌが、あたかもそこにいるかのように思わせる。そうすることで、この『マトリックス レザレクションズ』(以下『レザレクションズ』)で描かれた世界が、今現在の、2021年の現代社会と地続きであるかのように錯覚させる。

それこそが、キアヌがあの聖人キアヌの姿のままでこの映画に登場した理由だった。

錯覚、誤認、鏡像、目くらまし……幾度となく現れる数多の鏡によって視覚を幻惑させながら、かつての三部作への自己参照を繰り返すことで観客を突き放し、物語への没入を拒ませる、そんなパラドクシカルで意地悪な作品、それが『レザレクションズ』だ。「白ウサギを追え」のメッセージから始まった第1作の『マトリックス』が『不思議の国のアリス』なら、この鏡だらけの新作は『鏡の国のアリス』である。

今回の7周目のマトリックスを象徴する存在、それは鏡である。物語を理解する鍵だ。その理由は追って説明するとして、ともあれ20年ぶりの再起動なのだ。まずはこの20年間という時間の厚みをきちんと受け止める必要がある。

そうしないと、この新作の意図を読み違えてしまう。なぜなら一見したかぎりでは、この物語は第1作の単なる反復、よくあるメタフィクションに過ぎず、せいぜいのところ20年越しで実現したファンムービーくらいにしか思えなくもないからだ。

『マトリックス レザレクションズ』
監督:ラナ・ウォシャウスキー
出演:キアヌ・リーブス、キャリー=アン・モスほか 現在公開中
matrix-movie.jp

そもそもメタフィクションとは世界を語るものである。そこでは登場人物たちは、世界(ここではマトリックス)を描くための道具として、駒のひとつとして扱われる。創作者の狙いは、登場人物たちの言動が織りなす軌跡から浮かび上がる世界にある。本作ならマトリックスの姿である。メタフィクションが、そのメタ性ゆえに鑑賞者の日常世界をも呑み込むものであることを思えば、この作品は、2021年時点での現代社会への批判であり、これから先の情報社会への警鐘でもある。

だがその一方で、この「反復」は必ずしも前回(6周目)とは同一のものではない。反復ではなく「反転」なのだ。細部は確実に変わっており、システムとして進化している。その進化の実態を掴むこと。これは、進歩を捨てた(捨てさせられた)人類が、手にすべき反逆の手立てでもある。

7周目のマトリックスの社会を描くことで、『レザレクションズ』は、どうやら「進化とはなにか?」を問うている。物語の主役はもの言わぬマトリックスなのである。マトリックスそれ自体が真の主人公なのだ。かつての三部作の果てに再起動したマトリックス、その新生マトリックス、7周目のマトリックスがしかける数々の罠、そして数々の悲喜劇、それがこの映画の正体である。

ネオやトリニティが復活したから「レザレクションズ」なのではない。復活したのは世界としてのマトリックスである。世界もまた生き返り進化を遂げる。世界の進化は本作の隠れたテーマのひとつである。

まばゆいまでのメタフィクション構造

前の6周目のマトリックスでは救世主を務めた男も、この7周目の世界では、そのマトリックスというシステムの体の良い管理人に成り下がっていた。

いや、成り下がっていた、というのは言い過ぎか。本人には前回の(前世の?)記憶がないのだから。システムの創始者によって記憶を書き換えられているのだから。

本作の冒頭でキアヌは、ネオではなく再びトーマス・アンダーソンを名乗っている。彼の仕事はゲームデザイナー。しかもかつて大ヒットした傑作ゲームタイトル、その名も『マトリックス』の開発者である。この7周目のマトリックスでは、三部作で起きた物語は全てゲームの中の出来事にされている。そのゲームの開発者がキアヌ演じるトーマスであって、それが今回の彼に与えられた役割だ。彼は三部作を生きた主人公ネオではない。ネオはゲーム内の1キャラクターにすぎない。

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もちろん、それがシステムが施した嘘の人生であることは明白で、なぜなら、ネオ/トーマスの勤めるゲーム開発会社の名が「デウス・マキナ」なのだ。前の三部作で、救世主ネオが対峙したラスボスの名が「デウス・エクス・マキナ」だった。マトリックスという仮想世界を構築することで人類を、自分たちが稼働していくために必要な電力の供給源として飼育している「マシン(機械)」の総帥──といっても人工知性の統合体の総称であり対人間のインターフェイスのことであるが──の名がデウス・エクス・マキナだった。だとすれば、その名を想起させる「デウス・マキナ」が、トーマス、いや救世主ネオの「鳥カゴ」であることは明らかだ。

この初期設定から『レザレクションズ』の物語が、7周目のこの世界で再びトーマスをネオとして覚醒させることが目的となることが想像され、実際、そのように物語は進む。その鍵となるのがトリニティとの再会、そして彼女の再覚醒である。『マトリックス』シリーズの4作目、第1作(『マトリックス』)からほぼ20年ぶりの再起動となった『レザレクションズ』の物語はこうして始まる。

もっともそのような第1作の反復イメージは冒頭から、よりあからさまな形で示されていた。『マトリックス』が大ヒットゲームとして世の中で知られた世界なのだから、シナリオの基本構造がメタフィクションとなるのはむしろ必然だった。実際、映画は開始早々、いきなり第1作冒頭のトリニティのハッキング現場を取り押さえるシーンから始まった。もちろん、それが「反復」にすぎないことは、その場面をまるで舞台裏から眺めるように冷静に観察するパンク風の青髪娘バッグスの発言で明かされる。彼女に加えて、その後バッグスの仲間になってからは赤いスーツを着こなすモーフィアス(だがローレンス・フィッシュバーンとは別人!)が、サングラスをかけたエージェントのひとりとして現れたことで、この世界は第1作に似て非なるものであることが示される。だが、それでも随所に三部作の影がちらつくのだ。

興味深いことに、その彼らの行動を、ゲーム開発に使っているコンピュータ画面上で、開発中のゲームプログラム内でのイレギュラーな出来事として覗き込んでいたのがネオ/トーマスだった。確かにバッグスたちが、トーマスのモニター上に映るゲーム世界に侵入していたとみなすことは可能だ。いずれもデジタルの世界なのだから、0と1のコードの集積としては全て等価、フラットだからだ。だが同じ理由から、見方を変えれば、ネオの使うコンピュータ画面にゲームとして映っているものが、実はマトリックスのコードそのものなのかもしれない。だとすれば、ネオが、ゲームの開発や管理と言いながら、その実、マトリックスの管理人として振る舞っていた可能性を否定できない。

こうして冒頭からこの映画が複雑な入れ子状態になったメタフィクションとして提示される。バスタブに浸かってトーマスが構想していた新作にしても、親会社のワーナー・ブラザース(!)から命じられたゲーム版の『マトリックス』の続編だった。遊び心にしてもたちの悪い展開なのだ。そうして意図的に、過去の三部作と、この新作の世界と、さらには2021年の現代社会とを混同させる仕掛けが施される。この目眩くメタフィクションの構造が、この映画の本質だ。

どうやったらこの迷宮から、この悪夢から抜け出すことができるのか。

「アーキテクト」から「アナリスト」へ

本作を象徴するものは、なんと言ってもミラー、鏡である。全米の公開日がわざわざ2021年12月22日、すなわち「12.22.21」であったこともそのためだ。本作の鍵が「ミラー=鏡」であることにかけた洒落だった。

鏡が持つ象徴性は多いが、今回の映画では基本的に、鏡像的な左右反転の間違い探し的迷宮感や、合わせ鏡ないしは万華鏡的な閉塞感を現している。新しいマトリックスの開放感が見せかけであることも象徴する。鏡像的反転は、ネオとトリニティの役割にまで及ぶ。三部作では、ザ・ワン(救世主)を選び出す側だったトリニティが、今度は自らその役割を引き受ける。その上で、ミソジニー発言を繰り返すアナリストを滅多打ちしたりするわけで、このあたりは昨今のLGBTQ運動を前面に出した展開であり、それによって「現代的(コンテンポラリー)」なテイストに落ち着いたといえる。

空を虹色にする、という発想もその一つ。7周目になってもマトリックスが引き続き人類を電池として稼働させ続けるための幻影装置であることは変わりないが、しかしその幻想内の風景をどうするかについては、そこで(アバターとして)暮らす人間側の勝手にさせてもらうということだ。三部作では、マトリックスからの脱出、ザイオンへの参加、マシンへの反逆、人類の解放、というレジスタンスとしての生き方がレッドピルを飲んだ結果行き着く先であった。そのことを思えばこれは大きな変化だ。

そもそも、ザイオンにしても、マシン公認の脱出先でしかなかった。ザイオンはマトリックスに続く第2の牢獄だった。救世主というプログラムを予め仕込むことで、然るべき時が来たら現実世界に逃げ出した(と信じていた)人類も掃討されていたからだ。そうして、毎回、ゼロからマトリックスがリブートされてきた。

三部作の最後で、ネオはマシン(デウス・エクス・マキナ)と取り引きし、人類と機械の間で「平和」の実現を望んだ。実際、この7周目のマトリックス世界を見る限り、その取引は実現されたようだ。しかし、だからといって、両者の平和的共存の夢がかなった、というわけではない。そんなお花畑の世界ではない。

確かにマシンは、ネオとの約束は果たしている。ナイオビ以下、マシンとの戦争に生き残った人類は、ザイオンに代わりアイオという地下世界で融和派のマシンやプログラム──その姿はナノ粒子を集合させた黒い幽霊のようである──との共存を果たしている。だがこれは平和というよりも、せいぜいのところ、マシンと人類の間で束の間の和平が実現したにすぎない。

マシンは、先の大戦におけるネオのアノマリー(逸脱した)な行動に関心を示し、それゆえ、一度は死んだ彼を生き返らせることを選択した。加えて、彼のその特異な行動を安定化させるためにトリニティも不可欠と考え、彼女も蘇生した。二人の存在がマシンにとっての目標である「人類の謀反なき統治」を実現するために有用だと考えてのことだ。

だからこそ、前大戦の歴史である三部作の内容を秘匿するのではなく大ヒットしたゲームシリーズとしてあえて公開し、その傑作のゲームデザイナーの役をネオ/トーマスにふりわけた。そうしてネオを幻想世界のレジェンドとして奉る一方で、創作の栄誉をトーマスに与えた。ネオとトーマスの人格としての完全分離であり、体の良い「飼い殺し」である。実際、ビジネスパートナーという名目で監視役にスミスまで配している。

要するに、マシンはマシンで6周目のマトリックスで学習したことを7周目のマトリックスの立ち上げにあたって徹底的に取り込んだ、ということだ。

そのため、オラクルのような心理管理プログラムと思しき「アナリスト」まで登場させ、日頃からネオに(そしておそらくは他のマトリックス住人たちに)対して、マインドヘルスの相談に乗り、先んじてブルーピルを処方することで「覚醒」を回避する手段を取っていた。

かようにマトリックスの運営は狡猾だ。

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三部作の最後で、アーキテクト(マトリックスの創始者)はオラクル(人類とマシンの共存希望者)に対して、マトリックスからの脱出を望む人間の解放を約束した。

7周目となるマトリックスで、この約束を違えてはいないが、その代わりにそもそも脱出を図ることを思いつかない、望まないよう、積極的に人びとの内面の管理に手を出している。

その象徴が「アナリスト」という新登場人物。精神科医のように振る舞う彼は、ネオに対するカウンセリングで、三部作の記憶のフラッシュバックも幻覚のせいだと信じ込ませ、その上でマトリックスの世界では現状を受け入れこの世界に留まるように精神を仕向けるブルーピルを処方していた。そうして「ここからの脱出」を望むことを精神病理として、つまりは「異常」であると本人にも思わせる一方、「正常」に戻ること、つまり、現状の(マトリックス内の)社会に対する不満や疑問を解消させようとした。

映画の三部作をゲームの形で公表したのも、あれは空想の出来事だ、幻想だ、ファンタジーであると予め人びとの間で理解させることで、一線を越えるのを思いとどまらせるためだ。あくまでも本人の自由意志を尊重しているように見せかけながら、その実、巧妙に誘導をしかけてくる。

つまり、マシン側の対策としては、三部作の時のように、マトリックスの世界に疑問を感じ外部の存在を想像し始めた異常者(アノマリー)を見つけたらエージェントを遣わして排除する方向から、そもそもそのようなアノマリーの発生を抑えるよう日頃から内面の管理をする方向に舵を切った。事後の懲罰から、事前の誘導・管理に対策を変えた。

それは、2021年の現代における情報社会において、行動心理学や行動経済学が考える「ナッジ」を実施しているようなものである。管理の仕方をよりソフトなもの、人びとの生のあり方そのものに介入する生政治的なものに移したわけだ。これもまた第1作から20年を経る中で生じた、現実の情報社会における権力の変貌のアレゴリーである。

このように7周目のマトリックスは、6周目よりも更に徹底した管理型統治社会として設計されている。ゲーム化された『マトリックス』のように適度に反乱の物語を人類に与えるものの、しかしそれらを一律にファンタジーとみなすよう仕向けることで、反逆の意志をも制御する。実に巧妙かつ狡猾な管理システムが導入されていた。ネオはその人柱として生きながらえさせられていた、ということだ。

しかし、だとすれば、前大戦では生き延びたものの、それゆえザイオンの中で現実の時間を生きることで寿命を迎えたモーフィアスの意志/遺志が、エージェントプログラムの「アノマリー」として発現したのは、まさにシステムが生み出した予期せぬアノマリーのひとつだったのかもしれない。

これは完全な憶測だが、三部作の「マトリックス」がゲームとして提供されているということは、そのゲーム内には前大戦のモーフィアスを模した(彼の記憶や行動結果のデータに基づいた)プログラムも稼働しているはずであり、おそらくは何らかの形でそのプログラムが、後に自らを「モーフィアス」と名乗ることになるエージェントのプログラムに干渉し、憑依したのかもしれない。三部作内でのスミスの、さながら暴走したウィルスのごとき変質が、ネオとの接触を経て起こったことを思えば必ずしもありえない話ではないだろう。

そうして新生モーフィアスが再びネオを呼び覚ますことになる。新たなモーフィアスが誕生しないことにはネオが催眠(というか心理操作)から目覚めることもなかったのだから、新生モーフィアスの覚醒こそが今回の物語の起動の合図だったことになる。となると、そのモーフィアスを覚醒させたバッグスは、本作における「ラビット・ホール」に誘う白うさぎだった。

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彼女の名バッグス(Bugs)は、ワーナー・ブラザースのマスコットである「バッグス・バニー(Bugs Bunny」からとったものだが、まさに「バグ(Bug)の塊」としてシステムにイレギュラーな事態をもたらしている。バグウサギが預言者を呼び覚ましたのだ。

だが、こうした反乱すらマシンの予期に含まれていたことは、アナリストが「バレットタイム」対策を講じていたところにも見て取れる。マシンもちゃんと成長しているのだ。しかも、より巧妙で狡猾な統治者として。

だから、時々ネオ/トーマスのゲーム会社の同僚たちが放つ、映画やらゲームやらファンタジーやらに関する超ナードなムダ話も馬鹿にはできない。彼らのあのおバカなメタ語りが許されていること自体、システムの進化を物語っている。その点で、本作は間違いなく三部作の次に来る続編である。マトリックス世界を支える基盤システムも確実に変貌している。その変化は、マトリックスを媒介にして奇妙な寄生的関係を保っているマシンと人類の関係にも及んでいる。

つまり、人類と機械の間で繰り広げられるコンゲーム、騙しあい、知のゲーム、それがマトリックス世界の進化の駆動力なのだ。面白いことに、もともと機械が人間に作られたからなのか、機械は決して人間を侮らない。創造主の人間から学習することを怠らない。

この抜きつ抜かれつの競い合いが両者にそれぞれ進化をもたらす。この描写は、三部作を経て、7周目のマトリックスが立ち上げられたことで明らかになった事実である。

願わくは、いつかは両者が和解し、もともと人間電池を導入するきっかけになった、太陽光を遮る暗雲を立ち退けるための共同作戦の実施に向かいますように。

第1作目における「同時代性」とは?

『レザレクションズ』の大まかな物語の立て付けは以上のようなものなのだが、ひとつの作品としてみたとき、次に問うべきは、ではこうした物語は端的に面白かったのか、である。困ったことに、その問いに即座にイエスと言い難くさせるのが、本作に漂うセルフパロディの匂いなのだ。

セルフパロディ、すなわち自己参照的な作品に問題点があるとすれば、それは、観客に常に過去作の内容を思い出させ、それとの距離感で目の前に起こっている描写や言動の意味を解釈させようと仕向けてしまうところだ。その結果、観客からすれば没入感を得るのを阻害されてしまう。常になにかムズムズとお尻がかゆくなるような状態で目の前の映画に向き合わさせられるのだ。

目の前で繰り広げられる物語の展開を追いながら、同時に製作者はどうしてこんな展開を作ったのか、と自問させられ続ける。これは視聴態度としては一定の訓練が必要となるものだ。いってしまえば、定番の演目を何度でも楽しむことができる、熟練した観劇の目が求められる。

もちろん、そんなものをすべての観客が持ち合わせているはずもない。

第1作の『マトリックス』がヒットしたのは、何よりもあのネオの、というよりもキアヌの「エビゾリ」での銃弾避けのアクションと、それをもっともらしく捉えた、当時としては斬新だった「バレットタイム」の描写であったことは間違いない。あの「エビゾリ」シーンのパロディが、第1作の公開以後、どれだけCMで使われていたことか。当時を知る人なら即座に納得してくれることと思う。

つまり、『マトリックス』は、サイバー空間と現実空間との間で引き裂かれた人間存在とはいかに?という哲学的な問いを投げかけたことで当時の考察派を歓喜させたからウケた、というだけでなく、あのネオのエビゾリシーンに代表される、いかにもサイバー空間らしい物理法則を無視したようなジャンプや回転を加えたアクションがもたらす視覚的な驚異や快感が与えたインパクトが大きかったからでもあったのだ。

荒唐無稽さ、バカバカしさ。それが第1作の『マトリックス』にはあった。重力からの解放は、宇宙空間でなくても可能である。そのような「別世界の可能性」を示していた。

要するに、ネオとモーフィアスとトリニティが、あのサングラスと黒マントの姿でスロモーションで回転しながら大銃撃戦やカンフーを繰り返すところが圧倒的に面白かった。ある意味で、香港ノワール的なアジアの匂いもあの画面にはあったのだ。どこまでも暴力的でありながら静謐な画面、というスタイルだ。そうした『マトリックス』の「美学」、すなわちスタイルに、一般の観客は、よく言われるマトリックスの「哲学」以上に酔いしれていた。

そうしたバカバカしいほどの銃撃戦を好むファンに対しても、小難しいことなんか考えずにアクションを愉しめばいいんだよ、と伝えるために、ゲーム会社のネオの若い同僚たちに、バレットタイム、サイコー!といったセリフもはかせていたわけだ。

このように哲学的考察というハイカルチャーと、香港ノワール的暴力というサブカルチャーが混在する世界が『マトリックス』であり、その玉石混交のごった煮状態こそが、99年当時のインターネットの「エッジ感」をも伝えていた。その意味で、極めて同時代的な映画だった。

裏返すと、社会の情報化がまさに進展中のときだからこそ描けたアクションであり物語だった。情報化の行く末は本当にバラ色なのか? 期待と不安がともにあったときだからこそ、広く観客に訴えることができた。

そうした同時代性が強く刻印されたシリーズなのだから、第1作からほぼ20年後の現在における再起動が大きな困難を抱えるのは当然のことだったのだ。

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この20年間で社会の情報化は進み、インターネットはスマフォを通じて誰もが常時利用するものになった。

その意味で、第1作の設定との一番大きな齟齬は、「電話ボックス」をポータルにしてサイバー空間としてのマトリックスから現実空間に帰還する、つまりは「ログアウト」する、という描写だろう。もはや電話ボックスなど見かけることのほうが珍しい。常時、スマフォで情報的に繋がり続けてしまっている。事実上、ログアウトもしない。結果、本作でポータルとして採用されたのが「鏡」だった。

正確には「鏡のように光を反射する面」であり、その都市空間なら探せばどこででも目にすることができる(なんだったらガラス建築の壁面でもよい)スクリーンを通じて、マトリックスからの脱出が可能になった。

その結果、電話ボックスの利用のときにあったような、サイバー空間と現実空間の間の、あちら側とこちら側との間の確たる行き来、というイメージも消失し、「鏡の国のアリス」よろしく、幾重にも鏡の世界を駆け抜ける、めくるめく万華鏡のような世界が描かれた。だが、きっとそれが「現代」のインターネット社会の比喩としても相応しいものなのだろう。

そうした「20年後の感覚の変容」は随所でうまく使われている。マトリックス世界を牛耳るのは、もはや「アーキテクト(建築家)」ではなく「アナリスト(精神分析医)」である。サイバーワールドを建築することから、そこで活動する人(アバター)たちのメンタルヘルスをケアすることのほうが「統治」の要になっている。

建設物がいくつも立ち上がる時代からインテリアの配置を気にする時代、高層建築が続いた時代から狭小住宅の時代へ、社会経済の成熟度に応じて、人びとの関心の置きどころが変わってきたことをそのままインターネットの世界でも繰り返していることがわかる。ハードに代わりソフトの時代に移ったのである。

認識論から存在論へのスライド

そんなソフトの時代の象徴がミーム化だ。それを、第1作で「デジャヴュ」現象の典型として登場した黒猫をネコ動画に結びつけたところには、単純に上手い!と思わされた。

第1作でデジャヴュは、システムの変更が加えられたことの残滓として紹介されていた。だが、そのデジャヴュの象徴たる「黒猫」も、今ではただの人気の「ネコ動画」の素材のひとつとみなされてしまう。デジャヴュが感じられるのも、システムが改変したからではなくユーザーが勝手に続々と類似の動画をばらまくことによっていることも明らかにされる。となると、「本当にシステムが改変したこと」もそうしたユーザーの振る舞いの中でおのずから隠蔽されてしまう。誰がシステム改変をしたのか、見当もつかない時代であり、見当もつかないなら考えるだけ無駄で、だったらスルーしよう、という時代。

悩ましいのは、オリジナルの『マトリックス』が帯びていた「同時代性」をリブートしようとするなら、どうしても現代のインターネットカルチャーの批判にならざるを得ないところだ。現状批判はどう取り繕っても特定の視点からの「オピニオン」になってしまう。その点ですでに、かつての『マトリックス』が帯びた「時代的空気としての期待と不安」に基づくポピュラリティを得ることは難しいのかもしれない。

加えて、ソーシャルメディアに支配された現代のポップカルチャーに対して批判的な視線を向けてしまった手前、哲学とともにマトリックスの人気の鍵となっていた美学、すなわちスタイルの部分で同時代的なものを十分には取り込めなかった。その結果、全体の印象をノスタルジックなものにとどめてしまった。

もちろん、新キャラのバッグスはアジア系の女性であり、彼女の活躍ぶりには、マイノリティの社会進出という現代的な文化政治事情が反映されている。とはいえ新たな視覚的スタイルとまでは言い難い。彼女のブルーの髪は洒脱だが、しかし、それも新モーフィアスの赤いスーツとともに、この映画の画面にあふれる「レッドvsブルー」のコントラストを反映した様式の一つにしか見えない。

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だがそれも仕方がないのかもしれない。いつの間にか、ネオを現実世界に目覚めさせた「レッドピル」はAlt-Rightのような、デジタル以後の極右が用いるミームになってしまっていた。第1作にあった意味をまさに換骨奪胎されて流用されたことは、監督のラナ・ウォシャウスキー、しかもトランスジェンダーである彼女からすれば、許しがたいことだったのだろう。その点でこの映画は再び「レッドピル」の意味を「解放のための選択」の象徴として取り戻すためにあったといってよい。終盤におけるトリニティのネオを超える活躍や虹色の空など、シンボルとなる場面も随所に盛り込まれていた。その意味でも、原点回帰の一作だった。

実際、「性」が本作で果たす役割は複合的だ。

メタフィクションという万華鏡的な世界の中で、表向きの物語の駆動力は、ネオとトリニティの間の老いらくの恋。無理やり切り離された男女の再会を求めるラブストーリー。「愛」が主題の極めてシンプルなナラティブだ。

だが、マトリックス内部で繰り広げられる「愛」という主題に対して、そのマトリックスの効果的運用を考える、いわば「運営」としてのマシンが重視するのは、システムへの「性(sex/gender)」の取り込みである。それは、マシンが進化という事象に関心を持つようになった理由でもある。(ネオのような)アノマリーを、それまでのように排除するのではなく、むしろ先んじて内部に取り込むことで、マトリックスシステムの自律的進化の可能性に関心を抱いた結果だ。

興味深いのは、7周目のマトリックスでは、マシンは性淘汰を想起させるような、つがいとしての男女のペアの存在意義に気づいたことだ。そこから進化のメカニズムの効果についても検討し始めている。そうでなければ、ネオだけでなくトリニティまでわざわざ身体から復活させることなどするはずがない。

進化は、自らの意志だけで制御できるものではない。周囲との関係性の中で生じるものだ。つまり、マトリックスというシステム=生態系の進化も、人類とマシンの共同作業にならざるを得ない。彼らの間での、騙し騙され、奪い奪われの関係が継続されることで、総体としてのシステムは進化する。マトリックスをホストするマシンの意図はそこにある。高次の目的たる「進化」のためにネオたちを利用するのだ。スミスもアナリストも、マシンから見れば、ネオ同様、マトリックスの進化を促すエージェント、手駒にすぎない。プログラムも人間も変わらないのだ。そこにはトランスやポストという形容のつく新しいヒューマンのあり方が問われているといってもよいのだろう。

この点は、マトリックスらしい哲学的問いともつらなる。

マトリックスの哲学といえば、その核心は“What is real?”という問いである。かつての三部作ではこれは「現実とはなにか?」という問いとして何度も繰り返され、その都度、仮想の世界、支配された世界に変わる「本当の世界」を探す戦いが繰り広げられた。一種のクエストだった。しかし、同じ“What is real?”という問いでも今回の新作で問われていたのは、「存在とはなにか?」である。「本当の自分」の居場所を探し当てた後に、どこにいる自分が本物か?という問いに転じていた。マトリックスの哲学も、認識論から存在論へと力点をずらしている。こうした動きは、それこそマルクス・ガブリエルのような新世代の哲学者が問いかける「実在論(リアリズム)」の問いとも呼応している(ガブリエルによれば、彼の提唱する“Neo-Realism(新実在論)”のNeoとは、マトリックスの「ネオ」のことでもあるのだという)。バーチャルの次元における存在もまたリアルであると捉えるなら、存在とはなにか、という問いに至る。今回、本来はデータの集合体にすぎない新モーフィアスが、ナノ粒子を使った黒い亡霊のような存在として現実世界に現れる描写があったのも、“What is real?”の問いの力点が動いたことを示している。それは、スマフォ以前のインターネットをせいぜいPCで使っていた90年代には想像できなかったリアルをめぐる問いだ。新モーフィアスのようなハイブリッドな存在の登場は、そのような問いを具現化したものだった。

本作が孕む「映画からゲームへ」という同時代性

このようなメッセージからすれば、今回の映画におけるスタイル、美学と言った時に外せないのものが、最初から映画画面を支配する「ゲーム」という要素だ。むしろ、ゲームの時代にあわせてマトリックスを作り直すこと。それが、レザレクションズ=復活、の意味することだった。“Resurrections”とは、復活したのがネオとトリニティだから複数形なのではなく、マトリックスの世界そのものが、複数の形で「復活」したことを意味している。それは関連ゲーム(Matrix Awaken)のリリースを含めてのことだ。

実際、三部作の頃との状況の違いで最も大きなものといえば、物語といってイメージされるものが「一つの映画世界」から「多数のゲーム世界」へと転じたことだろう。だが、もとはといえばそれがデジタルワールドである本来のマトリックスの姿であった。

20年前の三部作のときに、マトリックスというサイバーワールドの「イメージの雛形」が映画であったのは、まだ映画にしか多くの人がリアルを感じられなかったからだ。そのため、第1作の『マトリックス』の世界は、現実の物理的な自然世界をそのまま写し取ったような、その限りで映画的な「リアリズム」に基づくものとして構成された。現実の物理世界をそのまま「1対1」で複写したような世界が構築され、その世界は、現実の物理世界と同様に、どこまでも続く「連続」的なものとして想像/創造された。

もちろん、それは第1作の物語構成上必要だった「ミスリーディング」のためでもあった。物語冒頭のキアヌ扮するトーマス・アンダーソンの生きる世界を、現実の物理世界と遜色のない印象を与える、現実世界と瓜二つの世界として観客に差し出す必要があった。

それに対して『レザレクションズ』の世界では、三部作のストーリーは傑作ゲームタイトルとして世間に流通している。だから、映画冒頭のトリニティがマトリックスにハッキングするシーンをバッグスは、あ、あの第1作のシーンだと即座に理解することができた。バッグスたち若い世代にとって、かつての三部作は学習=鑑賞済みの歴史=映画の一場面なのである。なんてことはない、バッグスたちは『マトリックス』という物語の大ファンであり、ネオは実は生きている、という都市伝説を信じて行動するコアなファン、すなわち信者なのだ。だから冒頭のシーンを見ても、オリジナルとの違いに即座に気づけてしまう。

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このように、三部作の映画は、過去に「起こった=プレイされた」「歴史=ゲーム」であるという理解が、今回の新作で新たに登場したキャラクターたち、ネオの同僚のゲーム会社のクリエイターたちまで含めて浸透している世界が『レザレクションズ』の舞台である。作中で語られるように、かつて実際にあったことの記憶も、後でそれを振り返るときにはひとつのファンタジーとなる。語りの真理とされ、なんの疑問ももたれない。それが『レザレクションズ』の世界である。

それほどまでに「ゲームの時代」を反映した映画なのだ。ゲームにかしずいていくことで生き長らえる映画の未来を想像させるような作品である。映画と違ってゲームは、日々キャッシュフローを期待できるビジネスだ。映画はもはや、ゲームに導くための長尺のティザーなのだ。しかもそのティザーにわざわざ人びとにお金を払わせて視聴させまでする。映像ビジネスが、デジタル時代のコンテントビジネスに飲み込まれ、その軸足が映画からゲームへと切り替えられた。これが第1作の『マトリックス』公開以来の20年間の積み重ねがもたらした大変貌だ。

映像メディア研究者のレフ・マノヴィッチは『マトリックス』公開の2年後である2001年に出した『ニューメディアの言語』という著作で、デジタル技術の登場以後、「映画はアニメーションの一ジャンルにすぎない」という洞察を示したことで知られる。

この指摘は、CGIを活用した大作映画が当たり前になった20年後の現在、もはや異論を挟む余地がない。かつて物理的な特撮技術で作られた映像も、今ではCGとして「演算された映像」が使われている。簡易なCGIによるプレビズを作り、それを用いてシーンのあり方を事前に検討し、グリーンシートを背景に俳優が演技をする。その傍らで、並行してCG班によって背景映像が演算/制作される。撮影後のポスプロの段階でも映像の細部をデジタル修正するのが当たり前。そうした映画製作の新たな現実は、「映画はアニメーションの1ジャンルにすぎない」という言葉を、遂行的に証明している。

本作が示したことは、このマノヴィッチの名言にならえば、映画を取り巻く事態はさらにラディカルに進展しており、いまや「映画はゲームの1シークエンスにすぎない」ということである。

その新たな真理を、サイバーワールドのイメージの原点の一つである「マトリックス」を舞台にして証明してみせたのが『レザレクションズ』である。すでに映画はゲーム宇宙のひとつの出力結果にすぎない。今やゲームは、映画をも飲み込んだ巨大なナラティブ創出機械である。同一のキャラクターを使って異なる物語がいくらでも紡がれるプログラムだ。

もっともこんなことは、日々、通勤電車の中で、いや通勤だけでなくたとえば営業の移動のために乗った電車の中で、スマフォを取り出してゲームに興じている若い世代からすれば、わざわざ指摘されるまでもなく、直感的に思い起こされることなのかもしれない。

『レザレクションズ』は、そうした現代のデジタルワールド、サイバーワールドの現実も表現している。第1作では一介のプログラマに過ぎなかったトーマス/ネオが、本作ではゲームデザイナーに「ランクアップ」していることも、そうした時代の変化の現れだ。

ゲームの圧が日毎に増していく社会。それが7周目のマトリックスが表現した同時代的(コンテンポラリー)な世界の実像である。

この意味でも、7周目のマトリックスを掴む鍵は「ミラー=鏡」なのだ。ミラーに映しだされたように、6周目と反転した世界が繰り広げられる。だがただ反転しただけでなく、前回の6周目の学習を経て、マトリックス自体も確かに進化した。その意味では「第7世代」のマトリックス、“The Matrix Ver.7”と呼ぶほうがいいのかもしれない。

マトリックスのシステムは日々進化する。マトリックスとは、人類とプログラムのインタラクションによって変貌を繰り返す、一種のエコシステムである。その限りで社会そのものだ。だが、現実の社会も実はそうして進化してきたのではないか。そんな問いも突きつける。

1999年のマトリックスと2021年のマトリックスを比較すること。そして、そのズレを正しく認識すること。情報化社会の本格的な到来によって、社会の価値観が、それこそ鏡のように反転する中、その幻惑的で幻覚的な鏡の中で、いかにして自主的に、自律的に生きるのか。マトリックスのからくりを全て知ったネオとトリニティが最後にとった選択は、だから必ずしもマトリックスの中に限られたことではない。そのまま2021年の現実社会へと反射的に流れ込んでくる。そのリアルに伴う苦さが、この20年という時間の重さである。こうしてエンタメとドキュメンタリー、フィクションとノンフィクションの世界も溶け合ってしまう。だが、それこそが「マトリックス」世界の創作者たるラナ・ウォシャウスキーが示した21世紀の新たな現実だった。逃げ場となる外部はどこにもない。だとすれば今ここで何をすべきなのか。