脳の機能解明につながるか? マウスの神経細胞の膨大な活動データが無料公開されたことの意味

81匹のマウスから取得した約30万個の神経細胞の活動データを、このほどアレン脳科学研究所が公開した。これにより、脳の各領域における機能の解明が進むことが期待されている。
脳の機能解明につながるか? マウスの神経細胞の膨大な活動データが無料公開されたことの意味
ILLUSTRATION: JUAN GAERTNER/GETTY IMAGES

神経科学の入門コースで、必ずと言っていいほど見せられる動画がある。一見すると大したことが起きているようには見えない動画だ。黒い画面上を白い線が移動したり回転したりしており、背景には遠くで開催されている花火大会から聞こえてくるようなパチパチとした音が鳴っている。

この音が、実は画面の線の動きを見ている猫の脳内にある個別のニューロンの発火を表していると知ったら、動画の見方が変わるだろう。白い線が特定の位置や角度になったとき、ニューロンは花火大会のフィナーレのように活発に発火する。

これが表していることは明白だ。神経細胞は白い線のことが気になって仕方ないのである。

この動画で紹介されている実験は、神経生理学者のデイヴィッド・ヒューベルとトルステン・ウィーゼルが1960年代に実施したものだ。そして、科学者たちが脳の視覚系の働きに関する基本原理を推論する際に貢献している。この実験のあと神経科学者たちは何十年にもわたり、マウスや小鳥、サルの脳に金属の細い電極を刺して個々のニューロンを観察し、何に対して発火するのかを調べてきたのだ。

その結果、特定の色や形状に反応するニューロンや、空間内の特定の位置や頭の向きに反応するニューロン、顔全体や個別の特徴に反応するニューロンなど、さまざまなニューロンが存在することが判明した。

個々の神経細胞を分析する手法は強力ではあるものの、「誰もがもっと多くのニューロンのデータを求めてきました」と、カリフォルニア大学ロサンゼルス校の神経生物学教授であるアン・チャーチランドは語る。

その理由のひとつは、純粋に統計学的なものだ。どのような実験であろうと、観測データが多ければ多いほど分析の役に立つ。

科学者たちは個別に観察したニューロンを解析するとき、壁にぶつかった。脳の前面に位置し、計画の立案や意思決定、社会的な行動に大きな役割を果たす前頭前皮質のニューロンは、視覚的な特徴や作業、意思決定などさまざまなものに反応する。このため研究者たちは、少なくとも個別にはそれぞれの役割を特定できなかったのだ。

ヒューベルとウィーゼルが実験で記録した脳の後方にある一次視覚野においても、動物が特定の方向に傾いた線を見たときに実際に発火したニューロンはごく一部にすぎなかった

無料公開された神経細胞の膨大な活動データ

ヒューベルとウィーゼルの手法では、片手で数えられる数以上のニューロンを同時に観察することは不可能だった。ところが、科学者たちはこの限界を押し上げ続けた。そして2017年に「Neuropixels」と呼ばれる電極が開発されたたのである。

長さ1cmのシリコン製の電極であるNeuropixelsがひとつあれば、数百のニューロンの活動を同時に観察できる。さらに、これは神経科学者が動物の脳に数本も刺せるほど小型なのだ。

そこで、マイクロソフト共同創業者の故ポール・アレンが設立した非営利研究機関であるアレン脳科学研究所は、6つのNeuropixelsを使ってマウスの脳における視覚系の8つの領域の活動を同時に記録した。こうして、81匹のマウスから取得した約30万個の神経細胞の活動データを22年8月に公開したのである。希望する研究者は、このデータを自由に利用できる。

この種のデータセットとしては過去最大規模であり、データ量はそれまで最大だったものの約3倍だ。研究者は公開されたデータで膨大な量の神経細胞が協調して作用する様子を観察できる。この前代未聞のデータ量により、これまで科学界が把握できなかった認知の各領域を理解できる可能性が開かれるかもしれない。

「人間がどのように考え、目で見て、判断しているのかを理解したいのです」と、このプロジェクトで中心的な役割を果たしたアレン脳科学研究所の研究者であるショーン・オルセンは語る。「それは個々のニューロンのレベルで起きることではありません」

解析における次なる課題

次の課題は、この大量のデータをどのように解析するかという点だ。膨大なデータセットの取り扱いは容易ではない。データの共有やダウンロードでさえ困難な場合もある。

しかし、どれだけ解析が困難であろうと、多くの研究者にとってこのような規模のデータで研究できることには非常に価値がある。研究者は自身の思った通りに脳の活動を調べられるからだ。

COURTESY OF THE ALLEN INSTITUTE

ヒューベルとウィーゼルは、脳の活動を組立ラインのように捉えていた。特定の役割に特化したニューロンのまとまりが、それぞれのタスクを分担してこなしていると考えたわけだ。

赤い風船を見せれば、赤色と丸の形に反応するニューロンが個別に反応する。しかし、このような考え方は脳の実際の機能の仕方を適切に捉えるものではなかった。ニューロン同士は密接につながっており、どのニューロンも個別に活動することがないからである。

「脳は一度にひとつの神経細胞を見ているわけではありません」と、コロンビア大学の神経科学教授であるステファノ・フーシは説明する。「神経細胞は何千ものほかの神経細胞の活動を見ています。だから、わたしたちも同じように捉えるべきなのです」

前頭前野のような脳の領域では、すべてのニューロンがあらゆるものに反応する。その様子はある意味、さまざまな作業に精通している職人が集まる工房の活動に似ている。

ある職人は粘土を扱うことが得意で、別の職人は釉薬をかけることが得意かもしれない。こうした職人が力を合わせることで、さまざまなものをつくり上げるわけだ。

このような多様性は強みであり、人間が得意とする複雑な問題解決や推論に必要不可欠なものである可能性が高い(前頭前野の研究では、神経細胞のまとまりが異なる状況に対して多様性のある反応を示したサルのほうが記憶の課題においてよりよい成績を収める傾向を示したと、フーシは説明している)。

一方で、高度に専門化したニューロンのまとまりは柔軟性に欠け、その活動は組み立てラインに似ている。つまり、限られたことしかできないのだ。

とはいえ、組み立てラインの活動なら非常にわかりやすい。プロセスの各工程を個別に検証し、それぞれが製品にどのように寄与しているかを正確に把握できるからだ。

しかし、活発なやりとりのある工房では、職人の活動を個別に検証して把握することは難しい。前頭前野といった脳の各領域における神経細胞の活動にも同じことが言える。

また、こうした集団的な活動パターンは複雑すぎるので、数学的なツールの助けを借りずに人が把握することは困難だ。「視覚化できるものではないのです」とフーシは説明する。

注目される「次元削減」の手法

そこで神経科学者は、ニューロンの活動の可視化を実現するために、「次元削減」と呼ばれる手法を用いている。何千もの神経細胞から取得したデータに線形代数の巧妙な技術を適用することで、いくつかの変数だけでその活動を表すのだ。

これは心理学者らが1990年代に人間の性格を5つの特性で定義(開放性、協調性、勤勉性、外向性、神経症傾向)するために使った手法と同じである。5つの特性における得点を知るだけで、その人が性格診断テストの何百もの質問にどのように答えるかを効果的に予測できることが判明したのだ。

しかし、神経細胞のデータから抽出した変数を「開放性 」といった単語で表すことはできない。これはどちらかというと“モチーフ”のようなもので、すべての神経細胞に及ぶ活動のパターンを表している。

モチーフのいくつかはグラフを描くための座標軸を定義し、各点でこれらのモチーフの異なる組み合わせを表すことができる。これで独自の活動を視覚化できるというわけだ。

とはいえ、何千もの神経細胞から取得したデータをわずか数個の変数で表すことには、マイナス面もある。3Dの街並みを2Dで撮影すると一部の建物が完全に見えなくなってしまうように、複雑な神経細胞のデータの次元を落とすと、細かな情報が大量に失われてしまうのだ。

しかし、数次元でデータを捉える方法は、何千もの個々のニューロンを同時に調べるよりもはるかに扱いやすい。また、モチーフで定義された座標軸に変化する活動パターンを落とし込むことで、時間とともにニューロンの活動がどのように変化しているのかを観察することもできるのだ。

この手法は、運動野で特に有効であることが証明されている。運動野の個別のニューロンの反応は複雑で予測できなかったことから、研究者を長らく悩ませてきた。しかし、ニューロンのまとまりを分析したところ、規則的でたいていは円形の軌道を描いていることがわかったのだ。

これらの軌道の特徴は、運動の特定の側面と相関していた。例えば、軌道の位置は速度と関連していたのである。

複雑なデータから解釈可能なパターンを抽出するために、アレン脳科学研究所のオルセンは科学者たちが次元削減の手法を用いることを想定しているという。「ニューロンをひとつずつ調べるわけにはいきません」とオルセンは言う。「ビッグデータから構造を見つけるための統計学的なツールや機械学習ツールが必要なのです」

新たな分析ツールの必要性

しかし、このような研究はまだ初期段階にあり、科学者たちはデータから抽出したパターンや軌道が何を意味するのかについて、共通の見解を導き出す点で苦労している。

「これらが実質的な結果であるかどうかについて、研究者たちは常に争っています」と、ジョンズ・ホプキンス大学の神経学と神経科学の教授であるジョン・クラッカウアーは語る。「結果は本物なのか。個別のニューロンの反応と同じように単純に解釈していいものなのか。結果が地に足の着いた具体的なものに感じられないのです」

軌道の正当性を確かめるには新しい分析ツールを開発する必要があると、カリフォルニア大学ロサンゼルス校のチャーチランドは指摘する。アレン脳科学研究所が公開したような大規模なデータセットを利用できるようになれば、この部分は間違いなく前進するはずだ。

また、アレン脳科学研究所は豊富な資金と膨大な研究員を有しているので、そうしたツールを試すためのデータを大量に用意できる。アレン脳科学研究所は天文台のような役割を果たしていると、オルセンは言う。どの研究所も単独ではその技術にかかる費用を負担できないが、科学界全体がアレン脳科学研究所の実験能力の恩恵を受けながら、そこに貢献しているということなのだ。

現在、アレン脳科学研究所では動物の数千のニューロンの活動を記録する際、どんな種類の刺激を与えるべきか、あるいはどんな種類の作業をさせるべきかについてコミュニティ内の科学者たちからの提案を受け付けるシステムの試験運用を進めていると、オルセンは説明する。

ニューロンの活動を記録する性能が高まるにつれ、研究者はニューロンの総合的な能力が最大限に発揮されるような現実世界の難題に対する反応を観察しようと、より現実的で充実した実験の枠組みを考えている。

「脳を本当に理解しようと思ったら、大脳皮質に動く白い線を見せるだけでは足りません」と、コロンビア大学のフーシは語る。「そこから先に進む必要があるのです」

WIRED US/Translation by Nozomi Okuma)

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