BOOK REVIEW

“世界の終わり”はあなたの人生の困難に優先されるか:パオロ・ジョルダーノ『タスマニア』レビュー

世界的ベストセラー『コロナの時代の僕ら』で“あの奇妙な春”を描いたジョルダーノの最新作。世界の終わりが来るならば、逃げる先はタスマニアがいい──そんな約束された場所は、この地上に、あるいは一人ひとりの人生においても、はたして存在するのだろうか。
パオロ・ジョルダーノ『タスマニア』レビュー:“世界の終わり”はあなたの人生の困難に優先されるか
PHOTO: DAIGO NAGAO

いまなお被災者の生活再建がなされていない能登半島地震が起きたのは本年元日。ロシアのウクライナ侵攻も長期化し、パレスチナ問題も他国を巻き込み深刻化するばかり。グローバルニュースがほぼタイムラグなしで報じられる現在、世界的な規模で生成する大事が日常と並列して置かれる奇妙さのなかにずっと心身が浸されているように感じている。

2020年の新型コロナウィルス感染症の蔓延時、「緊急事態」の名のもとに各国、各地域が封鎖され鎖国状態になったあの奇妙な春。イタリアから届けられたパオロ・ジョルダーノの『コロナの時代の僕ら』を手にした驚きを鮮明に記憶している。

ウィルスの実態解明が進まず行く末がまったく予見できないなか、素粒子物理学を専攻した経歴をもつジョルダーノは冷静に対象、ウィルスとウィルスが流行する事象を分析し、作家として書き留めようとしていた。

ウィルスが浮き彫りにした現実……この世界がいかに煩雑に輻輳し、わたしたち一人ひとりを互いに結びつける層(レイヤー)がどれほどあり、「世界を構成する各要素の論理がいずれもいかに複雑であるか」ということ。グローバル化による相互のつながり、絡み合いの度合いを示す「ものさし」として今回の新型ウィルス流行があるのでは、という疑義。国家単位、日本で言えば都道府県単位で厳密にルールが敷かれたが、むしろ地図上の「境」はあやふやになり、拡張しているはずの世界が奇妙に縮小していくような感覚にも襲われたことを憶えている人も少なくないのではないだろうか。

未だ経験したことのない非常事態下、作家であるジョルダーノは綴らずにはいられなかったのだ。2020年2月から3月にかけて書き下ろされたエッセイは訳者の功もあり緊急出版された。書店に入荷したとき、照明は点灯しているのに灯火管制のごとき暗い気配があった。記憶のなかでは、ひっそりとした店内でそれでも平台の最も目立つ場所に置かれた本の表紙、白地に銀色の線で描かれた街角にひとり佇む人物の後ろ姿が本から立ちのぼるような錯覚を覚えた。その瞬間、見えない敵に抗う虚しさ、「孤」であることの捉え難い恐怖──すべてが無音になり自らが発する耳鳴りだけが異様に膨張してハウリングし、得体の知れない怖気に包まれていた。

初めてのオートフィクション

そこから2年半、イタリアで2022年10月に発表されたのが『タスマニア(原題:Tasmania)』だ。訳者は『コロナの時代の僕ら』と同じくイタリア在住の飯田亮介氏。日本では早川書房が翻訳権を独占し、全世界35カ国で刊行が決定しているという。

こちらはフィクションであるが、読むとわかるように主人公にはジョルダーノ自身が投影されている。気候変動という世界的な危機に晒されつつも、主人公は夫婦関係破綻の瀬戸際に立たされ、不妊や友人の抱える諸問題が彼の日常を占拠するのである。

作家と新聞記者を兼務する「僕」は妻から逃げるように各地をさまようのだが、最終的には何かに突き動かされるように被爆地・広島と長崎を訪う。解説によるとジョルダーノ自身も原爆と被爆者の取材のため来日しており、本作が初めてのオートフィクション(私小説)であることが自明となる。

ジョルダーノはなぜこの作品を書いたのだろう。コロナ禍に荒らされいまだ癒えないこの地球の「現在」を写し取り、かつ「放射線」が人類を蹂躙した過去に接近しようとしたのはなぜなのか。とは言え、本作においてはコロナ禍の時間がすっぽりと抜け落ちている。2021年の「現在」から回想されるのは2015年、あるいは2017年。終盤の時制は原爆投下から77年後の2022年。この間、人類にとって最大のトピックスのひとつであったコロナ禍の実際は一切描かれないのである。

それはまるで、「源氏物語」全五十四帖のひとつ「雲隠」のようである。「雲隠」以前は光源氏が生きており以降の帖では死後の世界が描かれるが、光源氏の死そのものは描写されない。つまり、巻名だけで本文をもたない帖が主人公光源氏の死を強く象徴するのと同様の仕掛けのような、不在の存在感を湛えた空白が逆に焦点化される。これはつまり、コロナを描かないコロナ小説であるとも言えるのだ。

「僕」が見つける使命

舞台は三つに分けられている。

第一部「世界の終わり(アポカリプス)が来たならば」で描かれるのは、2015年。深刻な気候問題により世界の終末を予感させる気配に覆われた世界に誰もが強い危機感を抱きながら、日常は些末な煩わしさに追われている。

主人公(この時点で名は明かされない)は、9歳年上の妻との不妊治療がうまくいかず、屈辱的な治療のみならず妻自身から逃げるように取材旅行を続けている。彼には明確な自覚があった。つまり、「紛争とか、人道危機とか、とにかく自分の抱えている懸念とは別種の、それだけで頭をいっぱいにできる、ずっと大きな問題を言い訳に」することで、「自分の苦しみをごまかそうとする欲求」が満たされるのではないか、と。

文章は過去を回想するかたちで書かれるが、彼はこう記す。「あのころはそんな自分の些細な個人的災難が地球規模のそれよりもずっと切実だった」と。そしてこの一文はそのままこの物語の核であるとも告白される。冒頭すぐ、ジャレド・ダイアモンドの『文明崩壊』が引かれる。友人のジュリオが貸してくれた本だが、彼はそのときに「絶滅を興味深い観点から語った本だ」と申し添える。その「絶滅」という語を、主人公は「僕個人の運命に貼りつけられたレッテルみたい」と捉え、世界滅亡と個の災難を並置し、時に不等号の向きを変えながらなんとかバランスを取って日々をしのいでいくのである。

何しろ、日本版で340ページ超の大書である。登場人物は多い。だが、それぞれの背景が丁寧に描出されいくつもの「物語」が束ねられてゆくなかで、読み手はきっと“誰か”に自己を投影し得るだろう。

本を貸したジュリオの抱える問題は、離婚した妻との間の息子、アドリアーノの親権について。彼もまた「個人的災難」に日々を奪われている。

新たに出会った気象モデルの研究者で雲マニアであるノヴェッリ。彼の口から「感染爆発」という言葉が出てわれわれは一瞬ドキリとする。だが彼は、干魃や水資源の汚染、さらにはイスラム国や地球温暖化と同列でこの語を使うのだ。そして主人公自身もこのくだりでは何か引っかかりを感じた様子だがそれ以上は語られない。このノヴェッリという人物は「彼にしか見えない事象」を見る側の人間として描かれるのだが、この存在が醸す不穏さもまた物語の重要なカギとなる。

ほかに、主人公が非常勤で受けもつ講座の多感な受講生クリスティアン、妻と一緒にケアを受けた縁で知り合った司祭カロル、ノヴェッリの妻カロリーナ、通信員の特派員として「自爆テロ(カミカゼ)・ツアー」の途中だというクルツィア。そして何より、主人公の妻ロレンツァと彼女の連れ子であるエウジェニオ。

それぞれの事情、「個人的災難」が詳らかにされ、「僕」との接近が物語を牽引していく。その最中、「僕」は物理学者誰もが本能的に遠ざかろうとする「あの話」──「原爆」を追うべきと気づく。「世界の終わり」の予感を前に、「世界を終わらせてしまうかもしれない物」に挑戦しなければならないと自らの使命を自覚するのだ。

アポカリプスとしての“タスマニア”

タイトルにもなった「タスマニア」はオーストラリア南海岸沖の離島にある州だ。主人公がノヴェッリに「世界の終わり(アポカリプス)が来た」としたら、危機を逃れるためどこに土地を買うかと訊ねるのである。その返答が「タスマニア」。理由は、「あれほど南なら極端な高温にはならないでしょう。水資源も豊富で、民主主義国家の領土ですし、人間の天敵となる動物もいない。それほど狭くはなく、しかも島ですから防衛もしやすい」。これほど合理的で理にかなった根拠はない。だがここから、「タスマニア」は「僕」にとって、いや、われわれ読み手にとっても、単なる地名ではなく全人類を救うかもしれない理想郷として肥大していくのである!

そして第二部「雲」は、1945年8月9日の深夜(米国時間)、テニアン島を離陸する爆撃機B29の描写から始まる。その経緯を、被爆した当事者タナカ・テルミは長い歳月ののちに知るのだが、彼の語る「閃光」の様子は真実そのものであり、ここにフィクションはない。映画「オッペンハイマー」で描かれなかったことで議論を呼んでいる爆発の実際。閃光はどこか特別な方角から届いたのではなく、「一瞬であたりを満たしたんです」と彼は語る。「ほかのどんな光とも違う」「真っ白な光」だったと。

第二部「雲」の雲とは、原爆のキノコ雲ではない。B29が当初爆弾を投下しようとしていた長崎のある地点にかかっていた雲である。雲下にいた者たちの生死を変え、運命を変えてしまった「雲」。そして、雲の写真コレクションをもつノヴェッリは「僕」から示唆を受けて雲のコラムを連載しはじめ、彼にとっては「個人的災難」となった問題で「僕」との関係性も、社会からの評価も変容させてしまうのだ。

作家からの「黙示」

ここまではまだコロナ以前である。妻との別居状態は長期戦に突入し、ジュリオの災難もかたちを変えながらも継続している。「僕」は相変わらず原爆──「七十年前に日本で起きた、今じゃ誰も関心がない出来事」について書く糸口を掴めないままもがいている。だが、「僕」こと「P・G」は気づいていたのかもしれない。誰もが心中に追い求める“タスマニア”など、この地上のどこにも存在しないことを。本当の自然などないことを。人類の行為が景観や自然環境に及ぼす変化、「人間化(アンスロビゼーション)から逃れる術はない」ということを。

そして第三部「放射線」という短いパートで、P・G、いやジョルダーノは被爆二世の女性と会う。彼女から「放射線」が生者に残した残酷な傷跡を聞き、物理学者として「放射線」を再定義する。このとき彼は、人体を構成する要素もまた放射線であることを確認し、「死者」たちがどのように地球を取り巻いているか、宇宙空間からこの星を俯瞰する大きな視座を提示し、あらためて読み手を驚愕させる。

再度、ジョルダーノがわれわれに投げかけた大きな問いが脳裏をよぎる。

世界は拡張しているのか、それとも「個」よりもさらにミクロな極小に収斂しているのか。

奇しくも、新聞で石原吉郎の詩「世界がほろびる日に」が紹介されていた。(「朝日新聞」2024年3月29日「斜影の森から35」福島申二)

石原は苛酷なシベリア抑留を経験している。この詩を引いた元朝日新聞編集委員の福島は、「わずか8行だが、世界の滅亡という破局と日常の些事とのアンバランスが妙にリアルな恐ろしさを醸し出す」と記している。

この記事を読み、思わず声が出た。P・Gが、いやジョルダーノが書き記そうとしていたのもこれではなかったか。大きな問題を前に内省していく、個にかえるわたしたちの声や言葉が逆照射するもの──。

『タスマニア』で描かれなかったコロナ禍を、「雲隠」としてジョルダーノは見事に描出した。そして強く実感する。わたしたちは未だ「緊急事態下」にいるということを。戦争も気候変動も、ジョルダーノが指摘するように、「今回のパンデミックのそもそもの原因が秘密の軍事実験などではなく、自然と環境に対する人間の危うい接し方、森林破壊、僕らの軽率な消費行動にこそある」のだということ。

ひとりの作家が読者一人ひとりに想像させようとした「世界の終わり」の物語は、文字通り「アポカリプス=黙示」であったのだ。

八木寧子|YASUKO YAGI
文芸批評家・エッセイスト・書店員。書評専門紙、文芸誌、新聞などに書評や批評、エッセイを執筆。また、書店員(人文・映画・音楽担当)としてフェアやイベントの企画・運営にたずさわっている。

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