2020年の終わり、最初の新型コロナワクチンが世に出た時、メッセンジャーRNA(mRNA)は表舞台に飛び出した。そして数年のうちにmRNAへの関心は爆発的に伸びた。現在、十を超えるmRNAワクチンの臨床試験が行われており、その中にはインフルエンザやヘルペスのワクチンも含まれる。さらに科学者たちは予防のためだけでなく、mRNAを病気の治療に使おうとしている。その最大の標的のひとつががんだ。
主な課題は、治療を必要とする体の部位に分子をどうやって届けるかだ。脂質ナノ粒子と呼ばれる脂肪の泡は、RNAを細胞の中まで運び込み、さまざまな組織に届けることができるが、特定の場所に届けることはできない。がんの治療で問題になるのはここだと、米ボストンに拠点を置くバイオテクノロジー企業、Strand TherapeuticsのファウンダーでCEOのジェイク・ビクラフトは言う。なぜなら、多くのがん治療は「標的以外の組織で信じられないほどの毒性を持ち得る」からだ。だが、彼の会社は解決策を見出した。
特定の細胞で特定の働き方をする
Strand Therapeuticsは、コンピュータコードのようにmRNAを“プログラミング”して、あるタイプの細胞でのみ、特定の時間に、特定の分量だけ機能するよう働かせる方法を発見した。同社は1月22日、アメリカ食品医薬品局(FDA)が固形腫瘍を持つがん患者に対してこの手法を試す臨床試験にゴーサインを出したと発表した。Strand Therapeuticsはこの春、参加者の登録を始める計画だ。プログラムされたmRNAでヒトに対する治療が行われるのは初めてのこととなる。
ヒトの細胞すべてに自然に備わるmRNAは、体が機能するのに必要なタンパク質をつくる遺伝子の設計図である。ファイザーやモデルナが新型コロナワクチンをつくるのに使った合成版mRNAは、新型コロナウイルスのスパイクタンパク質に似たものをつくる指示を出す。腕の筋肉にある免疫細胞は、このスパイクタンパク質を異物と認識して警報を発する。すると免疫システムが警報に反応して、体を守るために抗体をつくる。そのため、本物のコロナウイルスが入ってきたとき、体はすでに抗原に晒された状態を経験しているためにウイルスと戦う用意ができている。
がん治療のためにmRNAを使うのも同じような仕組みだ。腫瘍細胞は免疫細胞をすり抜けることで悪名高い。だが、合成mRNAは腫瘍の存在を知らせて免疫システムを発動させるために、がん細胞に特定のタンパク質をつくるよう指示することができる。
目標以外にたどり着いたら自己破壊
Strand Therapeuticsの治療は、インターロイキン-12(IL-12)と呼ばれる炎症性タンパク質を作らせるためにmRNAを利用する。IL-12は免疫細胞を即座に行動させ、タンパク質を検知した時に検知した場所で、がん細胞を殺す一連の作用を発効させる。「わたしたちのmRNAがやるのは、腫瘍のところに行って、タンパク質を分泌させることです」。ビクラフトは言う。「つまり腫瘍がタンパク工場となるのです」
研究者たちは以前から、IL-12を使ったがん治療の可能性に目をつけていた。だが、1990年代の初期の治験では被験者が酷い副作用に悩まされたためIL-12を使った試験は中止された。当時、タンパク質IL-12は直接血流に投じられたため、身体中に激しい炎症反応を引き起こした。複数の会社がIL-12の安全なバージョンを作ろうとしたが、大手製薬会社の興味は次第に萎えていった。2023年、ブリストル マイヤーズ スクイブが試験を中止。アストラゼネカと提携先のモデルナもそれに続いた。
IL-12を腫瘍の内側に留めておくために、Strand Therapeuticsの科学者は、腫瘍微小環境(がんを取り囲んだり栄養を与える細胞など)を検知した時だけ炎症性タンパク質をつくるようmRNAに指示を与える遺伝子回路を設計した。この回路は、さまざまなレベルのマイクロRNA(遺伝子の発現をコントロールし、がん細胞に正常細胞とは違うの特徴を出させる分子)に感応するようデザインされている。この遺伝子回路は、意図した目標以外の場所にたどり着いたmRNAに自己破壊しろという命令を出す。
「行ってほしくない場所に行ったらスイッチを切るmRNAを作り出したわけです」。ビクラフトは言う。
この手法に効果があり安全であることを示すために、Strand Therapeuticsはまずメラノーマ(皮膚がんの一種)や乳がんのような「届きやすい腫瘍」をターゲットにする。治験では、医師はmRNAを直接腫瘍に注入し、薬効がそこに限定されていることを確認する。将来的にStrand Therapeuticsは、プログラムされたmRNAを点滴で全身に流し、手の届きにくい部位の腫瘍も治療できるようにしたいと考えている。mRNAが特定の組織や細胞にのみ選択的に働いて治療に役立つというのが基本構想だ。
エモリー大学ウィンシップがん研究所のmRNA研究者フィリップ・サンタンジェロによると、点滴ではなく腫瘍に直接投与するやり方でも、Strand TherapeuticsのプログラムされたmRNAを使う手法にはメリットがあると語る。「注入する時、がん以外の場所に広がったとしても、影響が及ぶのは腫瘍のある範囲にとどまるでしょうから」
血液検査でタンパク質の漏れを確認
IL-12は血中で検知できる。したがって、研究者は血液検査をすれば炎症性タンパク質が漏れていないことを確認できる。Strand Therapeuticsはタンパク質がどこにたどり着くかを見るため、さまざまな臓器をモニターする計画だ。意図された通りに治験が進めば、腫瘍がある場所以外で炎症性タンパク質を見つけることはないはずだ。
だがコンピュータ回路と同じように遺伝子回路も時折間違いを犯すと、Strand Therapeuticsの共同創立者で現在は顧問を務めるマサチューセッツ工科大学の生物エンジニアリング教授のロン・ワイスは言う。「10にひとつの間違いなら、その遺伝子回路は治療に使いたくないでしょう。だが、もしもミスが百万にひとつなら、かなりいいと言えるでしょう」
Strand Therapeuticsの治験をはじめとする遺伝子回路の初期の実験成果が出るのはこれからだ。「遺伝子回路には効果があり、がん治療の安全性と効能に大きなインパクトを与えるというのが基本的な考え方です」とワイスは言う。
遺伝子回路の先駆者はワイスで、最初はDNAを基本にしていた。2013年に大学院に入ったビクラフトは、ワイスの研究室に入ってmRNAで遺伝子回路を研究し始めた。当時、多くの科学者はまだmRNAの潜在力に懐疑的だった。
今や、ワイスは遺伝子回路を使ってより洗練された動作や高度に精緻な治療をプログラムできる可能性を思い描いている。「根っこにある生物学の複雑さと同じくらい洗練された治療法を開発する可能性に向けて、今まさにドアが開こうとしています」
(WIRED US/Translation by Akiko Kusaoi, Edit by Mamiko Nakano)
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