新時代の斜陽貴族を象徴するダウントンの雨漏り対策:『ダウントン・アビー/新たなる時代へ』池田純一映画レビュー

映画『ダウントン・アビー/新たなる時代へ』は、絶妙のタイミングでの日本公開となった。本作の主役は、シリーズを通じて事実上のクイーンであった老女バイオレットにほかならないからだ。いったい、どのような「新時代」が描かれているのか。物語に潜むアレゴリー(寓意)を、デザインシンカー・池田純一がひもとく。【ネタバレあり!】
新時代の斜陽貴族を象徴するダウントンの雨漏り対策:『ダウントン・アビー/新たなる時代へ』池田純一映画レビュー
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イギリス人の諧謔精神、侮り難し

イギリスのエリザベス女王が2022年9月8日、96歳の生涯を終えた。9月19日にはロンドンのウェストミンスター寺院で国葬がなされ、世界中から500人を超える国家元首や高官が参列した。一般市民からも、UK(連合王国)各地だけでなく、コモンウェルス(英連邦)諸国からも弔問のために多くの人たちが訪れた。

新作『ダウントン・アビー/新たなる時代へ』のレビューにあたって、エリザベス女王の崩御のことから始めたのは、そのこととこの映画第2作とを切り離して考えることが難しいからだ。奇しくも、この映画は全編、『ダウントン』の事実上のクイーンであった老女バイオレットの話だったのだ。

『ダウントン・アビー/新たなる時代へ』
2022年9月30日(金)公開 配給:東宝東和

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それもあって、この映画のレビューも一時は見送ろうかと思っていたほどだ。というのも、本書で描かれるバイオレットの姿を、実在のクイーンに重ねることが一種不吉なことであり、人によっては不敬だと受け止めるかもしれないと思ったからだ。

テレビドラマ『ダウントン・アビー』の第1話から一貫して変わらず、イギリスの貴族社会の伝統や慣習、美学、様式について、彼女の愛する孫娘たちを含めて、作中に登場する人びとを諭す──ときには憤慨して叱責する──役割を担ってきたバイオレットは、この映画で最期を迎える。

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そんなバイオレットの最期の物語に「新時代」という副題をつけるのだから、イギリス人の諧謔の精神は侮りがたい。バイオレットの死を通じて、それまでの「旧時代」が幕を閉じるのだが、そのことが、この映画の企画時点──前作は2019年公開──ですらすでに90歳を超えていたエリザベス女王のことを自ずと想像させるものであった。事実、最初にこの映画を見たとき即座にそう感じてしまった。レビューについて困難だと感じたのもそのためだった。

前作から主役が交代した理由

それでもバイオレットとエリザベス女王を並行したものとして受け止めてしまう。実際、この映画はそのようなアレゴリーに満ちている。すべてがアレゴリカルな含みをもつ。

「新時代」の到来とは、「旧時代」の終焉を含意する。それゆえ、「新時代」と冠されているにもかかわらず、本作に描かれているものの多くは、逆説的に懐古的なものばかりだった。

その中心にいたのがバイオレット。その意味では、映画第1作の物語の中心がトム・ブランソンであったこととよい対照をなす。

アイルランド出身ゆえ共和制への志向をもつトムは、その進歩的価値観から、登場当時からダウントンの中では異質な存在であった。そのため、彼が、バイオレットの孫娘のひとりであるクローリー家の三女シビルと結婚し、クローリー一族の一員となってからも他の一族のものとの衝突は絶えなかった。それでも、やがて次代のダウントンの中心である長女メアリーから一目置かれ、むしろ、領地経営という点でトムは彼女のビジネスパートナーとなっていった。

もちろん、人によっては、その様子をイギリス貴族に懐柔されたアイルランド人と見るものもいるだろうが、そのような評価を含めてトムは、伝統と進歩の両方を解する現実主義者とみなされた。そうした彼の位置づけは、映画第1作で前面に出されており、作中ではダウントンを訪れたイギリス国王に対する殺害計画を未然に防ぐことまでしていた。

その新たな融和の時代の象徴であったトムから、旧時代の象徴たるバイオレットへと主役が変わったのが映画第2作だった。

その移行は、開始早々、トムの結婚式を描くことで明らかにされていた。前作で出会った新たな伴侶ルーシーとともに、トムは新たなプロパティ(領地)を得てダウントンから離れることになった。アレゴリーという点では、この様子を、本作と同時代の1922年に自治領となり、本作後の1937年に連合王国から完全に独立を果たしたアイルランドの隠喩と捉えることも可能かもしれない。

あるいは、この映画における「イギリスとアメリカの関係」を、現代における「アメリカと中国の関係」になぞらえることもできるかもしれない。

第1次世界大戦を終えた時点で、産業革命に対応した大量生産を可能にする大企業社会として、すでに「アメリカの時代」が始まっていたのだが、その事実が現実に世界に伝わったのは1929年の世界大恐慌からだった。ニューヨークのウォール街で生じた株式市場の崩壊はヨーロッパにも飛び火し、その社会的混乱は後の第2次世界大戦にまで続くものとなった。

こうした状況は今なら、2020年に中国で始まったCovid-19によるパンデミックが、世界中を席巻し、世界のあり方を変えたことと平行的といえるのだろう。その意味でも本作はアレゴリカルだ。ダウントンの時代のイギリスが、日常生活の多くをアメリカに依存していたように──その象徴が今回のハリウッド映画──現代のアメリカの日常生活がどれだけ中国に依存したものであったか、コロナ禍で発生したグローバルサプライチェーンの毀損の問題などによって浮き彫りにされた。世界の工場となったアジア、とりわけ中国を中心に、フリクションレスなグローバル経済が構築されていたはずだったが、その「摩擦なしの経済体制」の脆弱さが明らかにされた。

自由の代償として文化が「商品化」された

それにしても、斜陽の帝国イギリスを象徴するような、ダウントンの邸宅の雨漏りの酷さといったらない。その修繕費用を賄うために、ハリウッドの映画撮影に邸宅を貸しだす始末だ。歴史的建造物を公開し、観光事業として、つまりは見世物として副次的収入を得ることで、資産価値の延命を図るようなもの。産業のサービス化といえば聞こえはいいが、要するに、使えなくなったものを無理やり骨董品扱いして金持ちに売りつけるロジック。

同じ論理は、個々の貴族をも襲っていた。それは作中で、当初は無声映画として撮影されていた映画『ザ・ギャンブラー』が、急遽、製作資金の出資者の意向からトーキー映画に作り変えなければならなくなった場面で生じた。外見だけを売りにしてきた無声映画の女優に代わって、別途収録しなくてはならなくなった「淑女のセリフ」をメアリーがアテレコすることになった。

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その時メアリーは、貴族として身につけた「格式ある話し方」を、すなわち彼女を育てた貴族文化が彼女に授けた技能を、それだけ切り出してハリウッドに買われたも同然だった。

もちろん、予定通りの時間で映画製作を完了させるための次善の策だったわけで、監督(=買う側)もメアリー(=売る側)もそんなことは微塵も意識してはいなかった。映画が完成できず、その結果、公開もできないようなら、屋敷のレンタル費も満額支払ってはもらえなくなるかもしれない。領地経営の会計の実情を知るメアリーからすれば、即座にそのような損得勘定も働いたことだろう。そのやむにやまれず行った結果が、彼女の「淑女としての喋り方の販売」であったわけで、このさして意識もせずに自然になされた行為が、無意識のものであった分、新たな時代の核となるアメリカ的な流儀をより象徴的に表していた。歴史が培った文化ですら、必要なところだけ切り売りすることのできる「商品」として認識されるようになったという事実だ。

本作でバイオレットは、恋仲に陥る手前までいった南仏のモンミライユ公爵から地所を譲り受けることになる。いかにあのバイオレットが若い頃、ヨーロッパ各地の貴族の社交界で引く手数多の令嬢であったかを物語るものだ。

バイオレットについてはテレビシリーズの中で、ロシア貴族の男性との恋愛話が描かれていたが、本作ではフランス貴族の男性との恋バナがもちあがった。その事実に気づいた現グランサム伯爵である息子のロバートが、一時は、もしかして自分はクローリー家の家督を継ぐべき正統な嫡男ではなかったのでは?と疑念に駆られてしまうくらいだった。

もちろん、最終的には笑い話として収まるのだが、しかし、この国境を超えたバイオレットの浮名の連続が意味するのは、19世紀までのヨーロッパ世界が、国境など関係なく、事実上、貴族のネットワークによって統治されていた、ということである。貴族どうしであれば国境は関係なくただただ家督の継承者を得るために婚姻がなされていたわけだ。それは、トムが夢見た「共和国」とは全く異なる、貴族という支配階級が厳然と存在する、王国や公国などからなる「君主国」だった。

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若い頃のバイオレットが過ごした19世紀のヨーロッパは貴族社会として、良くも悪くも「伝統と格式が支配した時代」だった。それが20世紀に入り、階級制から解放されて得られた自由の代償として、常に金のために、誰もが日々生存のために急き立てられる「アメリカの自由社会」へと変貌させられる。

その意味で、ダウントンをセットにして撮影された劇中映画のタイトルが『ザ・ギャンブラー』というのは振るっていた。新たな時代は日々、伸るか反るかのギャンブルの論理が支配する世界なのだ。作中映画は「未来に賭ける時代の到来」の予兆だった。誰もが未来からの圧にさらされ続ける時代。

その様子は、無声映画の出演者たちが、声によるトーキー映画へと時代が変わることでお役御免として扱われるのではないか、とひどくプレッシャーを感じていたところに現れていた。今日のスターであっても、明日には「ただびと」に落ちぶれる。その恐怖とともに今の成功があると、誰もが意識しないではいられない過酷な時代、それがアメリカ化された世界からなる「新時代」だった。カネの有無が単一の評価軸になって階級の存在を無視することができる時代。

その知恵はアメリカ人が成長していく過程でおのずから身につけていたようだ。作中でも、アメリカ出身で、ロバートの妻でありメアリーの母であるコーラが、声による演技ができないため自暴自棄になっていた無声映画女優のマーラに、トーキーの時代に対応できるよう、イギリス英語ではなく、よりくだけた口調を許すアメリカ英語での演技を勧めていた。それは裏返すと、アメリカでなら、誰もが女優になれることを示唆している。

可能性の国アメリカ。これも時代を反映していた。

その可能性の国は、前作で同性愛者であることで危なく収監されるところだったトーマスにも救いの手を差し伸べた。屋敷の者の何人かにはゲイであることを明かしていたトーマスも、ハリウッドへの移住を勧められ、ようやく安住の地にたどり着けた。同性愛者としての自由を得ることができた。

アメリカの可能性から恩恵を受けたのはトーマスだけではない。人は良いがうだつの上がらないダメ男として描かれてきたモールズリーも、その無駄にオタク的な文学趣味が脚本執筆に役立つことがわかり、ハリウッドの監督に認められたことで映画脚本家として大金を稼ぐ道を歩み始める。

これもまた「アメリカの時代」という、何でも売り買いできる「新時代」だからこそ可能になった世界だった。

「第3作」は誰の視点で描かれるのか?

このようにハリウッドの映画撮影というイベントを通じて、イギリスの伝統的邸宅であるダウントンもまた、その場が培ってきた歴史的文化も含めて、アメリカの新時代の波に飲み込まれた。

家屋はセットとして賃貸され、メアリーの話し方は映画のアテレコとして販売され、母のアメリカ英語は、無声映画の「見た目だけの花形女優」にトーキー時代の女優として再出発するチャンスを与え、ハリウッドという聖地にトーマスもモールズリーも自分らしさをそのまま活かせる場所を見出した。

なにより、劇中で撮影された映画に登場するモブ役のためとはいえ、階下(ダウンステアーズ)の使用人たち一同が、彼らが仕えていた貴族たちの衣装を着て、日頃給仕をしていた豪勢な食卓に座り、笑みを浮かべて写真を撮ったのだから。

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あれほどまで伝統と格式にこだわり、主人ロバートの背後に控えることに常に誇りを抱いていた前執事のカーソンまで、その場に加わっていた。しかもこの撮影は、バイオレットが亡くなった後に行われていた。この写真撮影が、身分の区別のない、階級のない「アメリカ化された社会」が開く「新時代」の先触れであったことは間違いない。

その移行の時代に、イギリス人の父ロバートだけでなくアメリカ人の母カーラの娘であるメアリーは、ダウントンの存続に尽力することになる。一方、姉とは異なり家督の存続という責任に縛られることのない妹のイーディスは、新時代の女性の自由を表現する出版人として、経済的にも独立した女性の先駆者となっていく。それもまた「新時代」の模索である。

バイオレットは世界大恐慌の前年である1928年に息を引き取った。続く「新時代」はいうまでもなく動乱の時代である。その意味で、果たして映画第3作が製作されるものなのか。知っての通り、史実ではこの後、バイオレットの死に合わせるかのように、イギリスからアイルランドは独立し、イギリスに代わってアメリカが世界の覇者となる。この先のイギリスは、ダウントンのクローリー家同様、斜陽の国となる。

亡くなったエリザベス女王が25歳で即位した時のイギリス首相は、第2次大戦を指揮した英雄チャーチルだった。今回の国葬にしても1965年のチャーチル以来のものだった。

そのチャーチルの激動の時代を、祖母バイオレットの遺志を継ぎ、ダウントンを守りつつ自らもサバイブしようと懸命になったメアリーの姿ははたして描かれるのか。あるいは、出版人のひとりとして、戦時下のイギリスで言論を武器に奮戦するイーディスの姿が描かれるのか。

想像される第3作の姿を思い浮かべると、その過酷な世界が描かれる方がいいのか疑問に思ってしまう。その時、メアリーとイーディスにもアメリカ人の血が流れていたという事実がなにか突破口を開いてくれるのか。

期せずしてバイオレットの死とエリザベス女王の崩御はシンクロしてしまった。となると、仮にこの映画の続編が描かれるときは、エリザベス女王を継いだチャールズ3世の御代の先触れとなるような作品となることを期待されても仕方がない。だが、この先の21世紀が手探りの時代になることは、2020年代に入ってからの国際情勢を見れば必定だ。はたしてそんな時代に『ダウントン』は次なる「新たな世界」をいかにして描くのか。老獪で伝統に敬意を示すイギリス人のこと、タイタニック号の沈没から始まって大恐慌前に閉じられた物語のあとでも、きっと含蓄のある教えを彼らの愛する歴史の中から見出してくれるに違いない。実は少し期待している。

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