【ネタバレあり】テックタイタンの夢はギリシアの闇に咲く花火となる:『ナイブズ・アウト:グラス・オニオン』池田純一レビュー

アガサ・クリスティ調のミステリーで幕を開けたかと思えば、徐々にコーエン兄弟作品のような様相を呈していき、最後にはタランティーノ風味に……!? 007シリーズで知られるダニエル・クレイグの新たなる当たり役となった「アメリカ南部訛りの名探偵ブノワ・ブラン」が活躍するシリーズ2作目の見どころを、デザインシンカー・池田純一がネタバレ上等で解題する。
Netflix映画『ナイブズ・アウト:グラス・オニオン』独占配信中。
Netflix映画『ナイブズ・アウト:グラス・オニオン』独占配信中。John Wilson/Netflix © 2022

映画『ナイブズ・アウト:グラス・オニオン』(以下『グラス・オニオン』)は、前作『ナイブズ・アウト/名探偵と刃の館の秘密』(以下『ナイブズ・アウト』)に続いて、アメリカ南部訛りの名探偵ブノワ・ブランが進行役を務めるミステリー映画の第2作。

一見するとよくある孤島殺人事件を予感させるミステリー、だがその実、周到に仕込まれたパズル、それが映画『グラス・オニオン』だ。すでにご覧になった人ならピンとくるだろうが、そんな本作の鍵となる言葉を挙げるとしたら、「グラス・オニオン」に「モナリザ」、「ディスラプター」、そして「アンディ」あたりだろうか。まずはこれらの言葉を頭の隅に置いておかれたい。真相以上に仕掛けの妙に驚かされる映画なのだ。

物語は、アルファ社というテック企業を設立し巨万の富を築いたマイルズ・ブロンなるテック・ビリオネアが、コロナ禍のさなかの息抜きとして、ギリシアにあるプライベートアイランドで一緒に殺人ミステリーゲームでも楽しもうよと、付き合いの長い友人たちに、奇天烈な仕掛けからなるパズルボックスを送りつけたところから始まる。そのパズルを解くことではじめて中にある招待状を手にすることができるという、いかにもテック・アントレプレナーらしい、恐ろしく手の込んだ招待だった。

だがそのパズルをなんとか協力し合って解き、彼らは皆ギリシアの港町に集う。やってきたのは、上院議員に立候補予定のコネチカット州知事であるクレア・デベラ、マイルズの会社の主席科学者のライオネル・トゥーサン、男性の権利活動家でYouTuberのデューク・コーディ、それにファッションモデル上がりの元編集者でスェットパンツ会社を起業して一山当てた舌禍セレブのバーディー・ジェイ。この4人にバーディーのアシスタントのペグと、デュークのガールフレンドであるウィスキーを加えた6人が集結した。

見るからに普通の人びとの生活からは隔絶した、テック業界の取り巻きたちという顔ぶれだ。ウェブ上でアテンションを稼ぐことで富を呼び込むゲームに日々勤しむ「ウェーイ」な集団。特にデュークとバーディーの2人は、ソーシャルメディアでよく見かける、居丈高で「暴言上等!」な逆張りコントラリアンだ。もっともその見た目を取り繕うのにどれだけ苦労しているのか、その舞台裏がほどなく、身内だけが集まった孤島の邸宅で明かされることになるのだが。

この6人に加えて、もう1人、パズルボックスが送られた5人目として招待されていたのが、カサンドラ・“アンディ”・ブランド。あろうことか彼女はマイルズが放逐したアルファ社元共同設立者だった。

最後に招かれざる客として現れたのが、ダニエル・クレイグ扮する我らが名探偵ブノワ・ブラン。難事件をいくつも解決したことで有名なブノワは、それゆえ大して疑問を抱かれることもなく、むしろ歓迎され、そのまま一緒にマイルズのプライベートアイランドに赴く。陽光の眩しいギリシアの島で、彼らはつかの間の休暇を楽しむはずだった。

登場人物は「ディスラプター」たち

同時代の状況の反映という点からみれば、本作は、最近ハリウッドで流行ってきた、いわゆる“Eating the Rich”の映画、すなわち「金持ちを風刺する」ことを基本的なプロットにした作品群のひとつである。作中ではエドワード・ノートン扮する(それゆえ見るからに胡散臭い)起業家マイルズ・ブロンが、イーロン・マスクを模したようなテック・ビリオネアとして登場し、しきりに「ディスラプター」の意義を説いて回る。彼は、島に招いた旧来の仲間たちまでディスラプターズと呼ぶ。

COURTESY OF NETFLIX © 2022

だが、そこがこの映画のユニークなところだ。「ディスラプター」をシリコンバレーで成功した起業家に限定しない。作中では、キム・カーダシアンのようなインスタ・セレブや、マッチョでオルトライトなゲーマーYouTuber、あるいは、学会とは無縁なまま企業で地位を築いた黒人科学者、活動家上がりの叩き上げの女性州知事など、既存の秩序に挑戦し覆してきた人たちもまた、「ディスラプター」と呼ばれる。見た目だけなら確かに彼らもまた「ダイバーシティ」に富んだ才人である。

さきほど、マイルズはイーロン・マスク的といったけれど、そうしたテック業界以外の人たちのチャレンジャー・スピリットを称えるために熱弁をふるうマイルズの姿は、むしろ、自分の支持者を鼓舞するときのトランプ前大統領のようでもある。実際、マイルズは、マスクとトランプを足して2で割ったような人物として造形されている。

このあたりはライアン・ジョンソンが、現代ハリウッドの監督らしく、サイバーカルチャーに対しても鋭い嗅覚の持ち主であることを示唆している。彼らディスラプターズの成功は、大金持ちのマイルズの経済的支援なしでは立ち行かず、気が進まないながらも結局支援を無心し続けなければならない。自発的な隷従である。

本作の中でしばしば見られるこうしたディスラプターズの姿は、今日のサイバーカルチャーの多くが、テック・ビリオネアの支援でなんとか維持される独特の生態系から成り立っていることを示している。しかも当のビリオネアの資産の多くは、彼/彼女が起業で成功して得た富を、同業のテック・スタートアップが中核をなす金融市場で運用し増やしたものである。そのようなマネーゲームにあやかることで存続しているサイバーカルチャーは、テック業界の浮沈と一蓮托生だ。オープンなようで実はクローズドな世界、それがサイバーカルチャー界隈だ。本作はその戯画でもある。

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もともとディスラプターズの面々は、10年前は皆、バー「グラス・オニオン」に集まる、イケてない「ルーザー」だった。だが、アンディが閃いたアルファ社の創業に巻き込まれたことで風向きが代わり、いつの間にか「ウィナー」に転じたシンデレラストーリーの体現者たちだ。だが、勝ち組として吸った甘い蜜のことを忘れられなくなったところから、金づるであるマイルズへの自発的隷従が始まり、誰も望まない不幸が、殺人という形で連鎖することになる。

悲喜劇の発端は「次世代エネルギー」

そのような本作における全ての悲劇の発端は、ナルシスティックで超・自己中心主義(自己チュー)のマイルズが、まだ安全性が検証されていない新種の水素燃料である「クリア」の売り込みに魅入られてしまったことにある。クリーンエネルギーの本丸であり、成功した暁にはマイルズ・ブロンという名は人類史に永遠に残るに違いない。そう夢見てのことだ。

だが、その妄執の結果、会社の知的所有権を巡った争いの果てに、彼は共同設立者のアンディを会社から追放してしまう。

水素燃料クリアの一件は、彼の仲間であるディスラプターズにも影響を与えていて、州知事のクレアは、クリアを使った発電所設立の認可を迫られた。アルファ社の科学主任を務めるライオネルは、自社の宇宙ロケットの燃料としてクリアの採用を求めるマイルズに手を焼いており、利用を見送るよう要請してくる主要株主との間で板挟みにあっている。

とまれ、この「現代のエネルギー秩序を書きかえる次世代エネルギー」という、現実のシリコンバレーでも食いつきそうな「ディスラプター」なアイデアが、この映画の悲喜劇の発端なのだ。

当のマイルズは、この水素燃料プロジェクトを通じて、アンディ抜きでも自分が、人類史を塗り替える「ディスラプター」足り得ることを証明し、そのことを通じて人類史に永遠に残る偉人としての栄誉を獲得したいと考えている。そんな彼の「偉人願望」を象徴するのが、クリアのプレス発表会に合わせてルーブル美術館から借り受けた名画モナリザである。

マイルズは饒舌で、ひとたび話し始めると、その場を支配するように延々と話し続ける。特に本作では、彼の取り巻きのイエスマンがいるだけなので、誰も口を挟みはしない。だが、それだけ弁が立っても、マイルズの本音が語られることはない。むしろ、彼の本心を推測し代弁するのは、部外者である探偵ブノワと、物語中盤から部外者であることが判明したアンディの双子の姉妹ヘレンだけである。

そう、アンディはすでに殺害され、その理由を探ろうと双子の片割れであるヘレンが、探偵のブノワに調査を依頼し、二人でマイルズの待つ島へ向かったのだ。島にやってきたアンディは、実はヘレンが演じていたものであった。双子による成り代わりのトリックである。そのためブノワもまた、ヘレンの協力者として、何も知らずに巻き込まれた探偵を演じていた。にもかかわらず彼は、半ば職業病のように自動的にマイルズの本心に迫ってしまう。

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中でも圧巻だったのが、ブノワが、マイルズの癖である言葉の言い間違い(マラプロニズム)に気づき、そこからマイルズが、アンディのような本物の革新者(イノベーター)になりたがっているだけの偽物であることを明らかにしていくくだり。マイルズがしきりに「ディスラプター」を連呼するのは、破壊の先の創造のイメージがなにもないからだった。

ここで言葉の言い違えからマイルズの本質に迫ろうとするブノワは、フロイトのような精神分析医にも見える。そのブノワの推論にマイルズは最後まで口をつぐみ続ける、つまりは、ブノワが指摘するところの「マイルズの本心」なるものを否認し続ける。それでも、彼がアンディを殺害した、という事実だけは残る。

その「本物になりたい偽物」というマイルズの本質を、言葉にしないまま、しかし完膚なきまでに破壊して見せるために置かれた舞台装置が名画モナリザだった。そのマイルズの願望の象徴を、マイルズ自身がモナリザになるべく固執した水素燃料の誘爆──それは同じく水素ガスの誘爆で炎上墜落した飛行船「ヒンデンブルク号」に例えられた──によってあえなく焼失させることで、彼の願望は二重に粉砕された。

それだけでなく、マイルズは、これまで取り巻きであるディスラプターズの4人をカネの力で黙らせることで司法の裁きを免れてきたのだが、最終的に「名画モナリザを彼イチオシの水素燃料で焼失させたことで人類から永遠に奪った男」という悪名とともに記憶されるよう仕向けられたことで、社会的名声も奪われ、社会的死にまで至らしめられる。こうした顛末が、アテンション・エコノミーに大きく依拠した形で「投資が投資を呼び込む」シリコンバレーの錬金術に対する当てこすりであることは言うまでもないだろう。

もちろん、モナリザの焼失の後、彼の取り巻きであるディスラプターズが皆、富も名声も失うのが確定したマイルズを早々に見限り、彼に不利な証言をすることを宣言した時点で、マイルズが法的に裁かれる未来まで確定した。

だが、それにしても、まずはマイルズの偽りの栄華を奪い取るだけのヘレンによる破壊、アンディの殺害に対するヘレンの復讐心に火がつけられることが必要だった。怒りから発した蛮勇によってヘレンが、マイルズに隷従し続けるディラプターズたちが遠からず迎える近未来の惨状を、いち早く実現させたことで、ようやく辿り着くことのできた「正義の未来」だった。

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この終幕の一連の出来事が、「破壊の中からの新生」を示唆する「革新」、いや「革命」であったことは、「ディスラプター」と連呼するマイルズへの皮肉であると同時に、調子良く「破壊的イノベーション」を振りまいて回る当代のアントレプレナーたちに対する批判でもあったのだろう。

革新(イノベーション)は革命(レボリューション)たり得ない。革命には、その前後で、社会の相変化が不可欠だ。どんな結果がもたらされるのか、予測のつかない真の破壊。それこそが、新たな社会を生み出すことができる。それを「仲間内」という極めて小さなミクロコスモスでやってみせたのが、『グラス・オニオン』だった。

〈私たち〉と〈彼ら〉の短絡的な衝突

監督のライアン・ジョンソンは、あるインタビューで、常に彼自身が今憤っていることを作品に盛り込んできたと語っていた。それは裏返せば、脚本家でもある彼にとって、怒りとその怒りをもたらす不快な対象が、脚本執筆のためのドライバーであり、創作意欲の根幹にあることを意味している。この姿勢は、2016年以後のソーシャルメディア時代における、個人的なこと(the personal)と政治的なこと(the political)が容易に短絡される時代とも合致している。

John Wilson/Netflix © 2022

2016年以後、政治のすべての局面で「Us vs Them」の二律背反的な対立関係が持ち込まれるようになった。こうした状況で生じる怒りとは、〈私たち〉の感性と衝突する〈彼ら〉の感性に向けた怒りである。その「小さな衝突」がソーシャルメディアを通じて容易にスケールアップされ、社会というより大きな世界でフレーミングされてしまう。

現代社会では、このように個人的なことと政治的なことが「怒り」を媒介にして短絡され直結させられる。居合わせた人間の間に怒りが伝播することで集団自身が暴徒化する。そのことを実際に極めて小さな集団を対象にしてやってみせたのが『グラス・オニオン』だった。

このことを理解するには、Netflixで1年ほど前に公開された映画『ドント・ルック・アップ』と比較してみるのがよいだろう。

彗星の衝突による人類滅亡の危機を取り上げた『ドント・ルック・アップ』では、「政治的」と言ってもその多くは政治家と行政官、科学者に軍人といった「体制側のエリート」の間でのパワーポリティクス、つまりはマウント取り合戦だった。一般市民はまさにモブとしてせいぜいラリーやデモに現れたくらいで、あくまでも「上からの政治」だった。

対して『グラス・オニオン』では、極めてミクロなレベルで「下からの政治」として隷従対象への反抗が描かれた。

要するに、『ドント・ルック・アップ』はPolitical Correctnessの時代の映画であり、その意味で2016年以前の映画だった。一方『グラス・オニオン』は、2016年以後のWokeの時代の映画だ。個人的な憤りが起点になって、それが伝播することで周りの「覚醒(Woke)」を促し、その結果ムーブメントとして社会性を獲得していく話だ。

だから『グラス・オニオン』の終幕は、あのような形でなければならなかった。2016年以後の、パンデミック以後の「怒りの政治」の時代の映画だからだ。

ソーシャルメディアが行き渡った世界では、公私は分けがたく、むしろ公私混同で物事が判断されるのが歓迎される。その上で、自己中心的な自己顕示が優先される。公私混同が横行する世界で優位なのは、自己の欲望を前面に出し露悪的に振る舞うことであり、それゆえスタイルとしての「悪」が選択されがちになる。その反動から、スタイルとしての「正義」も浮揚する。

現代がWokeであるのもそのためだ。「上からのPC」ではなく「下からのWoke」。そのため一度着火したら簡単には消すことができない。個人的なことがスケールアップするのが現代であり、だからこそ「怒りの政治」が成立する。本作のヘレンも、最後は怒りに任せることでマイルズの支配を断ち切ることができた。

作品の構造自体埋め込まれた「仕掛け」

『グラス・オニオン』は、このようにライアン・ジョンソンによる現代社会批評が込められた映画である。彼が私淑するアガサ・クリスティのミステリーには当時の社会批評が背景として埋め込められていたため、それ自体は珍しいことではないのだが、とはいえ風刺性が鼻につくようならエンタテイメントとしては落第だ。そこで持ち出されたのが「パズル」。単に作中でパズルが話題になるだけでなく、作品の構造自体にパズル性を宿らせる。ミステリーというジャンル、映画という形式について再考を促すような仕掛けをいくつも埋め込む。実のところ、作品に対するメタな構造操作は、ライアン・ジョンソンの十八番である。彼は常にジャンルに忠実であり、同時にジャンルを裏切ってきた。

冒頭でこの映画はパズルだといったのはそのためだ。最後まで見終えた後に痛感する、映画の形式を弄ぶ、遊戯の精神には感嘆しないではいられない。

なにしろ、映画が始まって最初の1時間くらいは、粛々とクリスティ作品へのオマージュとなるようなミステリーが演じられるのだが、中盤以降、ナラティブの形式は唐突に転調し、残り半分のうちの3分の2がコメディかと思うと、最後の最後でタランティーノやコーエン兄弟ばりのヴァンダリズムによる超法規的解決で締める。折り目正しいクリスティはどこへ行ってしまったのか?と問わずにはいられない。本作のことを『ナイブズ・アウト』の「続編」というのが憚れるのもそのためだ。

John Wilson/Netflix © 2022

実際、前作との共通点といえば、ブノワ・ブランが探偵として登場していることくらいだ。しかもそのブノワもただの探偵ではなくなっている。本作では、ほとんどの時間、ブノワ自身、周囲の期待に応えるべく、意識して典型的な探偵を演じているのだ。それは、ヘレンとともに潜入捜査をしているのをごまかすためである。探偵らしく推理を進めているように見せておきながら、そのほとんどが「フリ」である。そうやってヘレンが館の中を探索する時間を稼いでいた。探偵というよりもスパイ・エージェントである(中の人が007だっただけに〈笑〉)。前作で観客に植え付けた探偵のイメージを含めて、ブノワ自身も舞台の上でプレイしているのだ。

それにしても、007の俳優であるダニエル・クレイグに、ライアン・ジョンソン版のポワロである探偵ブノワ・ブランを演じさせたのは英断だった。すでにその俳優の顔となる代表作があることで、自然とその役が参照点になり、そこからのズレの有無や程度によって新しい役が鑑賞者によって自発的に解釈されるメカニズム。ショーン・コネリーやハリソン・フォードのようなおいしさだ。

一方、ダニエル・クレイグにとっても、ジェームズ・ボンドの後に、ブノワのような役を得たのは僥倖だったことだろう。若い時には荒ごとも経験した捜査のプロが引退して、もっぱら頭脳戦に興じている。そのような壮年の役を演じることで、作中の事件に対する視線もおのずから(酸いも甘いも噛み分けた)穏やかなものになるからだ。

そもそもブノワのモデルとなったクリスティのエルキュール・ポワロにしても、ベルギー警察をリタイアした私立探偵という設定だった。そこから彼の推理には、若気の至りや痴情のもつれ、歪んだ正義、など、人間心理の彩に対する理解が常に伴っていた。人間の過ちに対して普段から深い慈愛を示しているからこそ、逆に、彼が激高し何がなんでも解決しようとする事件は、それだけの重みをもつものであることも示唆される。

John Wilson/Netflix © 2022

ちなみにアメリカでは、ブノワの話す英語が過剰に誇張された南部訛りであることで論議を呼んでいた。だが、それにしても、監督の遊び心の現れといえる。ポワロ同様、ブランもフランス系の名前にして、ではアメリカだったらどこの出身だ?ということになり、それならアメリカの中では数少ない仏領だったルイジアナ、だったら彼の話す英語は南部訛り、しかもケイジャンで!ということになったのではないか。おそらくはニューオーリンズあたりのフランス系移民の末裔という設定だ。ポワロもフランス語訛りの英語を話していたからちょうどよい。そんな特殊アメリカ的な設定をよりにもよって、007のイギリス俳優に演じさせるのだ。まさにキャスティングの妙である。だが、それもまたエンタテイメントとしての映画の姿だ。

ともあれ、警察と違って依頼があって初めて、ある事件に関わり始める私立探偵の場合、捜査の過程で、彼/彼女のもつ正義や道徳の基準を通じて、事件の相貌も変わっていく。そこがクリスティをはじめとする探偵ミステリーの醍醐味なのだが、ライアン・ジョンソンは、主役兼案内役となる探偵にダニエル・クレイグを起用することで、常にかつてのジェームズ・ボンドの偉業を抱えた気概ある男の印象を保ちながら、しかしコミカルにブノワを動かすことができる。第1作の『ナイブズ・アウト』でダニエル・クレイグは、そのような私立探偵ブノワ・ブランとしてお披露目された。

その上で、『グラス・オニオン』におけるブノワは、自身が著名な私立探偵として社会的に認知されていることを十分理解した上で、その認識を逆手に取って人びとをかどわかす役を担う。作中で「○✕を演じる▲■」を演じるもののひとりとなる。そのうえで、ブランは、自ら狂言回しまで行ってみせる。

素の探偵ブノワと、探偵ブノワを過剰に演じるブノワが混在し、それがおかしみを増している。ヘレンと2人の潜入調査の一環として、皆が期待する私立探偵ブノワ・ブランを演じ、あたかも今、大事な推理をしているかのように振る舞う。面白いのは、そうした探偵役を演じながら適当な推理をしている間にも、実際の事件の真相に思い至ってしまうという彼の自動式の頭脳である。

プロットを暴き、乗っ取り、上書きする存在

もっともそのように彼が振る舞うのも、アンディの双子のヘレンがいればこそ。彼女の存在によって探偵は、プロットを暴くだけでなく、乗っ取り、さらに上書きまでしてみせる。

中盤に明かされる「アンディとヘレンは双子である」という事実の暴露によって、つまり、視聴者が冒頭から見てきたアンディという女性は、実は双子のかたわれであるヘレンがなりすましたものだった、ということが明かされることで、それまで見せられていた内容は、全て再構成され一新される。新たな文脈を与えられる。

それに合わせてブノワまで、ただの探偵から、つまり隠れた文脈の所在を嗅ぎ分け、そこから「真相」という期待される解釈を示す「読解者」から、新たな解釈を与えるプロットメイカーに、すなわち「作劇者」に転じてしまう。探偵というよりも、相手の行動を誘導し、都合よく引っ掛けようとするエージェントである。

そこから、ブノワとマイルズの間で一種のゲームマスター対決が始まる。マイルズが用意した殺人ミステリーゲームというパズルを一瞬でブノワが解いてみせたのが、その始まりだった。それ以後は、ブノワとマイルズの間で、物語の展開というコンテキストの支配を巡るゲームが展開される。どちらが生み出すシナリオのほうが面白いか競い合っているかのようにシーソー劇が繰り広げられる。

ブノワはマイルズを出し抜くべく新たなプロットを考え、そのためにヘレンに演技の振り付け指導まで行う。合わせて自らもそのプロットに沿った役割を演じていく。そうして作られる「フェイクの探偵物語」も、やがては作中の現実と合流しひとつの結末にたどり着く。その過程で、マイルズが、少し前に聞いたブノワの思いつきのアイデアまで節操もなく剽窃するようなパクリ魔の小物であることまで判明する始末。

それでも最終的な決着はドローで終わり、事実上マイルズの無罪が、ディスラプターズという即席の陪審員たちの総意で決まってしまう。

だが映画として面白いのはここからで、その理不尽な結末に、これまでのマイルズ糾弾の努力が水泡に帰したと理解したヘレンがブチ切れてしまい、マイルズの所有物を何もかも破壊する、という暴挙に出る。つまりゲーム盤そのものの破壊行為に訴える。文字通りのちゃぶ台返し。プロットに新たなギアが入る瞬間である。

その結果、マイルズのもつ社会的な信用も名声も財力もすべてが無に帰すとまで思えるほど破壊がなされた時点で、ディスラプターズは皆、掌を返しマイルズの罪を証言する側に回ろうとする。

要するに、物語の開始直後は、前作の『ナイブズ・アウト』のようなアガサ・クリスティ風のミステリーが始まったと思っていたら、中盤になって、マイルズVSブノワの知恵比べのゲームを装ったコメディに代わり、最後にはタランティーノ風の暴力による破壊劇で終わる。転調に継ぐ転調の物語だった。

法や理性ではマイルズの罪を裁くことはできない。だったら自らの手で天誅を下してやる、という、ワイルドウエスト的な暴力による解決に至って、むしろ、その最後の手段に訴えざるを得ないところにまで辿り着いた時点で、ようやくこの物語は「正義の倫理」を実行する。

なにもかも燃やし尽くすのだ。

興味深いことに、この最後の爆発は、ブノワがヘレンに水素エネルギーであるクリアの塊を手渡していたから生じたものだった。どこまでブノワが考えていたかはわからないが、しかし彼は、ヘレンがアルコールを飲むと気が大きくなり大胆な行動を取ることを知った上で、アルコールと引火性の高いクリアをともに彼女に手渡していた。アンディ殺害の真犯人がマイルズであったことまでは明らかにできるが、しかし、証拠がなければ司法に引き渡すこともできず、マイルズを裁くことはできない。そうブノワ自身、さじを投げた直後の行動である。

その後の展開を踏まえれば、この時ブノワはヘレンに「私刑の執行」を委ねたといえる。どうせ私有地の島なのだから好き放題やってしまえ、とばかりに。後から振り返れば、ブノワは、ヘレンならびにディスラプターズの暴動を教唆し、私的範囲でマイルズに制裁を与えるよう促した。その点で、今回のブノワは、最終局面において明らかに探偵の領分を超えていた。

ブノワは、マイルズの邸宅であるグラス・オニオンが爆破された直後に、「ディスラプション!」と評していた。ディスラプションそのものは次なる再成を含んだ可能性として両義的に解釈されるべきものなのだ。

監督はハリウッドのディスラプター

振り返れば、ライアン・ジョンソン自身が、ハリウッドのディスラプターだった。だとすれば、一見するとマイルズのいうディスラプターを否定してみせた映画に思える本作も、実のところ一周回って、ディスラプターを称えた映画と見ることも可能なのかもしれない。マイルズは単にディスラプターと自称するだけの偽物でしかなく、代わりに、彼が憧れ排斥したアンディとその双子の姉妹のヘレンの2人こそが、本当のディスラプターだった、その2人こそを称えるべきなのだ、という映画の可能性だ。

いずれにしても、この場面は、現代社会が、このような暴力によってしか正義を遂行することができないところにまで追い詰められていることの証である。ビリオネアのテック・アントレプレナーは、全ての人びとの呪詛の対象である。カネとテクノロジーで人びとを事実上支配する怪物である。

同じ創造者といっても、前作の『ナイブズ・アウト』に出てくる作家の場合は、ミステリー作家としての知恵を駆使することで、彼の介護者として尽くしてくれた移民の娘を守ることを優先し、その結果、映画自体を、アガサ・クリスティ風のペーソスあふれる探偵モノとして完成させた。それに対して、『グラス・オニオン』におけるアントレプレナーは、偽りの成功者としてひたすら承認欲求を求めた結果、懇意のビジネスパートナーを貶め、最後には殺害し、かつての友人たちまでカネの力で支配する外道に成り下がった。この創造者の扱いの違いは見逃せない。

社会性という点で『ナイブズ・アウト』では、ヒスパニック移民という、現代アメリカにおいてしばしば絶対的弱者とみなされる者たちへの眼差しが取り上げられていた。彼らの多くは勤労に励み、中には、ケアテイカーのようにアメリカ社会にとって不可欠な存在となっているにもかかわらず、社会的地位は極めて脆弱なままだ。

実のところ移民問題は、建前は平等で自由な非階層社会であるはずの現代アメリカ社会において、イギリスのような階層社会の問題が露呈する場所でもある。その分、クリスティが彼女のミステリーの中でイギリス社会に向けていた視線の彩を、アメリカで活かすことのできる対象でもある。

『ナイブズ・アウト』では、そのような現在の移民/難民の法的地位の弱さが、ミクロな人間関係に及ぼす影響を取り上げていた。クリスティの時代の、貴族と平民の間の制度的な階層格差の話が、移民を持ち出すことで反復できるのが今のアメリカだ。公式にはないものとして扱われる「不可視の階層問題」である。

それに比べて第2作の『グラス・オニオン』では、もともとフラットだった人間関係で、ひとりでも金持ちが誕生すると、自ずと隷従的な関係が生じてしまう状況が描かれる。しかもテック・ビリオネアが、たった一代で「アクシデンタル(偶然にも)」にも資産家になった果てに起こした殺人を通じてだ。こちらのほうが第1作と比べてより現代的であり、よりサーカスティック(社会風刺的)である。

ライアン・ジョンソンは、アガサ・クリスティの大ファンだが、クリスティが依拠した貴族と平民からなる変えようのないイギリスの社会階層も、アメリカでは逆転可能であることを考慮に入れ、クリスティのプロットにひねりを加えてくる。

だから、『ナイブズ・アウト』では、移民の娘が、仕えた主人の遺産を継承し、一気に邸宅持ちの富裕者になるという逆転劇が起こる。一方、『グラス・オニオン』では、テック・ビリオネアという仮初の富裕者と、彼から甘い汁をすする元友人の取り巻きを配置し、お金を起点にした彼らの隷従関係が一瞬の出来事で「ガラスのように」瓦解する様が描かれる。

どちらも階層なるもの脆弱さを表している。これは20世紀初頭のイギリス社会を背景にミステリーを組み立てたクリスティには考えられなかったことだ。クリスティにとって社会秩序は盤石だった。それがイギリス社会だ。一方、ジョンソンにとって社会秩序は常に仮初のものでしかない。それこれがアメリカ社会なのである。

前作が補助線となっているラストシーン

このように『グラス・オニオン』は、多分に『ナイブズ・アウト』のプロットを下敷きにしながら構成されている。それは本作の最後のシーンにもあてはまる。

『グラス・オニオン』の最後でヘレンは、モナリザのような笑みを浮かべるのだが、この最終カットは何を意味するのだろうか。そのための補助線となるのが『ナイブズ・アウト』のラストシーンだ。

『ナイブズ・アウト』では、最後にアナ・デ・アルマス演じるウルグアイ移民の看護士マルタが、彼女が世話をした著名ミステリー作家であるハーラン・スロンビーの遺産を継承して終わるのだが、興味深いのは、彼女が単に彼の資産を貰い受けただけでなく、彼の精神=生き方をも引き継いでいたことだ。

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それは、最後のシーンでマルタが、ハーランが愛用していたマグカップを使っていたところで確認できる。そのマグカップにはハーランの生き方を象徴する“My House My Rules My Coffee”という表現が書かれていた。ハーランこそが彼の家のルールであり、何人もその事実を覆せない。アメリカ的な頑固一徹のリバタリアニズムを示唆する言葉だが、その彼の遺言=ルールに従って、彼のような独立独歩で善心の持ち主の継承者として指名されたのは、血を分けた家族ではなく、移民のマルタだった。アメリカン・スピリットを体現する者こそがアメリカ人であると、ライアン・ジョンソンが言っているように思えないだろうか。

おそらくは、同じような精神の「継承劇」が『グラス・オニオン』の終幕でもなされている。モナリザの精神がどのようなものかまでは特定できないけれど、最後のシーンでヘレンが浮かべた笑みは、確かにモナリザのように含みのある笑みだった。

もしかしたら、モナリザは、マイルズによって殺害されたアンディの象徴なのかもしれない。もともと今、マイルズが独占している富は、もとはといえばアンディのアイデアから生まれたものだった。その富の象徴として彼のガラスの邸宅に飾られていたのが、コロナ禍によって入場料収入を得られずに困窮していたルーブル美術館から貸し出されたモナリザだった。だとすれば、ヘレンの目にはモナリザは、マイルズに囚われたアンディの魂=未練のように映ったのかもしれない。だから、モナリザの焼失は、アンディの魂を解放する行為だったといえなくもない。その解放を象徴するようにヘレン自身がモナリザの笑みを浮かべたのではないか。アンディ=モナリザを解放した者として。同時に、モナリザの精神を引き継いだ者として。『ナイブズ・アウト』のラストシーンから、『グラス・オニオン』のラストをそのように解釈することも可能なのではないか。

このように映画『グラス・オニオン』は、随所に様々な仕掛けが施され、その一つ一つに本作を玩味するための切り口が設けられている。まさにパズルのようで気になり始めたら引き込まれずにはいられない。

ところが、そんな鑑賞眼を粉砕するかもしれない仕掛けが最後の最後に仕込まれていた。

先ほど触れたように、この映画はヘレンのモナリザ然とした微笑のカットで終幕するのだが、その直後、間髪入れずに映画タイトルの“Glass Onion”が映し出され、同時にビートルズの楽曲である「グラス・オニオン」がエンドクレジットとともに流れ始める。

それを聞くと、もしかしてライアン・ジョンソンに弄ばれてしまったのではないか?という疑念が生じる。

というのも、1968年に発表された「グラス・オニオン」という曲は、作詞をしたジョン・レノンの弁によれば、彼が日頃気になっていた人びとの悪癖について、つまり、それまでのビートルズの楽曲の歌詞から「隠された意味」を見つけようとして、なにかと深読みしようとする人びとの悪癖について、揶揄するつもりで書かれたものだったからだ。

実際、「グラス・オニオン」の歌詞には、「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」や「アイ・アム・ザ・ウォルラス」、「フール・オン・ザ・ヒル」、など、ビートルズの曲で聞いたことのあるフレーズやタイトルが盛り込まれている。

そのような曲を、ライアン・ジョンソンは本作のタイトルにし、最後に流してきた。これをどう解釈したらよいのか。

これまで書いてきたように、本作では、前作の『ナイブズ・アウト』のセルフ・パロディがいくつも見られる。そのような自己批判の諧謔精神がビートルズの「グラス・オニオン」に準じているという意味なのか。

それとも、本作そのものの饒舌な読解を──それこそここまで行ってきたような読解を──禁じ手にしようとするものなのか。端的に、楽しかったらそれだけでいいじゃないか!といいたいのかもしれない。なぜならライアン・ジョンソンの場合、あまりにも斬新な解釈に基づいて制作した結果、『スター・ウォーズ/最後のジェダイ』で熱心なファンから総スカンを食らうという痛い経験をしているからだ。そのことへの意趣返しだったのかもしれない。

この少しばかり後味の悪い最後の仕掛けを含めて、何かと細かい仕込みや仕掛けが多いのが『グラス・オニオン』である。ライアン・ジョンソン作品の全般的な特徴でもある、ジャンルに忠実に始まりジャンルを破壊して終わるメタ志向をひどく痛感させられる作品だ。

だから、最後にもう一つだけ指摘しておきたい。それは、殺害されたアンディこそが、実はこの作品の内外の展開=運命を決めていたということだ。「アンディ」とは、あくまでも愛称であり、本名は「カサンドラ」だった。この本名から連想されるのが、「カサンドラの悲劇」の逸話である。

「アンディ」はあくまでも愛称で、本名は「カサンドラ」である。そしてこの名前だけで十分暗示的だ。

カサンドラとは、ギリシア神話に登場するトロイの王女。太陽神アポロンの恋人になることで予言の力を授かったが、その力を授かった途端、アポロンから捨てられる未来を予知してしまったため、先んじてアポロンの求愛を拒絶したところ、怒りに駆られたアポロンから「誰にも予知を信じてもらえない」呪いをかけられてしまった。そのため、いわゆる「トロイの木馬」による襲撃を予知したにもかかわらず、そのことを誰にも信じてもらえず、トロイはそのまま滅びの道を辿ってしまった。

ここでカサンドラをアンディに、マイルズをアポロンに置き換えてみると、本作の結末も最初から暗示されていたことに気づく。アンディの場合の「呪い」とは、マイルズに買収されたディスラプターズの嘘の証言によって、裁判で彼女の主張が誰からも信じてもらえないことだった。

そのほかにも、舞台となったギリシア、アポロンの太陽に対するマイルズの水素燃料クリア、悲劇を予見しながら聴きとどけられなかった不幸、トロイの木馬のようにアンディに扮したヘレンが潜伏していたこと、などなど、カサンドラの悲劇に準じた展開が仕込まれていたと見ることができる。

だから、アンディ=カサンドラに耳を貸さずに排斥した時点でマイルズの行く末は決まっていた。滅びは予見されていた。アンディの死を代償に、ギリシアの地で、太陽と見紛うクリーンエネルギーを使って天下を取ろうとしても、悲惨な結末が待つだけだったのだ。

そうしてこの映画は、クリスティのミステリーから始まりながら、ギリシア神話の逸話で終わるのだ。私たちは一体、何を見せられていたのだろうか。

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