本格始動する月探査計画「アルテミス」は、宇宙探査のルールを見直す契機になるか

米国を中心とした月探査計画「アルテミス」が、2022年8月29日に新型ロケットの打ち上げと共に本格化する。宇宙の有人探査が現実味を帯びる一方で新たなルールの策定が求められているが、米国主導の「アルテミス合意」には公平性や資源利用についての課題も指摘されている。
SLS Artemis I Aft Segment Stacking
Photograph: Cory Huston/NASA

人類の月への進出が本格化の様相を呈している。米国を中心とした月探査計画の最初のミッション「アルテミス1号」が、早ければ2022年8月29日(米国時間)に新型ロケット「スペース・ローンチ・システム(SLS)」の打ち上げを皮切りにスタートするのだ[編註:SLSの打ち上げ予定時刻は米東部時間29日午前8時33分、日本時間の29日午後9時33分]。

その後のミッションにおいて米航空宇宙局(NASA)は、国際パートナーと共同で宇宙飛行士を月に送り込み、月面探査や月周回軌道の宇宙ステーションの建設を進めることになる。中国とロシアの宇宙当局も、月の氷の調査や共同の研究基地の建設を計画中だ。さらにAstroboticやMoon Expressなどの民間企業は、着陸機や実験機器、そして最終的には貨物を有料で月に届けることを目指している。

55年前の「宇宙条約」に潜む課題

こうして宇宙探査が急速に本格化し、競争も急速に激化している一方で、実は宇宙探査を規定する法律は過去数十年でほとんど変わっていない。

当時まだ宇宙探査を始めたばかりだった国々の交渉担当者による長い議論を経て締結に至った宇宙条約は、極めて重要な条約ではあるものの、いまや締結から55年が経過しているのだ。宇宙条約が書かれた時期は、バズ・オルドリンとニール・アームストロングが月面に足を踏み出す以前のことだったのである。

宇宙条約には、宇宙空間における探査と利用の自由、領有の禁止、宇宙平和利用の原則、国家への責任集中原則などが定められている。つまり、誰でも宇宙空間を利用できるが、誰しも宇宙空間を所有できない。そして、宇宙探査はすべての人々に恩恵をもたらすことを目的とされるべき、というわけだ。

さらに、宇宙での核兵器の使用を禁じる旨も規定されている。だが、詳細な規定はほとんどなく、いかようにも解釈できてしまう条約でもある。

こうしたなかトランプ政権下で米国の当局者たちが作成したのが、「アルテミス合意」という合意の草案だ。月面探査に関して定めた合意で、米国1カ国が作成したものではあるが、未来の月面基地、月面居住地、そして宇宙での採掘のあり方を規定する合意となる可能性がある。

新しい「アルテミス合意」が目指していること

トランプ政権が2020年5月にアルテミス合意を発表した際には、大統領が交代した場合にもアルテミス計画が継続されるかどうかさえ不透明だった。しかし、いまや計画は極めて具体的な段階に達している。NASAの技術者が8月22日(米国時間)、SLSと宇宙船「オリオン」が8月29日に打ち上げられると発表したのだ。

今回のアルテミス1号は無人のミッションで、月を周回することになる。さらにNASAは、25年か26年に宇宙飛行士を再び月に送り込むにあたって、着陸地点の候補をすでにいくつか選定している。どの地点も月の南極付近だ。これは南極には非常に重要な資源である氷が存在する可能性があるからだ。

アルテミス合意の大枠は、月やさらに遠くの天体、具体的には火星や彗星、そして小惑星をも視野に入れた探査についての米国主導のビジョンだ。そこには今後のロボット探査機や宇宙飛行士がすべきこと、そしてすべきではないことについての一定のガイドラインも盛り込まれている。

例えば、探査国は平和目的でのみ宇宙を利用し、科学的データを一般に公開し、月での活動地点の周辺に安全地帯を設定することが求められる。またアルテミス合意では、商業目的の宇宙探査も科学目的の宇宙探査と同じ水準に位置づけられている。

これまでのところ、アルテミス合意には21カ国が署名している。直近で署名したのは、フランスとサウジアラビアだ。また、頻繁にNASAのパートナーとなっている日本とカナダ、イタリア、英国も署名している。

特筆すべき事項として、中国とロシアは署名していない。欧州宇宙機関の重要なメンバー国であるドイツも署名していない。

事実上のガイドラインとなる可能性

これまでの国際的な合意は「条約」という形式をとっていたが、アルテミス合意は条約ではない。それでもアルテミス合意は、正式な法律に代わって事実上のガイドラインとなる可能性がある。

「アルテミス合意は米国による政策の“宣言”という性格のほうが強いものです。『米国は月ではこのように活動をするつもりであり、このような原則に従って活動することになります』という宣言のようなものです」と、非営利団体の戦略国際問題研究所(CSIS)で航空宇宙安全保障プロジェクトの副責任者を務めるケイトリン・ジョンソンは説明する。「それでもアルテミス合意に署名する国は増えており、特に大規模に宇宙探査を展開している国も署名しています。このため、アルテミス合意の重要性は増しているのです」

保守系シンクタンクのヘリテージ財団で中国の宇宙探査プログラムを専門としているディーン・チェンも同じように、アルテミス合意は米国が独自に策定した法的枠組みとして始まり、その後ほかの国とも2国間で合意が形成されていったものだと説明する。またチェンは、合意を結んだのはおおむね米国の緊密な同盟国ばかりであるとも指摘する。

「アルテミス合意とは基本的に、いまさら『有志連合』と呼べば皮肉めいて聞こえてしまうでしょうが、皮肉めいて聞こえないとすれば『有志連合』と呼ぶべきようなものです。つまり、『自分たちは米国に加わりたいと考えており、規則にも同意する』という国々の集まりということなのです」と、チェンは語る。チェンが「皮肉めいて聞こえる」と言うのは、ジョージ・W・ブッシュ元大統領がイラク侵攻時に国際的な同盟軍を「有志連合」と呼んだからだ。

アルテミス合意は、署名する国が増えるにつれて重要性を増し、いくつかの規定事項は世界的な標準になる可能性がある。例えば宇宙探査をする国は、月へのミッションの計画を互いに通知し合ったり、周回軌道上に投棄できる宇宙ゴミに上限を設けたりといったことだ。これは宇宙での「行動規範」を定めるための交渉で国連の外交官たちが進めてきた取り組みと似ている。

米国政府の狙いを大雑把に説明すると、宇宙産業や宇宙からの資源の採掘の取り組みに先立って定められた宇宙条約に関する米国の見方を他国にも共有してもらうことだと、アリゾナ州立大学で宇宙ガバナンスを専門とするティミエビ・アガナバは説明する。「米国は先に米国の解釈を提示し、それに2国間で合意を形成していくことで、米国の立場を他国にも支持してもらおうとしているのです。すると、米国の解釈は慣例を反映しているものだという論法で議論ができるようになります」と、アガナバは言う。

独自路線を貫く中国とロシア

中国とロシアの当局者たちはアルテミス合意を植民地主義に例えたり、「北大西洋条約機構(NATO)のようなプログラム」であると主張してアルテミス合意を批判したりして、アルテミス合意に加わる意図はない考えを明らかにしている。

中国とロシアは宇宙大国だ。ロシアの場合はウクライナへの侵攻によって制裁を課されたりパートナー関係を失ったりしたせいで、その宇宙探査プログラムはいくらか危うい状況になっている。それでも長年にわたって宇宙大国であり続けてきた事実は変わらない。

これに対して中国の宇宙探査プログラムは、過去20年で急速に成長してきた。それに中国の月探査ミッション「嫦娥」は、アルテミスと競合する計画であると見ることもできる。

月に関する中国の今後の計画には、サンプル回収ミッションの打ち上げ、月周回軌道への宇宙船の投入、ローバー型の探査機の送り込み、そして最終的にはロシアと共同での月面研究基地の建設が挙げられる(アルテミスと同じく、「嫦娥」も女神にちなんだ名称だ)。

ヘリテージ財団のチェンによると、中国の宇宙探査プログラムは、月へのミッションの策定を進めるなかでもアルテミス合意に加わることなく、引き続き独自路線を貫いている。「中国は『自分たちのルールは自分たちでつくる』と言っているようなものです」とチェンは説明するが、中国はアルテミス合意からいくつかのベストプラクティスを取り入れる可能性もあるという。

アルテミス合意は、民間の宇宙産業から見ても歓迎できそうな内容になっている。アルテミス合意の基礎にあるのは、オバマ政権下で定められた2015年宇宙法、そしてトランプ前大統領による2020年の大統領令だ。どちらも民間からの宇宙進出を促進し、月と小惑星での採掘に向けて道筋をつけるものになっている。

どちらも、どの国家も宇宙空間の領有を主張することはできない旨を明確にしながらも、自国の目的で資源を採掘することはできるとしている。例えば、氷を採掘すれば推進燃料や飲み水に使うことができるし、鉱物を採掘すれば3Dプリンターで構造物をつくる際の原料にすることができるだろう。

先行する国と民間企業の“特権”が課題に

今後はアルテミスのミッションにおいて、宇宙飛行士が月からいくらかの氷を採取する必要が生じても法的には問題にならないと、英国のレスター大学の研究者のロッサーナ・デプラーノは指摘する。デプラーノはアルテミス合意が国際的な宇宙関連の法律にどのような影響を与えるのかを幅広く調査している。

「宇宙条約では、科学的なミッションを支えることができる場合に限って、宇宙の資源を利用することが認められています。アルテミスのミッションは、その定義からして科学的なミッションなので、米国やその他の参加パートナー国が資源を利用しても、何ら法律には触れません」と、デプラーノは説明する。

一方で宇宙条約には、宇宙探査は「すべての人々に恩恵をもたらす」ことを目的とされるべきだとも記されている。NASAと欧州宇宙機関は、民間企業を相手に頻繁に下請け契約を結んでおり、こうした民間企業の一部はアルテミスプログラムにも参加している。こうした企業がそれぞれ月での事業を構想しているなら、法的なグレーゾーンが生じることになるかもしれない。

デプラーノの考えでは、現時点ではスペースXやブルーオリジンなどのNASAのパートナー企業が政府からの資金を用いて技術を開発し、その技術を個別に再利用することを禁じる規定はない。また、月では氷が存在する場所や着陸に適した場所は非常に限られているが、そうした場所を企業が自社の商業的な目的で使用する構図にもなってしまう。

つまり、米国やそのパートナー国など、高度な宇宙探査プログラムを展開している国の企業は、最初から有利な状態で月の探査に乗り出せる可能性があるわけだ。「これは本質的に特権的な環境です。世界の一部地域がその他の地域よりはるかに急速に発展する動きを許すことになるでしょう。宇宙の資源の商業利用を可能にする技術やノウハウを、ひと足先に確立できることになるのですから」と、デプラーノは指摘する、

民間の開発を巡り法的論争が発生する可能性も

アリゾナ州立大学のアガナバも、将来は民間による採掘に関して法的論争が発生する可能性があるとみている。1979年の月その他の天体における国家活動を律する協定は、国連で交渉が進められ、主に中南米と東欧を筆頭に18カ国が署名した。この協定では採掘について、より厳しい制限が課されている。「月およびその天然資源は人類の共有財産である」と記されているのだ。

これは民間企業による月の資源の採掘と使用の取り組みを、複雑にしてしまう立場である。米国や宇宙探査を手がけているほとんどの国は、月などの天体における国家活動を律する協定に署名していない。これに対して月その他の天体における国家活動を律する協定とアルテミス合意は、署名国の数が大して変わらないことから、どちらを優先すべきかは判断が難しいとアガナバは指摘する。

これに対してカナダの研究機関であるProject Ploughsharesの宇宙安全保障の研究者であるジェシカ・ウェストは、月そのものの保全に関してアルテミス合意が実際にどのように適用されるかに注目している。

アルテミス合意は「遺跡」なるものとして保全すべき地点を狭く定義して定めている。具体的には、アポロ計画時代の着陸地点が保全対象となっているが、月面の景観は対象になっていない。

また、アルテミス合意は「持続可能性」なるものの慣行を呼びかけているが、その内容とは地球周回軌道にこれ以上宇宙ゴミが蓄積しないようにするという項目に限られている。このため宇宙の資源を保全するという規定はないのだと、ウェストは指摘する。

例えば、氷を求めてクレーター全体を掘り起こしてしまうと、今後の世代や先進度で劣る宇宙プログラムが必要不可欠な資源を利用できなくなったり、夜空に浮かぶ月の姿が変わってしまう。ところが、それを禁じる規定はないのだ。

十分な平等性の確保の重要性

またアルテミス合意では、月の探査による世界への「恩恵」として「科学の進歩」のみが挙げられている。そこには企業が月の氷を採掘して得られる利益といったことは含まれていない。

「普遍的な恩恵をもたらすとは、どういうことでしょうか。何かが人類全体に恩恵をもたらすとは、どういうことでしょうか」と、Project Ploughsharesのウェストは問いかける。「この原則は幅広いものであり、実際上の場面に基づいて細かく規定されているわけではありません。慣例としては『恩恵』とは科学的情報の共有を意味してきましたが、金銭的な恩恵を意味したことはありません」

アルテミス合意は、米国の現時点での月へのビジョンを反映したものだ。しかし、今後の各国のミッションがどのように進められていくかは不透明であり、不平等に関する懸念が大きくなっていくかどうかも見通せないのだと、CSISの航空宇宙安全保障プロジェクトのジョンソンは指摘する。

「植民地主義ではないのか、早い者勝ちではないのか、といった批判が消えることはありません」と、ジョンソンは言う。「現時点では豊かな国々だけが月に行くことができる状態で、こうした国々だけでルールを策定しようとしています。このような状況では、十分な平等性の確保は難しいでしょう」

WIRED US/Edit by Daisuke Takimoto)

※『WIRED』によるアルテミス計画の関連記事はこちら宇宙の関連記事はこちら


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