元物理学者の「消える彫刻」が生み出す、心で見る量子物理学の世界

正面から見ると人の姿。しかし、横から見ると像が消える──。ポートランドを拠点に活動するジュリアン・ヴォス=アンドレは、鑑賞者の視点によって見え方が変わる彫刻で有名なアーティストだ。その作品は「消える彫刻」としてたびたび話題になっている。そんな唯一無二の作品をつくる彼の創作の原点は、めくるめく量子物理学の世界にあった。
元物理学者の「消える彫刻」が生み出す、心で見る量子物理学の世界
JULIAN VOSS-ANDREAE

見る位置によって像が景色と同化する「消える彫刻」で有名な彫刻家、ジュリアン・ヴォス=アンドレ。その幼少期は、科学と共にあった。

「昔から超常現象のような『変なもの』が大好きだったんです。おばが科学雑誌を送ってくれるようになってからは、相対性理論やアインシュタイン、時空の歪みに関する記事を読み漁っていました」と、ヴォス=アンドレは語る。

そんなジュリアン少年が最も夢中になったのが量子物理学だ。特に、量子が粒子と波の両方の性質をもつという「粒子と波動の二重性」は彼に衝撃を与えた。「それまでの科学的なものの見方を突き抜けていて、説明不可能で、直感的で、スピリチュアルな世界の見方と調和するものでした。そのパラドックスに心を揺さぶられたんです」と彼は振り返る。

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量子物理学との8年間

一方でアートにも強い興味を抱いていたヴォス=アンドレは、16歳ごろから作品づくりを開始。19歳にもなると、将来はアーティストになると心に決めていたという。

しかし、量子物理学がヴォス=アンドレの心を掴んで離さなかった。「大学では科学・哲学の授業をたくさん受けました。でも、ただ人に話を聞くだけでは不十分だと感じたんです。自分自身でその仕組みを知りたかった。他人に任せるにはあまりに重要すぎたのです」

すでに美術大学に入学するために故郷のハンブルクからベルリンに引っ越していたが、思い切って理系に転身。そこから8年間かけて量子物理学を追究した。研究室の担当教授は、2022年にノーベル賞を受賞したアントン・ツァイリンガー博士だった。

その後、ヴォス=アンドレは妻と米国に移住したことをきっかけに美術大学に入学。再びアートの道を志す。大学卒業後につくりはじめたのは、彼が没頭した量子物理学をテーマとした作品だった。

「もともとアートと量子物理学を結びつけようと思って学んでいたわけではないんです。興味があったからいろいろ試してみただけで。わたしは自分がやりたいと思ったことを楽しめる幸運な人間だったんです」

ヴォス=アンドレが卒業後に最初に制作した作品「Quantum Buckyball」の題材は、バックミンスターフラーレン(通称・バッキーボール)と呼ばれる球体構造。その理由をヴォス=アンドレは熱く語る。「まず歴史が面白い。60個の炭素原子が結合したバッキーボールが見つかったのは1985年。グラファイトやダイヤモンドは数千年前から知られ、その形状である切頂十二面体はレオナルド・ダ・ヴィンチの時代から記録されていたのに、バッキーボールはほんの数十年前まで発見されていなかったのです。また、ツァイリンガー教授は1999年にこのバッキーボールでの量子の『重ね合わせ』という原理を実証しています」。作品と一緒に映っているのは、ツァイリンガー教授だ。

PHOTOGRAPH: JACQUELINE GODANY

「量子になった自分」を作品に

消える彫刻として有名な「Quantum Man」もそのひとつだ。そのインスピレーションの源は10代の彼をとりこにした粒子と波動の二重性、そしてそれを証明した「二重スリット実験」だった。

二重スリット実験とは、量子のひとつである電子をふたつのスリットが空いた板に向けて発射し、板の反対側にある感光板にどのような模様が現れるかを検証する実験だ。詳述は避けるが、電子が粒子ならばふたつのスリット上の模様が、波ならばふたつの波同士が干渉してしま模様が発生することになる。そしてこの実験の結果、量子が波でも粒子でもあることが証明された。

「この実験装置を通過する量子になった自分を想像してみたんです」と、ヴォス=アンドレは語る。「量子をどんどん大きくして、量子力学を扱わない古典物理学と呼ばれる領域と、量子物理学の境目を探求しようと思いました」。それゆえに、Quantum Manの金属板は横から見ると波のようにつくられている。この彫刻は、いわば量子物理学の世界を探求するヴォス=アンドレ自身なのだ。

ヴォス=アンドレによる「消える彫刻」の第1号である「Quantum Man」(2007年)。

PHOTOGRAPH: JULIAN VOSS-ANDREAE

感覚と論理の両方に声を与える

科学というインスピレーションを基につくられるヴォス=アンドレの作品だが、そこに必ずしも論理的な理由付けは必要ないという。それは、量子物理学の複雑な世界がモデルや図解では必ずしも正しく伝えられないという難しさにも起因する。

さらに言えば、論理的な科学と感覚的なアートの両者を組み合わせている点にこそ、彼らしさが息づいているのだ。

「アートは人に異なるレンズ、異なる視点を提供する力があります」と、ヴォス=アンドレは語る。「アートは魂に訴えるものです。論理的な説明を超えたもの、あるいはその基盤になっているもの。それこそがアートの美徳であり、強さなのです。そして、わたしはそんな感覚と論理の両方に声を与えたいと思っています」

2016年の作品「Kundalini」とジュリアン・ヴォス=アンドレ。

PHOTOGRAPH: JULIAN VOSS-ANDREAE

「Quantum Buckyball」に次ぐふたつ目の作品は、オーストラリアの研究者からの依頼で制作したタンパク質がテーマの彫刻「Unraveling Collagen」(2005年)だった。その後、タンパク質がテーマの作品もたびたび制作することになる。「3m52cmの巨大なコラーゲンをつくっていたこともあります。ガレージに置いて一日中、鉄を削っていたら、ご近所さんたちに怒られてしまって。それが理由でアトリエに引っ越すことになったんです」と、笑いながら振り返る。

PHOTOGRAPH: JULIAN VOSS-ANDREAE

生物医療科学を研究する米国のスクリプス研究所の依頼を受けて制作された「Heart of Steel」(2005年)。お題は「抗体分子」だったという。「何ができるか模索した末に、アミノ酸の主鎖を切り出して鉄の塊にすることにしました」と振り返る。

PHOTOGRAPH: JULIAN VOSS-ANDREAE

同じくスクリプス研究所の依頼で制作された「Angel of the West」(2008年)。抗体分子の周りをレオナルド・ダ・ヴィンチの「ウィトルウィウス的人体図」を彷彿とさせる円が囲んでいる。

PHOTOGRAPH: JULIAN VOSS-ANDREAE

「Angel of the West」の制作のためにつくられた図面。

PHOTOGRAPH: JULIAN VOSS-ANDREAE

制作方法を試行錯誤するなかで生まれた作品もある。三角形メッシュのアルゴリズムを彫刻にした「Samantha」(2016年)は、スチールをレーザーカッターで三角形にし、ガラスを載せて窯で焼くことで美しいフォルムを実現している。

PHOTOGRAPH: JULIAN VOSS-ANDREAE

ヒンドゥー教における生命エネルギーをテーマにした作品「Kundalini」(2016年)。

PHOTOGRAPH: JULIAN VOSS-ANDREAE

光に当たった様子も印象的な「White Buddha」(2022年)。「最近は人間やスピリチュアルなもの、外からは見えないものに興味があります。物理学ももちろん面白いのですが、結局のところ、本当に重要なことは物理学を超えたところにあると思うんです」

PHOTOGRAPH: JULIAN VOSS-ANDREAE

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