ドキュメント:「次なるパンデミック候補」のニパウイルスは、こうして食い止められた

インドで9月中旬にかけて、ニパウイルスという致死性が高いウイルスのアウトブレイク(集団感染)が確認された。次なるパンデミックへと発展する危険性もあったこのウイルスの感染拡大を、医師たちはいかに食い止めることができたのか。
Health workers wearing protective gear on a street in Kerala India
Photograph: AFP/Getty Images

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集中治療専門医のアヌープ・クマールは9月11日の朝、普通ではない状況に遭遇した。クマールはインドのケララ州コーリコードにある「Aster MIMS」という病院に勤務している。この病院に同じ世帯で暮らす家族4人が入院したのは9月10日のことで、全員が似たような病状を見せていた。クマールは、この家族を診察するよう依頼されたのである。

クマールは家族4人を調査すべく、医師のチームを招集した。チームはすぐに、病室にいた9歳の男児、4歳の妹、24歳の叔父、そして生後10カ月のいとこを診察した。家族はいずれも病院に着いたとき、熱、せき、その他インフルエンザのような症状を示していた。

なかでも9歳の男児は呼吸困難に陥っており、うまく息をすることができなかった。このため非侵襲的人工呼吸器を装着させ、マスクを通して空気を送り込むことで肺を広げた状態に保っておく必要があった。

家族の症状は憂慮すべきものであり、不可解でもあった。医師のチームは何が問題なのかをはっきりと指し示すことができなかったのだ。

しかし、家族の行動履歴を探るうちに、アヌープと仲間の医師たちはすぐに手がかりを得た。小さな兄妹にはモハメド・アリという49歳の農学者の父親がいた。家族が入院したのは、この父親が死亡してから2週間も経たないうちのことだったのである。Aster MIMSの医療チームが父親であるアリの治療をした病院に問い合わせると、アリが入院したときも家族と似たような肺炎と熱の症状を示していたことが判明した。

アヌープのチームがさらに調査を進めると、アリには神経系の症状もあったという情報が入院先の病院からもたらされた。アリを担当した医師らには見過ごされたようだが、アリには複視、発作、ろれつの回らない話し方、といった症状があったのだ。それにもかかわらず、アリの死因に関しては「多臓器不全」というあいまいな診断が出され、本当の原因はわからないままだった。アヌープの頭のなかで“警報”が鳴り始めた──。

極めて高い致死率の感染症

アリの事例を見てアヌープが思い出していたのは、2018年5月に発生した事態だった。このときアヌープが診察していた5人の患者には、インフルエンザのような症状、呼吸困難、神経障害が同時に現われていた。これらの患者たちはニパウイルスと呼ばれる希少だが致死性が高く、動物から伝染するウイルスに感染していた。

ニパウイルスはコウモリから人間へと伝染すると考えられており、人間が感染した場合の致死率は40%から75%ほどだ。インド国内で18年に初めてニパウイルスのアウトブレイク(集団感染)がケララ州で起きたときには、18人が感染した。このうち17人が死亡している。

「コウモリやブタなど、ニパウイルスに感染した動物に直に接触すると伝染する場合があります。また、感染したコウモリやブタの体液で汚染された食べ物や水によっても伝染することがあります」と、テッカムカラ・スレンドラン・アニッシュは言う。アニッシュはケララ州マンジェリにある政府医療大学で地域医療の准教授を務めており、ケララ州のニパウイルス調査チームのリーダーでもある人物だ。「感染者、そしてその人の体液に密接に接触した場合も、ニパウイルスに感染する場合があります」

なお、ケララ州では18年以降、何度かニパウイルスが確認されている。

アヌープとそのチームは、すぐさま行動に移さなければならないと理解していた。ニパウイルスに対しては認可された治療法もなければ、有効なワクチンも存在していないのだ。

もしニパウイルスが定着したり、地域の外へと広がったりしてしまえば、壊滅的な影響を及ぼしうる。だが、まずは確認しなければならないと、アヌープたちは考えた。

家族内で発生した不可解な集団感染、家族とアリとのつながり、アリが発症した憂慮すべき神経障害、適切な診断の欠如──。これらの要素を考慮すると、「再びニパウイルスによる感染が発生したのだと疑うには十分な理由がありました」と、アヌープは言う。

「アリの容体が急激に悪化したことも、ニパウイルスを疑った理由のひとつでした」と、アヌープは説明する。わずか数日のうちにアリは体調を崩し、死亡したのだ。そして、アヌープの疑いが深まる最後の決め手となった要因が、ひとつあった。「アリは18年に起きたニパウイルスのアウトブレイクの中心地近くに暮らしていたのです」

最悪の事態を恐れたアヌープのチームは、すぐさま家族を隔離し、鼻と喉から綿棒で採取した検体を検査施設へと送った。それから間もなく、似た症状をもつ別の患者が病院に入院した。コーリコードのアヤンチェリーという村に暮らす40歳のマンガラット・ハリスが、重篤な状態でAster MIMSに到着したのだ。

ハリスはその日のうちに死亡した。ハリスの鼻から採取した検体も、ニパウイルスの検査のために施設へと送られた。

翌日、検査結果が戻ってきた。患者のうち3人の検体がニパウイルスの陽性反応を示していた。その3人とは、アリの9歳の息子、24歳の叔父、そして一見すると家族とは関係のないハリスである。

アリを治療した病院では、新型コロナウイルスやその他の感染症ではないか確認するために、アリの鼻から綿棒で検体を採取していた。この検体も検査施設へと送られたが、ニパウイルスの陽性反応を示した。これにより、今回のアウトブレイクの最初の感染者がモハメド・アリであるということが確実視されるように見えたのである。

しかし、本当にアリが最初なのだろうか。ハリスはアリの家族とは何のつながりもなかったし、同じ地域に暮らしていたわけでもなかった。ハリスが未確認の人物からニパウイルスをうつされた可能性もあった。アリは最初の感染者ではなく、あくまでその時点で最初に確認された感染者にすぎないかもしれないのだ。

また、アヌープは潜伏期間のことも考えていた。ニパウイルスが体内で感染を広げるには14〜21日間はかかる。感染してから症状が現れるまでに、数週間はかかる場合があるということだ。もしこのアウトブレイクにおいてほかにも接触者がいたら、ニパウイルスは知らぬ間に広範囲で広まっている可能性もあった。

徹底した封じ込め作戦

ケララ州当局も事態の深刻さを理解していた。ニパウイルスの陽性反応が確認されると、ケララ州はただちに公衆衛生を守るための取り組みを全力で開始した。9月13日には新型コロナウイルスのパンデミック(世界的大流行)のときと同様に、保健当局はコーリコードをいくつかの「封じ込め区域」へと分割し、それらの区域で厳格なロックダウン対策を実施した。

学校、オフィス、公共交通機関は閉鎖され、封じ込め区域の行き来は制限され、生活必需品を扱う店のみが限られた時間だけ営業することを許可された。感染予防策として住民はマスクを着用し、ソーシャルディスタンスを保ち、手の消毒液を使用しなければならなくなった。

それから州の保健機関職員らは、感染経路の追跡という大変な作業にとりかかった。職員らは熱を出していた住民全員を隔離し、感染者と接触した1,233人を追跡した。つまり、モハメド・アリ、その家族、そして第2の患者であるハリスが感染力をもっていたと思われる時期に、彼らと接触した人物すべてを追跡したのである。そして、ひとりの医療従事者がニパウイルスの陽性反応を示した。

一方、医師らは第2の患者であるハリスの家族の行動歴を調べ、各感染例のつながりを見出そうとしていた。Aster MIMSにハリスが入院するまでのありとあらゆる行動を医師らが綿密に検証していたところ、やがて監視カメラの映像のおかげで調査に大きな進展があった。

「ハリスは病気の義父の付き添いで病院に行ったことがあったのですが、その義父が入院したのが(アリと)同じ病院でした。そしてハリスがいた救急病棟は、アリの病棟の隣にあったのです」と、アニッシュは言う。あるひとりの医療従事者がこれらふたつの病棟で働いていたことから、州当局はこの人物がアリとハリスとの感染を媒介した可能性があると考えている。

9月15日の朝、またしてもニパウイルスの感染者が確認された。この感染者は39歳の男性で、病気の親戚の世話をしていたとき、アリと同じ病院にいた。これにより、アリのいた病院からウイルス感染が広まった可能性が強まった。

これで住民が陽性となったケースは6例目となり、そのうち2人が死亡したことになる。しかし、地域内での目に見えない感染の連鎖という恐怖は弱まった。

「ニパウイルスがどのように感染拡大しているのかは、すぐにはっきりとわかることではありません」と、病院内での感染についてアニッシュは説明したうえで、ニパウイルスは空気感染しないことにも触れた。「ニパウイルスについてはまだわかっていないことがたくさんありますが、患者の症状が悪化するほど感染力が高まることはわかっています」

特に感染リスクが高い場所が病院であるという。ニパウイルスは物体の表面でも生存でき、感染した患者の体液を医療従事者が触る際に感染を引き起こすからだ。このため手を清潔に保つことが重要であると、アニッシュは指摘している。今回のアウトブレイクでは118人の医療従事者が隔離された

9月16日以降、ケララ州では新たなニパウイルスの感染者は報告されておらず、死者も出ていない。ケララ州の厚生相であるヴィーヌ・ジョージは、現在のアウトブレイクは制御できていると語っている

隣接するタミル・ナードゥ州とカルナータカ州は厳戒態勢にあり、いずれの州でも感染者は出ていない。ただし、これらの州はケララ州と比べて公衆衛生に関する監視体制は緩やかなものとなっている。

ウイルスとオオコウモリとの関係

今回は原因がニパウイルスであるとすぐに確認できたことが最大のアドバンテージとなった。ケララ州はニパウイルスとの戦いを有利に進め、州外へとウイルスが拡散することを防げたのである。

これはアヌープやその仲間たちのような知識のある医師がおり、極めて素早く検体を検査できる施設があったおかげだ。接触追跡、ロックダウン、隔離といった対策を断行したことも、ケララ州の対応が模範的である点だろう。ケララ州による感染症の封じ込め戦略は理想的だったといえる。

しかし、まだ状況は予断を許さない。今回のアウトブレイクはケララ州においてこの5年間で4回目のものだ。ニパウイルスは伝染してからの潜伏期間が数週間あることを踏まえると、ケララ州内において今後もこのような頻度で人間への伝染が発生する場合、感染はやがて州外へと広がっていく可能性がある。また、そもそも動物から人間への伝染をどう防ぐのかについて、あまり有効な対策は生み出されていない。

今回のアウトブレイクでそもそも最初の感染者であるアリがどのようにニパウイルスに感染したのかについて、保健当局はいまもその謎を解明できていない。コーリコードに生息するオオコウモリを18年に分析したところ、ニパウイルスの宿主となっていることが証明された。しかし、今回のアウトブレイクでは、アリが暮らしていた場所の周辺のオオコウモリから36個の検体を採取したにもかかわらず、現時点ではいずれの検体からもニパウイルスの陽性反応は出ていない

ケララ農業大学で野生生物を研究する助教のスリーハリ・ラマンは、この10年間にわたってケララ州に生息するコウモリの観察研究を続けてきた。ラマンが執筆中の博士論文のテーマは、コウモリが多く生息する場所を発見することや、ケララ州の絶滅危惧種のコウモリも含むコウモリの集団に気候変動がどのような影響を及ぼすかを理解する、というものだ。ラマンは最近、今回のアウトブレイクが起きたコーリコードに生息するコウモリも調査している。

「わたしたちはコウモリに対する悪影響がますます大きくなっていることを突き止めました」と、ラマンは言う。「ケララ州の常緑樹の森林が干からびていたのです。これはコウモリの生息地の質が急速に変化し、悪化していたことを意味しています」

ラマンはコーリコードのある地点から半径1km以内の距離に、オオコウモリの生息地を6カ所発見した。昔であればオオコウモリは森に巣をつくっていただろうが、ラマンが発見した生息地はいずれもそうした場所にはなかったという。乾燥に加えて、多くの森は広範に実施されているラテライトの採掘によって影響を受けたか、破壊されたとラマンは説明している

結果的にラマンが発見した生息地は、いずれも森林にはなかった。6カ所のうち3カ所は国営の高速道路沿いにあった。残りの3カ所は、宗教的に神聖だとされる林にあった。これらの林はたいていの場合、寺院などのような宗教施設の敷地の一部であり、保護区域となっている。

これはコウモリの生息地が破壊され続ければ、コウモリは人間の暮らす場所の近くに生息せざるを得なくなる証拠であると、ラマンは言う。ラマンが地域の林野局や現地住民に尋ねたところ、コウモリが家や仕事場のあまりに近くにいる場合は、花火まで使用してコウモリを追い払う人もいることが明らかになった。これはコウモリが人間の近くで暮らしていることと、そのせいでコウモリがますます人間からの影響を受けていることの両方を示唆している。

否定しがたい環境の変化の影響

ニパウイルスの伝染がより頻繁に起きていることも、コウモリの生息地が影響を受け、コウモリが人間のすぐ近くで暮らすようになったからだとすれば説明がつくかもしれない。しかし、生息地の減少とニパウイルスの伝染との科学的なつながりを見出すには、さらなる研究が必要だ。

ニパウイルスの伝染における寄生虫の役割も見過ごされていると、ラマンは指摘する。コウモリの血を吸った寄生虫がニパウイルスを媒介している可能性もあるという仮説だ。

しかし、環境の変化による影響で伝染病が増加していることは、ほとんど否定しがたいことだ。気候変動、都市化、森林破壊、人間の移住パターンの変化(政治的不安定さが原因の場合もある)といった要因が合わさり、伝染病をより頻発させる最悪な状況を生み出している──。そう語るのは、ベイラー医科大学教授のピーター・J・ホッテズである。ホッテズは見過ごされてきた熱帯病を専門的に研究しており、著書『次なるパンデミックを防ぐ 反科学の時代におけるワクチン外交』でも知られている。

生物医学、社会科学、気候科学など、さまざまな分野の科学者らが協力し、こうした脅威に直面する地域に暮らす人々の意識を高めなければならない。「生物を媒介としたウイルス伝染の仕組みをより理解するための国際的な取り組みを進めない限り、恐ろしい伝染病は今後も発生し続けるでしょう」と、ホッテズは言う。

もしそうした理解の取り組みを怠り、人間とウイルスの宿主となるであろう生物たちとの距離が縮み続ければ、アヌープや彼のような医師らが再びアウトブレイクの疑いがあるケースに対処しなければならなくなることも時間の問題だろう。そして今度は、医師や科学者らが見つける前に、そのウイルスは以前よりずっと広範囲に広がってしまうかもしれないのだ。

WIRED US/Edit by Daisuke Takimoto)

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