「人間の大便」を永久保存せよ:多様な腸内細菌を残す“微生物版ノアの箱舟”が目指していること

人間の健康維持に欠かせないとされる腸内細菌だが、その多様性が工業化や都市化、環境の変化などで危機に晒されている。そこで多様な細菌を保存すべく、「微生物版のノアの箱舟」とも言える世界規模のバイオバンクの構築が始まった。
Somali pastoralists walking near Ethiopia's border with children
Photograph: Paul Schemm/The Washington Post/Getty Images

エチオピアの農村地域から届いた荷物をスイスの科学者たちが開いたのは、2022年11月のことである。科学者たちが首を長くして待っていた中身は、大量の大便だった。

公衆衛生学の研究者であるアブディファタ・ムハメドは、それまでの2カ月にわたってエチオピアのソマリ州に滞在し、人里を離れて暮らす牧畜民の子どもたちから便サンプルを採集していた。ヒトの腸内細菌の多様性を体系的に捉え、守ろうとする国際的な取り組みの一環である。

ムハメドはサンプルをそれぞれ4本の試験管に分け、マイナス80℃に凍らせた。そのうち2本がスイスに送られてきたのだ。

ヒトの消化管には約100兆個ものバクテリアや菌類、その他の微生物がすみついている。その多くが代謝機能や免疫系の強化などに効果を発揮しながら、人間の健康維持に貢献している。ところが、いまや腸内細菌の多様性は、工業化や都市化、環境の変化がもたらす脅威に晒されている。

集めたサンプルの一部をシャーレで培養し、顕微鏡で観察しやすいよう着色して分析してみたムハメドは、その結果に驚きを禁じ得なかった。抗生物質との接点がまったくない子どもたちから採取したサンプルにも、抗生物質に対する耐性の兆候が見られたからだ。

科学者たちが「微生物版のノアの箱舟」とも言える世界規模のバイオバンクをつくり、手遅れになる前に世界中から集めたサンプルを永久保存したいと考える理由のひとつはここにある。

「もちろん、人類が具体的に何を失いつつあるのかを言い当てることは困難です」と、チューリッヒを拠点に活動する微生物学者で「Microbiota Vault(微生物叢の保管庫)」プロジェクトを発足したチームの一員でもあるエイドリアン・エグリは言う。

食習慣の変化に合わせて微生物叢も変化

牧畜民の便サンプルには、科学者たちの特別な関心が寄せられている。人間のマイクロバイオーム(腸内フローラとも呼ばれる微生物叢)には食習慣が大きく影響するからだ。

「(エチオピアの農村地域に住む)こうした人々の暮らしぶりは、都会や市街地に住む人々とはまったく異なります」と、ムハメドは言う。博士課程で学ぶ大学院生の彼は、エチオピアのジジガ大学、スイス熱帯公衆衛生研究所、バーゼル大学の共同研究活動の一環として350を超える便サンプルを集めたという。

動物の乳を主食とする牧畜民の食事は、脂肪酸を豊富に含んでいる。しかし、これまで牧畜民が健康調査の対象になることはめったになかった。生まれながらの遊牧民であるがゆえに、東アフリカで何年も続いた干ばつの後にわずかに残された牧草地を、ヒツジやヤギ、ラクダの群れと共に移動し続けているからだ。こうした人々が医療に接する機会は、ほとんどない。

都市部に移る人が増えるにつれ、新たな食習慣を取り入れ、それまでとは違う環境に身を置く人が増える。ムハメドによると、エチオピアの牧畜民たちもコメやパスタといった食品を買うようになっているという。この食習慣の変化がマイクロバイオームの構成を変化させ、腸内にすみついている特殊な細菌を絶滅に追い込むことになるかもしれないというのだ。

最善策は明らかになるか

Microbiota Vaultのプロジェクトでは、多様な細菌がこの世から完全に消えてしまう前に、世界中の健康な人から採取した数万点の便サンプルを永久保存できるようにする予定だという。ゆくゆくは保存されたサンプルを再び活性化して培養し、疾病の治療に生かせるようになるかもしれない。

すでに数十の“便バンク”が存在し、進行中の多数のプロジェクトのなかで研究者たちはヒトのマイクロバイオームを整理分類する作業に取り組んでいる。共通する狙いは、万一の場合に備えて便サンプルを保存しておくことなのだろう。

ノアの箱舟にも似たこのプロジェクトに参加する研究者たちは、ふたつに分けたサンプルの一方を便バンクに提供し、もう一方を自分たちの手元に置く。サンプルの所有権はすべて提供元である研究者たちに帰属する。

「ギブアンドテイク、つまり双方に利益をもたらすやり方です。こちらは基盤となるデータを提供すると同時に、いずれかの時点でシーケンスデータへのアクセス権を得ることになります」と、Microbiota Vaultプロジェクトのエグリは言う。一方で、シーケンスデータを標準的な書式で文書化して公開することで、国際的な研究をさらに発展させたいと考えている。

実際の保管庫がどこにつくられるかは未定で、現状はチューリッヒ大学のエグリの研究室内に置かれた冷凍庫がその役目を果たしている。ノルウェーのスヴァーバル世界種子貯蔵庫の一画に設けられる可能性もあるが、スイスの政治的な安定性、優れたインフラ、ジュネーブの世界保健機関(WHO)をはじめとする国際機関とのつながりといった点から、アルプス山中にある軍事燃料庫を改造した施設が最適な候補地として挙げられている。プロジェクトは24年までを準備段階としており、その期間の資金として100万ドル(約1億3,200万円)が投じられる予定だという。

こうした構想の実現に向けてエグリら研究者たちが最初にすべきことは、細菌を生きたまま長期保存するために最も効果的な冷凍方法や保存料を見極めることだ。これについては、最初のサンプル群を冷凍してから2年後に解凍し、再びシーケンス分析をした時点で明らかになるという。「そのとき、微生物の多様性を守るための最善策がわかるはずです」と、エグリは語る。

WIRED US/Translation by Mitsuko Saeki/Edit by Daisuke Takimoto)

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