なだらかにつながる時間──リニアとノンリニアの中間域から:坂本龍一・高谷史郎による舞台作品『TIME』レビュー

坂本龍一が『LIFE a ryuichi sakamoto opera 1999』に続いて全曲を書き下ろし、高谷史郎(アーティストグループ「ダムタイプ」)と共同制作した『TIME』が新国立劇場で上演された。2021年にオランダで世界初演され、好評を得た本作は、4月27日(土)と4月28日(日)にロームシアター京都でも公演される。
笙奏者の宮田まゆみ。
笙奏者の宮田まゆみ。PHOTO: YOSHIKAZU INOUE

2024年3月28日。『TIME』の日本初演日は、奇しくも坂本龍一の一周忌となった。外は雨。そして劇場に入ると、そこでも雨音が……。不思議な連続性に浸るなか、鈴のような音や打楽器音が加わり公演が始まった。

舞台の床には水がたたえられ、傍らに石や立砂(円錐形に盛った砂)が、そして正面にスクリーンが設置されている。ミニマルで静謐な佇まい、微かに張り詰めた空気感は、坂本と高谷史郎の美学を基調としながら、現実と異界が交錯する能舞台を彷彿させる。

笙を演奏しつつ登場した宮田まゆみは、水に足を踏み入れながらゆっくりと進み、上手へと消えていく。上手から現れた男(田中泯)と宮田は、互いの存在に気づかないかのようにすれ違う。男は水を恐れ、手で触れるものの踏み込まない。抑え気味の光のなか、身体も事物もシルエットのようになり、スクリーンにはリアルタイムで男の所作が映される。田中は、その存在自体がすでに言葉を超えている。

舞踊家の田中泯。

PHOTO: YOSHIKAZU INOUE

『TIME』では、夏目漱石の『夢十夜(第一夜)』、能『邯鄲(かんたん)』(1)、そして「胡蝶の夢」(2)が朗読(田中)やテキスト(映像)として引用され、現実と夢、生と死など時空を超えた世界が展開される。スクリーンでは、場面に応じてリアルタイムの映像に加え、石垣と男、植物と家屋、気象映像や都市の映像などが現れる。

なかでも『夢十夜』が印象に残る。男は女(石原淋)と出会うが、死を迎えた女の言うままに真珠の貝殻で穴を掘り埋めてやり、100年という人間の一生を超える時間を待つ。赤い日が出て落ちる日々を繰り返しながら。光、音、身体、言葉……『夢十夜』では、どのシーンからも抑制された官能が滲み出し、観る側に押し寄せてくる。

水や宮田は、「自然」を表しているという。砂を固めてレンガのようなものをつくり、水中に直列させ渡ろうとする男は、技術を駆使し自然の支配を試みてきた人類の象徴だという(3)。 しかし人は、自然に抗うことができない。水の力は、終盤に近づくにつれ顕(あらわ)になる。驟雨が襲い、その只中で打たれる男は、翻弄されながら踊っているようでもある。そして到来したすべてを呑み込むような濁流(映像)を前に、男はなすすべもなく座り込んでしまう。

舞踊家の田中泯と石原淋。

PHOTO: YOSHIKAZU INOUE

『TIME』は、『LIFE a ryuichi sakamoto opera 1999』に始まった坂本と高谷のコラボレーションの最後のシアターピースである。四半世紀にわたり、ふたりはメディアアートのインスタレーションやライブなどで新たな試みを行なってきたが、そのひとつに水や石、木など自然の事物の活用がある。なかでもとりわけ重視したのが水である(4)

生命の源である水は、地球にさまざまな様態で偏在している。わたしたちの身体内にも呼吸にも、そして劇場全体にも。環境に応じて変化するため、時には人間に脅威をもたらすこともある。気象、生命、海や地層などが流転するノンリニアな世界のなかで、水は可視/不可視を越えるグラデーションのなかにあり、人間が策定した境界に収めることはできない。

水に代表される、境界をなだらかに突き崩すノンリニア性を坂本と高谷は、表現形式においても追求してきた。『TIME』は、インスタレーション、パフォーマンス、サウンド、ビジュアルアートなどの間に横たわる(とされる)境界を問い、その中間域に踏み込んできた彼らの到達点といっていい。人工と自然が相互にかかわる舞台では、笙奏者の宮田、舞踊家の田中など異なる背景をもつ出演者それぞれが、培ってきた世界を存分に生かしながら一期一会の瞬間に身を委ねている。

水に加えて、夢もノンリニアな領域にある。そしてノンリニア性は、本作のテーマである「時間」と深くかかわっている。現代社会が基盤としているリニアな時間を「クロノス」(人間が分節化した直線的な時間)とするなら、『TIME』で志向されているのは「カイロス」(受容側によって伸縮して感じられる時間)、つまりノンリニアな時間といえる(5)

クロノス的な時間からの逸脱は、自身の死に直面していた坂本にとって切実なものであっただろう。個体としての死、環境破壊や戦争が激化し混迷を深める世界……。自然や夢を介したノンリニアな時間の導入は、自身が世界へと混淆、偏在していこうとする坂本の切実なメッセージとも受け取れる(6)

しかも本作は、リジッドでリニアな時間の概念やシステムがあることによってこそ可能になっている(7)。『TIME』は、人間が生み出した言語や技術、とりわけ西洋近代以降のシステム(劇場、空間、機材……)を基盤にしながら、そこにノンリニアな世界を開口させる。そのために召喚されるのが水であり、中国や日本由来の夢物語や楽器である。その背後には、地域を超えて古来から人々が紡いできた自然に寄り沿う時間や世界観があるだろう。究極に研ぎ澄まされたリニアな世界にノンリニアをもち込むことで、境界を振動させ続けるプロセス。実はその持続──始めもなく、終わりもないような──こそが、『TIME』における「時間」なのではないか。

光や音においても、そのプロセスは起きている。可視/不可視(光と闇)、可聴/不可聴(音もしくは振動)のグラデーションにおいて。そして思う。時間も空間も、音や光の出現によって初めて生まれるのではないのかと。

より踏み込めば、本作では光より闇(もしくは不可視)、音より沈黙(もしくは不可聴)の領域が、世界の根源と見なされているように思われる。そこでは闇も沈黙も無なのではなく、むしろ光や振動、音を内包する可能態としてあるだろう。水が世界に偏在しながら、時折り物質や現象として知覚されるように。

それは現実と夢で言えば、夢の領域と言える。坂本は、『TIME』を通して観客を夢の世界へと誘った。そこで想起するのが、夢に関心をもっていた南方熊楠(みなかたくまぐす)である。坂本が敬愛した粘菌学者は、粘菌の世界に入り込むなかで自身と彼ら(粘菌)、生と死、現実と夢の間を彷徨った……。いや、むしろ後者(粘菌、死、夢)の世界に生きていて、夢から連続する世界として現実を捉えていたのかもしれない(「胡蝶の夢」にも通じるだろうか)。

最後のシーンでは、笙の音とともに再び宮田が登場し、水の中を歩んだあとに上手へと去っていく。舞台が明るくなり、次第に音が減衰し、沈黙へつながるプロセスが会場全体で共有される。ここで思い至る。音も夢も夢のような公演も、そして時間も、わたしたちの日常へとなだらかにつながっているのではと。


*高谷は、『TIME』と日本初演の前月に公開された個人名のシアターピース『Tangent』(ロームシアター京都、2024)を、「対」になる作品と見なしている(参照:四方幸子『Tangent』公演評)。『TIME』初演準備中の2021年初頭より構想が始まった『Tangent』は、モノクロームでミニマルな設え、ミクロやマクロの時間や空間スケール、音楽でなく音自体の触覚性や物理性を扱い、沈黙に至るまでのグラデーションを見据えるなど、多くの共通点をもつ。

四方幸子|YUKIKO SHIKATA
キュレーター/批評家。美術評論家連盟(AICA JAPAN)会長。多摩美術大学・東京造形大学客員教授。生涯テーマは「人間と非人間のためのエコゾフィーと平和」。「対話と創造の森」アーティスティックディレクター。これまでキヤノン・アートラボ、森美術館、NTTインターコミュニケーション・センター[ICC]などで活動。著書に『エコゾフィック・アート 自然・精神・社会をつなぐアート論』(2023)がある。http://yukikoshikata.com/

(1)悟りが開けるという枕で眠った男が、50年の栄華を享受するが、実は一瞬の夢であり、栄華の儚さを悟る物語。唐代の歴史小説に収められた故事で、明代には『邯鄲記』が執筆され、日本でも14世紀末から15世紀半ばごろに能の謡曲がつくられた。

(2)筆者の荘子が、夢のなかで蝶になる。目覚めたあと、それが夢だったのか、いまの自分が蝶の見る夢なのかと問う。両方を受け入れる境地に達することが説かれている。

(3)世界との関係を、宮田は呼吸、田中は手で表象する。空気を吸い、笙を介して音と共に息を空中に拡散、偏在させる宮田。手を介して世界と触れ、世界を操作しようとする田中。

(4)京都の寺の庭園でのライブ(2005年法然院、2007年大徳寺)、『LIFE—fluid, invisible, inaudible…』(2007)、『water state 1』(2013)、野村萬斎 + 坂本龍一 + 高谷史郎『LIFE - WELL』(2013)など。水を使った初のインスタレーション『LIFE - fluid, invisible, inaudible…』は、『LIFE a ryuichi sakamoto opera 1999』の映像や音源を断片化しノンリニアにリアルタイムで再結合させ、天井から吊られた9基の水槽の水と霧を流動的なスクリーンとして映像と音を空間内で自由に体験できる作品。

(5)時間については、公演パンフレットへの寄稿から坂本の思索の一端がうかがえる。生物学者の福岡伸一は、坂本が九鬼周造の『時間論』の一節とベルクソン哲学の共通性を指摘した例を挙げながら、ふたりの対話の結論として「生命現象こそが時間を生み出している」と述べている。文筆家の小崎哲哉は、坂本の着想源のひとつとして物理学者カルロ・ロヴェッリの時間論を紹介し、「時間は存在しない」「むしろ量子の相互作用の結果として、時間が生じてくるのだ」を引用している。(福岡伸一「坂本龍一の「時間論」」・小崎哲哉 「水を聴く 水を見る」、『TIME』パンフレット、2024年)

(6)『夢十夜』で地中に葬られた女が、100年経ったあとに百合の花として姿を現す。長く地中に養分として留まりながらも男が待つことで蘇ったエピソードに、坂本は自らを重ねていたかもしれない。もうひとつ、初日のアフタートークでの高谷の発言より。坂本は、2011年3月11日の東日本大震災の津波で被災したピアノに当初「音の死」を感じたものの、それを引き取るなかで「自然がもう一度調律した」と解釈し直したという。19年に坂本は、NYの自宅の庭に古いピアノを置いたが、近代西洋音楽の頂点といえる楽器が自然に還っていくプロセスは、坂本の音楽への向き合い方や存在自体と重なってくる。

(7)文化人類学者の唐澤太輔は、熊楠が粘菌の生態現象を『般若経』に例えて説明したくだりを紹介し、こう述べている。「生命とは、灯と闇の二つの側面を持って絶え間なく運動を続ける。(略)つまり灯と闇とは連続した現象なのだ。そして生は死という否定的契機があって初めて成り立つ。逆も同じである。生と死の世界を簡単に分断することなどできないのである」。(唐澤太輔『南方熊楠』、中公新書、2015年)

(Edit by Erina Anscomb)


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