2024年3月28日。『TIME』の日本初演日は、奇しくも坂本龍一の一周忌となった。外は雨。そして劇場に入ると、そこでも雨音が……。不思議な連続性に浸るなか、鈴のような音や打楽器音が加わり公演が始まった。
舞台の床には水がたたえられ、傍らに石や立砂(円錐形に盛った砂)が、そして正面にスクリーンが設置されている。ミニマルで静謐な佇まい、微かに張り詰めた空気感は、坂本と高谷史郎の美学を基調としながら、現実と異界が交錯する能舞台を彷彿させる。
笙を演奏しつつ登場した宮田まゆみは、水に足を踏み入れながらゆっくりと進み、上手へと消えていく。上手から現れた男(田中泯)と宮田は、互いの存在に気づかないかのようにすれ違う。男は水を恐れ、手で触れるものの踏み込まない。抑え気味の光のなか、身体も事物もシルエットのようになり、スクリーンにはリアルタイムで男の所作が映される。田中は、その存在自体がすでに言葉を超えている。
『TIME』では、夏目漱石の『夢十夜(第一夜)』、能『邯鄲(かんたん)』(1)、そして「胡蝶の夢」(2)が朗読(田中)やテキスト(映像)として引用され、現実と夢、生と死など時空を超えた世界が展開される。スクリーンでは、場面に応じてリアルタイムの映像に加え、石垣と男、植物と家屋、気象映像や都市の映像などが現れる。
なかでも『夢十夜』が印象に残る。男は女(石原淋)と出会うが、死を迎えた女の言うままに真珠の貝殻で穴を掘り埋めてやり、100年という人間の一生を超える時間を待つ。赤い日が出て落ちる日々を繰り返しながら。光、音、身体、言葉……『夢十夜』では、どのシーンからも抑制された官能が滲み出し、観る側に押し寄せてくる。
水や宮田は、「自然」を表しているという。砂を固めてレンガのようなものをつくり、水中に直列させ渡ろうとする男は、技術を駆使し自然の支配を試みてきた人類の象徴だという(3)。 しかし人は、自然に抗うことができない。水の力は、終盤に近づくにつれ顕(あらわ)になる。驟雨が襲い、その只中で打たれる男は、翻弄されながら踊っているようでもある。そして到来したすべてを呑み込むような濁流(映像)を前に、男はなすすべもなく座り込んでしまう。
『TIME』は、『LIFE a ryuichi sakamoto opera 1999』に始まった坂本と高谷のコラボレーションの最後のシアターピースである。四半世紀にわたり、ふたりはメディアアートのインスタレーションやライブなどで新たな試みを行なってきたが、そのひとつに水や石、木など自然の事物の活用がある。なかでもとりわけ重視したのが水である(4)。
生命の源である水は、地球にさまざまな様態で偏在している。わたしたちの身体内にも呼吸にも、そして劇場全体にも。環境に応じて変化するため、時には人間に脅威をもたらすこともある。気象、生命、海や地層などが流転するノンリニアな世界のなかで、水は可視/不可視を越えるグラデーションのなかにあり、人間が策定した境界に収めることはできない。
水に代表される、境界をなだらかに突き崩すノンリニア性を坂本と高谷は、表現形式においても追求してきた。『TIME』は、インスタレーション、パフォーマンス、サウンド、ビジュアルアートなどの間に横たわる(とされる)境界を問い、その中間域に踏み込んできた彼らの到達点といっていい。人工と自然が相互にかかわる舞台では、笙奏者の宮田、舞踊家の田中など異なる背景をもつ出演者それぞれが、培ってきた世界を存分に生かしながら一期一会の瞬間に身を委ねている。
水に加えて、夢もノンリニアな領域にある。そしてノンリニア性は、本作のテーマである「時間」と深くかかわっている。現代社会が基盤としているリニアな時間を「クロノス」(人間が分節化した直線的な時間)とするなら、『TIME』で志向されているのは「カイロス」(受容側によって伸縮して感じられる時間)、つまりノンリニアな時間といえる(5)。
クロノス的な時間からの逸脱は、自身の死に直面していた坂本にとって切実なものであっただろう。個体としての死、環境破壊や戦争が激化し混迷を深める世界……。自然や夢を介したノンリニアな時間の導入は、自身が世界へと混淆、偏在していこうとする坂本の切実なメッセージとも受け取れる(6)。
しかも本作は、リジッドでリニアな時間の概念やシステムがあることによってこそ可能になっている(7)。『TIME』は、人間が生み出した言語や技術、とりわけ西洋近代以降のシステム(劇場、空間、機材……)を基盤にしながら、そこにノンリニアな世界を開口させる。そのために召喚されるのが水であり、中国や日本由来の夢物語や楽器である。その背後には、地域を超えて古来から人々が紡いできた自然に寄り沿う時間や世界観があるだろう。究極に研ぎ澄まされたリニアな世界にノンリニアをもち込むことで、境界を振動させ続けるプロセス。実はその持続──始めもなく、終わりもないような──こそが、『TIME』における「時間」なのではないか。
光や音においても、そのプロセスは起きている。可視/不可視(光と闇)、可聴/不可聴(音もしくは振動)のグラデーションにおいて。そして思う。時間も空間も、音や光の出現によって初めて生まれるのではないのかと。
より踏み込めば、本作では光より闇(もしくは不可視)、音より沈黙(もしくは不可聴)の領域が、世界の根源と見なされているように思われる。そこでは闇も沈黙も無なのではなく、むしろ光や振動、音を内包する可能態としてあるだろう。水が世界に偏在しながら、時折り物質や現象として知覚されるように。
それは現実と夢で言えば、夢の領域と言える。坂本は、『TIME』を通して観客を夢の世界へと誘った。そこで想起するのが、夢に関心をもっていた南方熊楠(みなかたくまぐす)である。坂本が敬愛した粘菌学者は、粘菌の世界に入り込むなかで自身と彼ら(粘菌)、生と死、現実と夢の間を彷徨った……。いや、むしろ後者(粘菌、死、夢)の世界に生きていて、夢から連続する世界として現実を捉えていたのかもしれない(「胡蝶の夢」にも通じるだろうか)。
最後のシーンでは、笙の音とともに再び宮田が登場し、水の中を歩んだあとに上手へと去っていく。舞台が明るくなり、次第に音が減衰し、沈黙へつながるプロセスが会場全体で共有される。ここで思い至る。音も夢も夢のような公演も、そして時間も、わたしたちの日常へとなだらかにつながっているのではと。
*高谷は、『TIME』と日本初演の前月に公開された個人名のシアターピース『Tangent』(ロームシアター京都、2024)を、「対」になる作品と見なしている(参照:四方幸子『Tangent』公演評)。『TIME』初演準備中の2021年初頭より構想が始まった『Tangent』は、モノクロームでミニマルな設え、ミクロやマクロの時間や空間スケール、音楽でなく音自体の触覚性や物理性を扱い、沈黙に至るまでのグラデーションを見据えるなど、多くの共通点をもつ。
四方幸子|YUKIKO SHIKATA
キュレーター/批評家。美術評論家連盟(AICA JAPAN)会長。多摩美術大学・東京造形大学客員教授。生涯テーマは「人間と非人間のためのエコゾフィーと平和」。「対話と創造の森」アーティスティックディレクター。これまでキヤノン・アートラボ、森美術館、NTTインターコミュニケーション・センター[ICC]などで活動。著書に『エコゾフィック・アート 自然・精神・社会をつなぐアート論』(2023)がある。http://yukikoshikata.com/
(Edit by Erina Anscomb)
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