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SZ Newsletter VOL.233「“​​サステナブルな未来”の脱未来」

「サステナブルな未来」を目指すなら、持続可能性について再定義する必要がありそうだ。アースデイを迎えた今週、SZメンバーに向けたニュースレター。
編集長からSZメンバーへ:「“​​サステナブルな未来”の脱未来」SZ Newsletter VOL.233
WIRED JAPAN

かつてマーシャル・マクルーハンは「宇宙船地球号に乗客はいない。われわれはみな、クルー(乗組員)なのだ」と言っている。いまさら指摘するまでもないことだけれど、「サステナブル」という言葉はいまや当たり前に社会に浸透し、小中高の子どもたちの「SDGs認知度」は95%に上るという調査もある。一方でGoogleTrendsによれば、日本において「SDGs」は2017年に入ってから急激に人口に膾炙するようになり、パンデミック最中の2021年11月にピークを迎え、いまや最盛期の3割ほどにまで検索は落ち込んでいるようだ(ちなみに世界全体でみてもピークは同じ)。これが、「社会の当たり前」になったからなのか、あるいは巷で言われる「サステナ疲れ」によるものなのか、どちらの要因もあるにせよ、「脱未来化」という観点からは示唆深い動向だ。

例えば「サステナ疲れ」として一般の生活者が感じているのは、エコを謳う製品やオーガニック食品、フェアトレード商品などあまりに選択肢が多過ぎて、かえって何を選べばいいのかわからないという困惑であり(これは最新号のファッション特集でも書いたことだ)、そうした商品がえてして高コストとなり(それ自体はフェアであるとしても)負担になるからでもある。だがそれ以上に、2015年にSDGsが設定されてからの約10年を経て決定的になったのは、エコバッグを抱え庭にコンポストをつくりながら「地球にやさしい」ものを食べても、結局のところその効果がまったく見えないという等身大の実感だ。

これは企業にとっても同様で、社内的には独自の目標を掲げてブランディングを強化する一方で、さまざまな規制への対処やレポーティングの準備にリソースがますます割かれ、市場では上記のようにサステナなプロダクトが必ずしも消費者の需要にマッチせず、あるいはサステナ疲れを加速させる一因ともなっている。そもそも、本業とブランディングのミスマッチに目をつむり、まるで罪滅ぼしのようにサステナを謳う企業に対しては、「グリーンウォッシュ」という批判も浴びせられる始末だ。GoogleTrendsのグラフ曲線のように、「サステナブルな未来」は何かを失いつつあるのだ。

そういうわけで、先週のスペイン視察の足でそのまま週末からイタリアに入り、Future Food Institute(FFI)が主催する「Regenerative Food System」を学ぶツアーに参加してきた。FFIは『WIRED』のリジェネラティブ・カンパニー特集でも紹介し、創設者のサラ・ロヴェルシはウェビナーシリーズ「フードイノヴェイションの未来像」にも登場しているので、すっかりおなじみと言えるだろう。FFIのサイトにはその使命として「世界の食糧システムの教育と革新を通じて、地球上の生命を持続的に向上させるために、指数関数的なポジティブな変化を起こすことを目的として」いるとあり、実際のところその活動は深くSDGsと紐づいている。だがここでぼくが注目しているのは、そのサステナブルな目標を「食」というプラットフォームによって再編集していることに加え、「指数関数的なポジティブな変化」という、およそ巷の脱成長サステナ論調からは出てこない言葉を掲げていることだ。

FFIはリビングラボ(生活者との共創と実験の場)として現在イタリアのボローニャとポリカ(ナポリの南に位置する人口2,000人ほどのいわゆる過疎地域だ)、新しく加わったフィレンツェ郊外のモンテパルディ(元メディチ家の居城)、そして東京建物と共に東京の京橋にそれぞれ拠点をもっている。当然ながら、ポリカと東京では人口が5桁違うし、そもそもローカルコニュニティにはそれぞれ固有の文脈があるので、一口にラボと言ってもそのアプローチはすべて異なる。今回はモンテパルディとポリカを訪れたわけだけれど、これを例えば東京で展開するにはどうすればいいのか、という課題を参加者それぞれがもち帰ることとなった。詳しくは本日公開のPodcast「Tokyo Regenerative Food Lab」をぜひお楽しみいただきたい。

というわけで“​​サステナブルな未来”の脱未来について考えてみよう。ある意味でこの問いが簡単なのは、そんなものが歴史上いまだかつて存在したことがないからだとも言えるし(あらゆる社会や文明や環境は持続せずに変化や衰退を繰り返す)、あるいは逆に、いまぼくたちがこの地球上にまだ存在しているということは、これまでずっと未来は持続可能だったのだ、とも言えるからだ。でも人工知能(AI)とのブレストのなかでひっかかったのは、サステナビリティとスタグネーション(停滞)の違いについて指摘されたことだった。確かに、ふだん『WIRED』で「リジェネラティブ」と「サステナブル」の違いを説明するとき、後者には「停滞」のニュアンスが含まれる。翻って、「持続可能性」という言葉にはもっと広いスコープがありそうだ。

例えば地球環境や生物多様性の持続可能性ということで考えれば、人類がすでに失敗しつつあるのは明らかだ。一方で、それが人為的なものであれ自然のサイクルであれ、地球環境の変化や生物種の大幅な入れ替わりは過去何度も起こってきたし、それを乗り越えることが「持続可能性」であるならば、その主語は結局のところ、人間ということになるのだろう(地球が存続することを前提に、ほかの生物種はベストエフォートで存続を試みるとしても)。

かつ、人間の持続可能性といっても、そこには多様な選択肢がある。つまり、脱成長論のように、人類がある種の後退を受け入れるべきだという考えもあれば、いまの文明レベルを維持することを持続可能性の前提にしている人々もいる(案外、マジョリティはここではないだろうか)。でも、後退どころか現状維持という考え方でさえ、研究者が「歴史の終わりという錯覚(end of history illusion)」と呼ぶような、「いまの文明レベルはすでに到達点に達しているのだからこれ以上の進展は必要ない」と考える現役世代の一種の奢りでしかない(そしてこの錯覚は歴史上、何度も繰り返されてきた)。一方で、持続可能性とは「現状維持」ではなく「指数関数的なポジティブな変化」だと捉える考え方もある(そう、FFIのように)。そう考えるのは、はたして加速主義的だろうか?

別の視点からも考えてみよう。「持続可能な未来」の定義のひとつとしてよく挙げられるのが、「将来世代の選択肢を奪わない」というものだ。将来世代にわたしたちのツケを払わせない、と言い換えられる。こちらも、今後不可避的に続く平均気温や海面の上昇から年金制度の破綻まで、わたしたちがすでに失敗しつつあることは明らかだろう。だから「将来世代の選択肢」とは、いまわたしたちが手にしている選択肢と同じものではないはずだ。さらに悪化する未来に立ち向かうためには、選択肢をさらに増やすことこそが、「選択肢を奪わない」ことを意味するからだ。つまりここでも、持続可能な未来とは現状維持ではなく「指数関数的なポジティブな変化」となるだろう。

翻って、いま「サステナブル」や「SDGs」を語るときに、それが科学や技術から人々の意識や世界認識、文明レベルまで、あらゆる面でイノベーションを起こし更新していくことである、という含意をどれだけの人が共有しているだろうか? もし、社会においてそうしたコンセンサスがないのなら、「サステナブルな未来」は一度、脱未来化されなければならない。サステナブルとは、いつまでも同じ状態が持続していくことを意味するわけではない。GoogleTrendsで「SDGs」のグラフを見てみれば、そのことが見て取れるはずだ。

『WIRED』日本版編集長
松島倫明

※SZ NEWSLETTERのバックナンバーはこちら(VOL.229以前はこちら)。


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