映画『オッペンハイマー』では描かれないもうひとつの闇の歴史、黒人鉱夫たち

映画『オッペンハイマー』には原爆投下のシーンが描かれていないことが日本で話題となったが、同じく描かれなかった悲劇がある。広島の原爆に使用されたウランの供給源となったシンコロブエ鉱山の労働者たちだ。
映画『オッペンハイマー』では描かれないもうひとつの闇の歴史、黒人鉱夫たち
PHOTOGRAPH: AP/AFLO

わたしの父が昔、世界初の核爆弾を実現させたウランの話をしてくれたことがあった。広島に投下され、2023年夏に欧米で公開された劇的な映画『オッペンハイマー』で製造される様子が描かれる、あの原子爆弾だ。父は、ベルギー領コンゴで生まれた。

23年夏の初め、わたしはこの超大作の試写会に招待された。そこには監督のクリストファー・ノーランの姿もあった。科学者たちの研究が少しずつ前進していることを象徴するように、オッペンハイマーが空のガラスのボウルにビー玉を入れていくシーンが何度も繰り返される。最初はひとつずつ、そして次第に、ひと掴みずつ。ビー玉は、核反応を起こすために採掘され製錬に成功したウランの量を表現している。第二次世界大戦の行く末、そして人類の未来は、このモンスターを誰が先に生み出せるかにかかっていた──枢軸国か、それとも連合国か。

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爆弾の完成が近づくにつれ、ボウルに入れられるビー玉の数も増していく。しかし、そのウランの3分の2がどこから来ているのかは、この映画では触れられていない。現在のコンゴ民主共和国南東部に位置し、鉱物資源が豊富な地域として知られた旧カタンガ州の、地下24階に相当する深さの鉱山がその採掘地である。

わたしは、ガラスのボウルがビー玉で着々といっぱいになっていく様子をスクリーンで見ながら、ここには欠けているものがあると感じずにはいられなかった。黒人鉱夫たちだ。鉱山の土や石を運び出し、放射性鉱石の山を素手で選別していた彼らの姿が描かれていない。

ウランで埋め尽くされた鉱山

わたしの父が生まれたのは1946年、ベルギーからのキリスト教宣教師たちの活動拠点であったミッション・ンギで育った。ベルギー人がコンゴ人に神を崇拝せよと教え、コンゴ人の大人たちを「vous(あなたがた)」ではなく「tu(おまえたち)」と呼び、父が家でしていたような手で食べる行為を野蛮人のすることだと説いたという幼少期の体験を、よくわたしたちに話していた。父は学校で、コンゴは後進国であり、コンゴ人は現代社会の従属的な存在であると学んだ。わたしもそうだった。それでも父は、コンゴ人こそ現代史のなかで最も重要な意味をもつ創造物の「シネ・クア・ノン」──必要不可欠な要素──だったと言う。

1885年、ベルギー国王レオポルド2世は、アフリカ大陸の真ん中に位置し世界一深い川の流域に広がる広大な土地の所有権を主張し、その地をコンゴ自由国と呼んだ。綿花とゴムの木の一大プランテーションと化した領土全域で、国王の兵士たちは収穫のノルマが果たせないコンゴ人の手首を切り落として回った。レオポルド2世の統治は飢饉と疫病をもたらし、何百万という人が命を落とした。

1908年、ベルギー政府が国王から領土を没収し、「コンゴ自由国」は「ベルギー領コンゴ」となる。『Spies in the Congo』の著者で歴史家のスーザン・ウィリアムズは、この時点でコンゴの天然資源を搾取する主が国王から民間企業に代わったと書いている。暴力が止むことはなかった。それどころか、ベルギー政府はキリスト教宣教師らが子どもたちに正式な教育を開始することを認めておきながら、知恵をつけたコンゴ人が植民地を奪い返そうとするのではないかと恐れた。父の話では、コンゴのほとんどの子どもたちにとって、教育は小学5年生までしか認められていなかったという。

ただし植民地での例外のひとつとして、聖職者を目指すものは6年生以降も学校へ通うことを許された。父はその道を選び、兄や姉たちでさえ受けられなかった教育の機会を得て、彼の父親を喜ばせたのだった。

この地の植民地体制は、労働者、いやむしろ奴隷同然の人々をつくり上げ、学者を生むことはなかった。ベルギー領コンゴを訪れた米国人将校は、初日にこんな光景を目にしたという。ボロボロの短パン姿で地面に両膝をつくコンゴ人男性と、手にチコテ(先端に金属が付いた革製の鞭)を握りそびえ立つベルギー人将校。「鞭が空を切り……悲痛な叫び声が上がる……。男性の背中は首から腰にかけて血にまみれ、白い肋骨が見えていた」。この米国人によれば、鞭打ちはベルギー人からタバコ1箱を盗んだ罰だった。「コンゴへようこそ」。彼はそう迎えられたという。

ベルギー領コンゴ最大の企業は、鉱山会社ユニオン・ミニエール・デュ・オー・カタンガだった。植民地政府は、ベルギーの国土の半分以上にあたる約8,000平方マイル(約2万平方km)の土地の権利を同社に与えていた。そのなかに含まれていた鉱山のひとつ、シンコロブエでは、ウランが豊富に採れた。事実、コンゴ人がすでに掘り出し地上に放置していたウランで埋め尽くされていた。

当初ウランは、より貴重な鉱石を採掘した際の副産物に過ぎなかった。この鉱石というのが、ノーベル賞を受賞したマリー・キュリーによって発見され、がん治療に効果があることが判明したラジウムである。1938年、物理学者のリーゼ・マイトナーとオットー・フリッシュは、ウランを使って核分裂を定義する計算を導き出した。科学者たちは、十分な量の原子核が分裂すれば大量のエネルギーが放出されることに気づいたのである。ウランはいまや、垂涎の的となった。

24時間体制の採掘

第二次世界大戦が始まる直前の1939年、アルベルト・アインシュタインは米大統領フランクリン・D・ルーズベルトに信書を送り、控えめにこう警告している。「ウランという元素は、近い将来、まったく新しい、重要なエネルギー資源となるでしょう……。これを利用すれば、かつてないほど強力な爆弾をつくれるかもしれません」。手紙には、ウラン供給源として4つの国が挙げられていた。米国には「非常に純度は低いが一定量のウラン鉱石がある」。カナダと旧チェコスロヴァキアには「良質なものが少し」。そしてコンゴは──「最も重要なウラン源」である、と。

マサチューセッツ工科大学のコンゴ人核物理学者ジャン・ベレによれば、100kgのコンゴ産ウラン鉱石から、およそ1kgのウラン精鉱(製錬済みウラン)が採取できたという。ほかの場所で採掘した同量の鉱石からは、原爆の製造に必要なウラン精鉱は2~3gしか採れない[編註:シンコロブエ鉱山のウランは世界でも最高純度といわれた。そのためコンゴ産鉱石から精製される濃縮ウランの量はほかの産地のものとは比べ物にならないほど多かった]。

ユニオン・ミニエールは、労働者とその家族を住まわせるために、まるで捕虜収容所のような柵で囲まれた住居施設を建てていた。同社は当初、各家族に43平方フィート(約4.46平方m)の小屋(小さな車庫ほどの広さ)と、週1回の配給食料を与えている。鉱夫たちは、手作業でウラン鉱石を選別していた。ある鉱夫は、シンコロブエで採れるウラン鉱石を「豚ほどの大きさ」の塊だったと表現した。「黒と金色に光っていて、緑色の藻か苔に覆われているようだった」という。彼はそれを「麗美な石」と呼んだ。

ユニオン・ミニエールの取締役だったエドガー・サンジエは、口髭を短く切り揃えた色白のベルギー人だった。第一次世界大戦でドイツがベルギーに侵攻するのを目の当たりにしていたサンジエは、39年9月に起きたヒトラーによるポーランド侵攻が何を予言するのか確信がもてずにいた。次はベルギー、あるいはアフリカの植民地だろうか? 同年10月、サンジエはベルギーからニューヨークに逃れ、鉱山会社の事業をニューヨークに移した。

しかしながら、彼が現地に拠点を構える前に、英国の化学者でノーベル賞を受賞したフレデリック・ジョリオ=キュリー(マリー・キュリーの義理の息子)が、コンゴのウランがこの戦争に欠かせないものになるかもしれないとサンジエに密かに告げた。翌年の秋、サンジエはウランをニューヨークに輸送するよう命じた。

それを受け、コンゴ人労働者が鉱石を運び積み込みをした。鉱石はまず、列車でポールフランキ(現イレボ)に送られ、その後船でカサイ川とコンゴ川を下り、首都レオポルドヴィル(現キンシャサ)へと向かう。ウランはマタディ港から大西洋横断をスタートし、ドイツ軍のUボートの間をすり抜けて、ニューヨーク湾に浮かぶスタテンアイランドの倉庫へと運び込まれた。サンジエは、260万ポンド(約1,180トン)を超える鉱石を米国に保管したと言われている。約660万ポンド(約3,000トン)はシンコロブエに残していた。

40年5月、ヒトラーがフランスとベルギーを攻略。ベルギー政府はロンドンに亡命し、第三帝国はベルギーに親ナチス政権を樹立した。しかし、ベルギー領コンゴの総督は、連合国の支援を宣言する。軍隊を徴兵し、コンゴ人労働者を提供し、連合国に軍需物資を供給するための生産ノルマをコンゴ人に課したのである。その結果、大戦中、多くの人たちが両親や祖父母の手首が切り落とされた森に戻ることを強いられ、今度は何十万本もの軍用タイヤをつくるために天然ゴムの製造を命じられた。戦争が激化するにつれ、コンゴ人鉱夫たちは24時間体制で銅などの鉱物も採掘していた。

サンジエの会社が所有する鉱山町でも、ほかの地域と同様に、コンゴ人は許可なしに自由に移動することはできなかった。もちろん、投票も許されていない。労働者は夜9時までに帰宅しなければ、厳しい制裁が待っている。賃金も酷いものだった。しかし、「原住民」は労働組合から除外されていたにもかかわらず、41年までにユニオン・ミニエールのいくつかの鉱山で、賃上げと労働条件の改善を求める黒人労働者たちの組織が立ち上がっていた。

41年12月7日、真珠湾攻撃が勃発。戦争の行方だけでなく、コンゴの鉱山労働者たちの人生においても極めて重要な日となった。この日、黒人鉱夫たちは、カタンガ全域で大規模なストライキを行なったのである。エリザベスヴィルの鉱山では、500人が出勤を拒否した。ほどなくして夜勤明けの鉱夫たちも加わり、鉱山の監督事務所の前に集結すると賃上げを要求した。彼らはこのとき、翌日に交渉に応じるという合意を取り付けている。

翌朝、鉱夫たちはサンジエの会社とカタンガ植民地総督と交渉するため、地元のサッカー場に集まった。資料によってかなり数字に差があるが、その数800〜2,000人といわれている。ユニオン・ミニエールは、賃上げに口頭で合意した。ある歴史家はこれを「コンゴ社会史上初となる公然の抗議表明」と表現している。しかし、レオナール・ムポイというコンゴ人労働者が賃金引き上げを書面で確約するよう要求すると、総督は群衆に家に帰るよう命じたのだった。

「断る」。ムポイが声を上げた。「会社が賃金を上げることに同意したという証拠を見せてくれ」

すると、総督アムール・マロンは「オフィスへ行って確認すればいいと言ったはずだ」と答えるや否や、ポケットから銃を取り出し、目の前のムポイに向かって引き金を引いた。兵士たちが「四方八方」から発砲を始め、逃げ惑う鉱夫たちがサッカー場からなだれ出た。約70人が命を落とし、負傷者は100人近くに及んだ。

翌朝、会社の連絡用スピーカーから、全員仕事に戻るようにとの命令の声が響いた。

投下

真珠湾攻撃から約1年後、ルーズベルト大統領はレズリー・グローヴス大佐をマンハッタン計画の最高責任者に任命した。グローヴスは、42年9月の就任初日から、側近のケネス・ニコルズ中佐とこの巨大プロジェクトに必要なウランの調達方法について話し合っている。ニコルズはグローヴスに、サンジエと彼のウランのことを話した。翌朝、ニコルズはニューヨークのオフィスでサンジエと会い、会談が終わるころには黄色いメモ用紙に即席の契約書を交わしていた。「明日からウランの搬送を始めたい」と、はやるニコルズ。それから1カ月も経たないうちに、グローヴスはJ・ロバート・オッペンハイマーを雇い入れ、原爆の製造を開始させた。

その後の数年間、コンゴは米国スパイの温床と化していた。彼らは「領事館職員」「Texacoの従業員」「シルクの買付け業者」「ゴリラを生け捕りしようとする野生動物収集家」などを装い、ウラン資源の確保に努めたのだ。グローヴス大佐は、米国がシンコロブエを完全に支配下に置くべきだと主張し、ルーズベルト大統領に鉱山の再開を進言した。それを受けて米陸軍工兵隊がコンゴへ派遣され、新たに鉱山の運営を担うことになった。鉱山の位置は地図から抹消された。スパイたちは「ウラン」という言葉を使う代わりに「ダイアモンド」などと呼ぶよう指示されたという。

鉱夫たちは、軍事に必要なほかの鉱物の採掘も開始し、日中は坑道の中で汗だくになり、夜間は燃え盛る炉の周りで、輸送用の列車や米軍機の轟音が響くなか身を粉にして働いた。そのころには、例の鉱山ストライキのおかげもあって、労働者の給料は30〜50%ほど上がっていた。それでも、強制的に鉱山労働をさせられる人たちもいた。38年から44年にかけて、ユニオン・ミニエール社の鉱山での死亡事故はほぼ2倍に増えている。天然ゴムの生産ノルマから逃れるため、農村部から多くの人がエリザベスヴィルなどの都市部に流れ込み、40年に26,000人ほどだった都市部のアフリカ系人口は45年には65,000人に膨れ上がっていた。

米政府はナチスのスパイについても危惧していた。ある米国人スパイには、ナチスがシンコロブエのウランを密輸していないか調査する任務が与えられた。何隻もあるユニオン・ミニエールの鉱石輸送船のうち1隻は、ナチスの妨害を受け撃沈されている。

米国に到着した「麗美な石」は、テネシー州オークリッジで製錬されてから、ニューメキシコ州ロスアラモスにいるオッペンハイマーのもとへ送られた。オッペンハイマーと彼のチームが核爆弾を開発するまでに、3年近くかかっている。45年にドイツ軍が降伏しても(そしてドイツの原爆開発は完成にはほど遠いことが判明したあとでも)、太平洋戦争は依然として激化の一途を辿っていた。そしてとうとう、45年8月、米国は広島と長崎にふたつの原子爆弾を投下する。父が話していたように、1発目に詰め込まれたのはコンゴ産ウランだった。2発目にはプルトニウムが使われたが、これもコンゴで採掘されたウランからつくられた元素である。

コンゴ出身の核物理学者ジャン・ベレによれば、シンコロブエ鉱山付近の地中には、いまも放射性同位体が眠っているという。「放射性固体廃棄物は、水や作物、樹木、土壌、動物の体内に入り込み、やがて人間にも到達します」とベレは言う。放射能の影響がどこまで拡がるのかは誰にもわからない。しかし、オークリッジでがんによる死亡率が増加していることは明らかになっている。そして、ウラン精製後に残ったコンゴ産鉱石の廃棄物が放置されているミズーリ州セントルイス近郊では、今後1,000年は汚染による労働者への健康リスクが消えることはない。

「自然界の異常事態」

『オッペンハイマー』の上映後、わたしはミーハーな映画ファンのごとく、映画館のロビーでノーラン監督に近づき声をかけた。そして、あのビー玉のシーンについて尋ねることができた。彼がなぜ表現にビー玉を選んだのか、またビー玉を使うことでどんな創造的課題を解決できたのかについて、訊いてみたかったのだ。監督は、渋々ではあったものの上品に会釈したあと、わたしの質問に答えてくれた。「あれだけのウラン鉱石を製錬するのにどれほどの時間がかかったのか、それを表現するいい方法を模索していました」と言い、「使われたビー玉は、実際の原爆に必要としたウラン量を表すために、数学的に算出した正確な数なのです」と付け加えた。

もちろん、コンゴの存在がなければ、あれだけの量のウランを手に入れることは不可能だった。核爆弾の開発競争を繰り広げていた米国とドイツにとって、コンゴの鉱石を何としても手に入れたいのはどちらも同じだった。シンコロブエ鉱山の出現は「自然界の異常事態」だったと、ニコルズ大佐は話していたという。「あのような鉱脈は、これまでにひとつとして見つかっていない」。つまりそれは、コンゴの黒人労働者たちが暴力で服従させられ鞭打たれながら1日24時間、戦争に必須の鉱物を掘り続けていなかったなら、人類史上最も重大なプロジェクトの結末は大きく変わっていたであろうことを意味する。

46年、サンジエは、連合国の勝利を決定づけた「特別に称賛に値する功績、または勇気ある行為」を表して、米国人以外では初めて合衆国功労賞を授与された。式典の写真に写るサンジエに、別の顔を見て取れやしないだろうか。何かを隠している男の顔だ。戦時中の諜報機関は、サンジエの会社が約150万ポンド(約680トン)のコンゴ産ウランを、ナチス・ドイツにも売却していたことを明らかにしている。48年、サンジエに敬意を表し、ある放射性鉱物が「sengierite(センギーライト)」と名付けられた。

同じ頃、わたしのルーツであるコンゴの人々は、自分たちの権限を奪い、力を削ぐために敷かれた植民地体制の転覆に立ち上がり、60年にようやく独立を勝ち取ったのだった。そのとき父は13歳。ウラン鉱夫たちのことを知ったのはそれから何年も経ってからだったが、父はコンゴ人が歴史上重要な存在であることを常に知っていたのだ。

(Originally published on wired.com, translated by Tomoyo Yanagawa/LIBER, edited by Michiaki Matsushima)


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