「レガシーマーケットイノベーション」なるコンセプトを掲げる企業グループをご存じだろうか。その名はLMIグループ。群馬県に拠点を置く「看板工事会社」にルーツをもつグループだ。

本記事の主目的は「ドラミートウキョウ」というデザイン会社の活動理念に迫ることにあるが、そのためにはまず、親会社であるLMIグループの成り立ちと、その重要なタグラインであるレガシーマーケットイノベーションについて軽く整理しておく必要がある(ドラミートウキョウの話に移る前に、あと543字ほどお付き合いただきたい)。

レガシーマーケットイノベーションというコンセプトの誕生は、MA(マーケットオートメーション)やCRM(カスタマー・リレーションシップ・マネージメント/顧客関係管理)といった考え方の普及に伴い、セールスフォースなどが業績を伸ばしていた2012年、大手ヴェンチャーキャピタルのプライヴェートエクイティ部門で辣腕をふるっていた永井俊輔が「家業の看板屋」(=クレスト)の2代目社長に就任したことに端を発する。

永井は、MAやCRMの潮流を的確に捉え、テクノロジーを活用した経営改革に成功、売上規模の拡大と利益率の改善の両方を成し遂げ、看板屋のDXを成し遂げた。

そのノウハウを活かし、「泥臭くかっこ悪いとされるが、“ダイヤの原石”をもつ中小企業を買収し、テクノロジーを活用した生産性向上と付加価値の高い事業変革を実現する」一連のナレッジを整理した概念が、レガシーマーケットイノベーションだ。

このレガシーマーケットイノベーションを推し進めるにあたって、看板・ディスプレイ・リアル店舗広告やリテールテック事業を手がけるクレストを旗頭に、小売事業、木材卸事業、デザイン事業をそれぞれ手がける3つの企業をグループに加えることで誕生したのがLMIグループであり、その「デザイン事業」を担っているのがドラミートウキョウというわけだ。

ドラミートウキョウは、現在グループのなかで売上規模は最も小さいが、大きな役割を果たしているという。曰く、「クリエイティヴの力によってビジネスの最上流に陣取っているから」だそうだ。いったい、どういうことだろうか。ドラミートウキョウの代表を務める真榮城(まえしろ)徳尚に、じっくりひもといてもらった。

規模と影響力は反比例

──デザイン会社であるドラミートウキョウは、LMIグループのなかでどういう位置づけなのでしょうか? 「グループ最小規模ながら大きな影響力がある」というのがどういうことなのか、まずは教えていただけますか?

真榮城 2014年の創業以来、ショーウィンドウや店内ディスプレイをデザインする会社として活動をおこなっていましたが、20年にプロデュース部門を立ち上げたことで、必ずしもディスプレイや施工に結びつかない「デザインを使った課題解決」をおこなえる組織になりました。

真榮城徳尚 | NORITAKA MAESHIRO
1981年沖縄県生まれ。上海同済大学大学院卒(建築・都市計画学、修士)、一級建築士事務所アトリエ・天工人、コンテンポラリープランニングセンター、UDSを経て2020年ドラミートウキョウ入社。入社8カ月で代表取締役に就任、就任以降はディスプレイデザイン分野に加え業態開発、不動産企画を主軸としたプロデュース部門を立ち上げ、事業の企画構想から建築、内装、ディスプレイデザインまで、空間を用いた新業態の開発を一気通貫で行う体制づくりをおこなう。以降、エンドユーザーに近い商業的空間体験を起点に、事業構造の検討からその街における存在意義の構築までを戦略的に繋げる企画、デザインを数多く手がける。22年より渋谷区神南にてクリエイター向けコワーキングスペース “COWORKING SALON SLOTH(スロス) JINNAN” を開発および運営(しんかとの共同)。

LMIグループは現在、リテールや建設、つまりは建物をつくったり商業をどう見せていくか……といったことを主に手がけている組織ですが、クライアントとともに「問い」を見いだし、それを解決するためのコンセプトを描くドラミートウキョウがいることで、グループ内のシナジーがより活性化するんです。

具体的に言うと、LMIグループのなかで内装施工も含めてモノは全部つくれてしまうし、デジタル系のコンテンツもつくれるし、リテールテックによって取得したデータを用いて「店舗ごとの人流」や「催事が当たったかどうか」等を検証する部隊もいるし……といった具合に、ポートフォリオの軸を商業に据えることでグループ全体のシナジーを余すことなく生かせるわけですが、その発端というかフロントランナーの役割を果たしているのが、クライアントと一緒にコンセプトを考えていくドラミートウキョウなんです。

──ドラミートウキョウが先陣を切り、その後、グループのシナジーが活かされた事例について、お話いただける範囲で教えていただけますか?

真榮城 現在われわれは、とある商業施設のリブランディングに関しての検討をおこなっています。その施設はコロナ禍以前、中国人の爆買いで収支が成り立っていました。つまり「中国人が見てわかるブランドが入っていれば、収支的にOK」という極めてマーケットインの発想で店子をセレクトしていたんです。それが一転、コロナ禍によってインバウンドが消滅してしまうわけですが、そこでようやく、「インバウンド需要への最適化を極めたそのありようは、街を訪れたり、その街で暮らしている広義の『地域住民』にはまったく刺さっていない」という事実に気がつくわけです。「どうしましょう?」ということで、ドラミートウキョウにお声がかかりました。

「そのエリアにある」という価値や役割を、どう表現すればいいのか。その答えのひとつとして、より社会性を帯びた「館」になることが考えられますが、彼らはどうしたらいいのかわからないし、たとえアイデアがいくつか閃いたとしても、それを実行できるリソースがあるわけでもない。

逆にドラミートウキョウとしても、街とか建物をどうつくっていくか、ということに本格的に挑んでいくはじめてのケースになるということで、「一緒にリスクを取ってやっていきませんか」という提案をしました。

──ドラミートウキョウの行動倫理の背景には、真榮城さんのどのような経歴が関係しているのでしょうか?

真榮城 ドラミートウキョウに来る以前、ぼくはアトリエ系の建築設計事務所や都市計画全般をおこなう会社にいたのですが、そのときに学んだのは、「お客さんが求めるものをつくってみたらダサくなった。だったら自分が『こうしたほうがいい』というアイデアを通し、実際につくり、それを通じて社会にとって価値のある状態を達成する」ということなんです。

言うなれば、エゴと社会性の往還というか。「エゴを追求したほうがカッコイイものができるじゃん」って思いながらも、「いや、それって社会的に見たらどうなんだろう」という視座を、それこそ右脳と左脳の往還を通じて深掘っていく。「自分のエゴが表出したモノを実際につくるためには、社会にとっての意義をメチャクチャ考えなければいけなくなった……」といった経験の積み重ねによって醸成された価値基準が、いまのドラミートウキョウの行動倫理になっている気がします。

デザインとの出会い

──「エゴと社会性の往還」という視座を獲得するに至った経緯について、教えていただけますか?

真榮城 それを説明するには高校時代まで遡らないといけないので少々長くなりますが……。

──適宜端折って、読者のみなさんには2000字ほどでお届けします。

真榮城 それでは遠慮なく。ぼくは沖縄出身なのですが、父親が地元放送局に務めていたこともあり、子ども時代は東京で暮らしたり沖縄に戻ってきたりしていました。末っ子だったこともあって、いまから思うと非常に大事に育てられたのですが、中学時代は見事にグレました、かっこ悪いことに中途半端に(笑)。そこから何とか復活し、進学校に進むことができたのですが、またしても全然勉強しなくて……。親もさすがにヤバいと思ったのか「留学する?」って提案してきたので、「するする!」って飛びついたんです。

いろいろな選択肢があったなかで、結局ドイツを選びました。当時はサッカーをやっていたので、「ポンドは高いし、おフランスって感じでもないから」程度の理由だったのですが、父親が行動における理由を大切にする人間だったのでその父親を説得するにあたって「ワイマール憲法が……」とか「同じ敗戦国として、近隣諸国から尊敬される国になったのはなぜかを見に行くんだ」といった理由を、後付けですがキチンと考えたんです。その理由付けがあったことで、「これから先の世の中、いったいどうなるんだろう」といったことを、17歳ながらドイツの田舎でメッチャ一生懸命考えました。

留学から戻ってきたものの、勉強ができないことには変わりがないので、「どうやったらメンツが立つか」を必死で考え、芸術系の私立大学へ行く選択をしました。今度は親父に対して、「デザインとは何か」みたいなことをキチンと説明し、納得してもらう必要が出てきたんです。

実は、ドイツで衝撃を受けたことがいくつかあったんです。そのひとつがファッション。こいつら全然ファッションのことわかっていないのに、なぜかオレよりカッコいいということに衝撃を受けたんです。こっちは、セレクトショップがどんなことをやっているかとか、雑誌のストリートスナップを穴が開くほど見て研究しているのに、リーバイスにタックインTシャツのほうがカッコいいのはなぜなのかって。

もちろん、街が非常にキレイで、モノはどれもカッコよく、みんなが彩りをもって生活している……という「背景」はあるのですが、そこから自分なりに考えたのは、「あるプロダクト自体のカッコよさもさることながら、それを持ったり身にまとったりすることで『その人をめっちゃカッコよく見せる』ことができているのだとしたら、デザインというのは圧倒的なスキルだな」ということでした。

なので父親には、「デザインというのは人を輝かせるための技術でありスキル。これからの社会に必要なのは、どこの組織に属していても生き抜けるスキルであり、自分の場合はデザインを習得することでそれを身につけたい」と話し、納得してもらいました。

大学ではプロダクトデザインから手を付け始め、次第にインテリアデザインや建築を手がけ、都市計画で論文を書いたことがきっかけになり、上海同済大学大学院の都市計画学科に進みました。

卒業後はそのまま中国で生活する選択肢もあったのですが、ものづくりをキチンとやりたいと思い、東京に戻って狭小住宅を得意とするアトリエ系の設計事務所(アトリエ・天工人)に入りました。

この事務所には2つのプロジェクトがありました。ひとつは、自分たちの事務所としてのプロジェクトです。海外の建築雑誌にも取り上げられることがあるので、力のある所員が担当していました。

もうひとつはお客さんのためのプロジェクトと割り切っているもの──具体的にはProject1000という『建築家と一緒にどうやって安価に家を建てるか』を追求したプロジェクトで、ぼくはこちらを担当していました。お客さんと仲よくなれるし楽しかったのですが、一所懸命に図面を引いて、コストをコントロールしながらお客さまの要望に寄り添ってやっていくと、時々建物がちょっとダサくなっていくんです。

「自分も事務所としてのプロジェクトをやってみたいけど、こっちの楽しさも失いたくない」

そんなジレンマに陥っていたときに、CPCenterの代表を務める杉浦幸さんの本を読んで、プロデュースという概念に出会ったんです。施主と設計というのは、クライアントとデザイナーの関係だと思っていたけれど、どうも世の中には、クライアントのためにクライアントが何をつくるべきかを考える、プロデュースという職業があるのだと。それだったらかっこよさの追求とお客さまのためを両立したものづくりができるんじゃないかと思い、CPCenterへの転職を決めました。

それまで、建築といったらぼくのなかでは戸建て住宅だったものが、そのゴールポストを商業にずらすことで、自分がやりたかったことのスタディができることに気がついたんです。「自分が直接全部を描く」のではなく、「自分がつくりたいものを、クライアントを導くことでつくりあげる」道があるのだと。

実際、非常に学びがありました。住宅だと「施主がこう言った」から始まっていたのに対し、商業の場合、クライアントの収益性を追求していくと、結局はクライアントの先にいるエンドユーザーが何を望むのか、つまりは社会性について考えていかなければなりません。

とどのつまり、自分がつくりたいものをつくるには、社会にとって価値があるものとは何かという視点で考え続け、やるべき項目を見つけ、見積もりを出し、収支の見通しを立て、お客さんをグリップするところまでをやる必要があったわけです。

4年ほどCPCenterでプロデュースやディレクションに携わり、その後、やはり住宅や街づくりをやってみたいということで、CLASKAやMUJI HOTELを手がけたことでも知られるUDSという建築設計・コンサルティング・店舗運営等々を手がける会社に移りました。5年ほど好きにやらせていただき、そろそろ独立しようかと思っていたタイミングで偶然お声がけをいただき、2020年、ドラミートウキョウの雇われ社長になった……といった感じです。

──「お客さんが求めているものをつくったらダサくなった……。『だったら、こうしたほうがいいんじゃないか』という主張を通すにあたって、お客さんの社会的価値を考えていくことでコンセンサスを得ていく」。聞いている限り、やっていることは一貫しているという印象ですね。ちなみにドラミートウキョウの社長には、どういう経緯で就任したのでしょうか?

真榮城 おそらくですが、キチンと予実の管理ができる人なら誰でもよかったのかもしれません(笑)。まず転職エージェントから、とある人に「社長をやってくれないか」と連絡が行きました。その人とぼくは以前から知り合いで、「デザイナーを動かせるのはデザイン系の人間だけだから」ということで話を回してくれたんです。「デザイン会社の社長やらない?」という、いかにも怪しいメールだったのですが(笑)、ちょうど独立を考えていたころだったし、騙されたところで何を失うんだろうかと考えてみたところ、「何も失わないな」という結論に至り、挑戦してみることにしました。

恐るべき若者たち

──社長に就任して2年ほど経ったわけですが、社長として新たに学んだこと、これから挑んでみたいことがあれば教えてください。

真榮城 ドラミートウキョウに加わるにあたって、それまで中心的な役割を担ってきた30代前半の女性たちと話をしたのですが、そのとき新鮮な驚きを感じました。

少なくとも彼女たちと比較して、手がけてきた案件数や切り抜けてきた修羅場の数では負けないと思っていたのですが、彼女たちは「内装や建築をやってきたのかもしれないけれど、ディスプレイはわからないでしょ?」といったテンションで、自信がみなぎっていたんです。40歳を前に社長を前提に転職するってことなのに、部下となるスタッフから「あんたわからないでしょ?」って思われる恐さといったら、それはもうハンパないですよ(笑)。

だけど、すごく対等な感じがしたし、改めてディスプレイってすごいなと思ったんです。「商業だけの目線、あるいはお客さんを喜ばせる目線でいったら、建築はどうでもいい可能性すらある」ということを、建築が大好きで、その周辺で15年ほど活動してきた自分は突きつけられたわけです。彼女たちと一緒に仕事をすることで学べることがたくさんあるし、一方で自分の知見を加えたら彼女たちにも新しい経験をさせてあげられるということに、非常に魅力を感じました。

デザインという領域において、建築や都市計画というのは、パブリックなものとして偉そうな顔ができるじゃないですか(笑)。一方でアパレル業のショーウィンドウのデザインだったりすると、「好きな世界を探求してるな」という印象をもたれやすいと思います。立場によって目線は違うかもしれませんが、何かしら、見えざるヒエラルキーみたいなものはあるのは事実です(まあ、固執するのは男性だけかもしれませんが)。その点、ディスプレイのデザインや看板というのは、ヒエラルキーの中では下に見られているというか、そもそもパブリックデザインという観点からは意識が向いていない可能性すらある領域です。

でも彼女たちと接するなかで、「デザインの話をしているのに、肩書きだけの勝負になってしまうのは確かにおかしい」と、自分への戒めも含めて痛感したんです。とどのつまりそれを見て楽しいと思うか、かっこいいと思うか、でしかないと。そして、都市計画から建築からインテリアから事業収支まで、上流下流を問わずおしなべてやってきた自分にできることといえば、ディスプレイデザインという職能の立ち位置を逆転させることなんじゃないかということに思いが至りました。

エゴと社会性の往還

──いわばデザイン界における下剋上を成し遂げていくために、ドラミートウキョウが大事にしている価値観やメソッドがあるとすれば、それは何でしょうか?

真榮城 最初の話に戻るのですが、やはり「エゴと社会性の往還」だと思います。多くの場合、クライアントワークというと「答えが向こうにある」ことを前提に仕事をするわけですが、ドラミートウキョウの場合、「この答えが正しいかどうかわからないけど、おそらくこれが答えなんじゃないか」というものを出し、それをすり合わせていくスタイルを取ることが多い。そのときの「これが答えなんじゃない?」こそが、エゴにほかなりません。

「こういう地位にいる会社は、これくらいの社会的責任を果たさなきゃダメだから、これくらいのことをやってないとダメでしょ」ということを考えたり。先にエゴベースで「こっちだよね」と思ってから、それをクライアントのリソースを使って実現していく。その流れをつくり、グループのシナジーを駆使して実装していくのがドラミートウキョウの特異性なのだと思います。

例えばここ(写真)も、わたしたちが開発し運営に関わっているコワーキングスペース(“COWORKING SALON SLOTH JINNAN”)です。アパレル店舗の居抜き空間を生かして、街に貢献したいという建物オーナーの要求に対しても、まず自分たちのエゴとして自分たちなりのクリエイティヴなかっこよさの追求をおこない、その上でオーナーの求める意義と事業性をすり合わせることで出来上がっている空間です。

とにかくカッコいいモノをつくるという「エゴ/感性」の部分と、そこに社会とのつながりをもたせていく「事業性」の部分。グループでいうと、ドラミートウキョウが練り上げたコンセプトを施工していくことはもちろん、リテールテックによって感性の部分をデータ化できるので、収支や催事の評価といった小売店の運営支援みたいなことまでが一体となってできる。ドラミートウキョウが普通のデザイン会社と何が違うかというと、そういう大がかりなところまでやれる点だと思います。

おもしろくないですか?ディスプレイデザインをやっているデザイン会社が街を活性化していくんですよ。官公庁?黙っててちょうだいと。建築家?あなたたちおしゃれじゃないよね。インテリアデザイン?あなたたち仕組みつくれないでしょ……と言いたいところです。

それに対し、これまでは下流も下流にいたディスプレイデザインの会社が、「仕組みもつくれるしDXもできるから、こっちに任せてくれたら素敵な街が仕上がりますよ」と名乗りを上げたわけです。こっちにbetしてくれたら、おもしろい暮らしが待っていますよと。

アーキテクトという言葉が総合芸術を意味するならば、いまアーキテクトといったら「建築家」ではなく「ぼくら」でしょと言いたい。それが大言壮語ではないことを、これから数年かけて証明していくのが、ドラミートウキョウの社長としてのぼくの役割だと思っています。