「対症療法」から「根本治療」へ

生命科学やデジタル技術の進歩によって、研究開発のスタイルが劇的に変化している医薬品業界。近年、特に注目されているのが、病気の根本原因にアプローチする細胞医療や遺伝子治療などの「根本治療」だ。

継続的な投与で症状を改善する「対症療法」を主体とする従来の医薬品に対し、「根本治療」は病気の根本的な原因にアプローチし、一回または数回の投与で症状の大幅な改善を目指している。

いまだ有効な治療法が存在しない、もしくは、既存の治療法では満足な治療効果が得られない疾患に対し、根本治療が可能となる治療法の開発を目指しているのが、アステラス製薬だ。

薬を作用させる細胞そのものが減少あるいは消失し、機能しなくなる病気に対する効果的な治療法はこれまで存在しなかった。細胞医療では、細胞を補充するアプローチを試みる。また、遺伝子治療では、遺伝子の異常で生じる病気に対して、遺伝子を補う、あるいは、遺伝子の働きを調節することで原因に直接働きかける。

いずれの治療法も、身体機能の回復や、それに伴う症状の大幅な改善を目指す。アステラス製薬ではこうした技術を活用し、眼科疾患や筋疾患などの治療薬の開発を行なっているほか、がん治療への応用にも取り組んでいる。

科学雑誌「European Journal of Human Genetics」に投稿された論文によると、現在、世界中に希少疾患を抱える人は3億人おり、そのうち約70%は遺伝子の異常が要因になっているという。

遺伝子レベルの診断が行なわれ、将来病気が進行することがわかっても、治療手段が限られ、回復する見込みがなければ、患者あるいはその家族の抱える失望は計り知れない。根本治療はそうした状況を変え、希望をもたらすポテンシャルを秘めているわけだ。

そんな根本治療は、わたしたちの未来をどのように変えてくれるのだろう? アステラス製薬のプライマリ・フォーカス・リード (Blindness and Beyond)部長の鈴木丈太郎、ジーン セラピー リサーチ イノベーション&テクノロジー ユニットヘッドの吉見英治、ヘルスケアポリシー部アドボカシーストラテジー&プランニング グループリーダーの大野好美とともに、その未来像を考える。

デリバリー、製造コスト、規制

「いま根本治療が注目される背景には、病気が起きる仕組みが科学技術の進歩により理解されてきたことと、病気の原因にアプローチする方法が多様化してきたことの2つが挙げられます」

鈴木がこう指摘するように、ゲノムの解析技術や遺伝子編集動物を用いた解析、網羅的な遺伝子・蛋白解析技術の進歩、あるいは遺伝子、細胞、RNAなどのモダリティ(治療手段・技術)の進歩がいま起きている。とはいえ、「いずれも、科学的にも医学的にもとても長い助走を経て花が開きつつある。ここ数年で急に達成されたものではない」と鈴木は補足する。

「希少疾患の原因がわかっていたとしても、原因に対するアプローチを患者さんの身体のなかで行なうには、例えば全身の筋肉の細胞一つひとつに機能をもつ遺伝子を届けなければなりません。そうしたアプローチはこれまで非常に難しかったのですが、アデノ随伴ウイルスという天然のウイルスをデリバリーのツールとして使うことにより、可能になってきています」と吉見は言う。

また、「製造方法」や「規制の枠組み」についても課題解決が進んでいる。細胞医療や遺伝子治療が技術的に可能だったとしても、製品化のためには高い品質を確保しながら、大量かつ安定的に製造しなければならない。生産工程の改良によるコストの低下で、それが現実的になっているという。

遺伝子治療や細胞医療のアプローチを社会実装するには、規制当局からの承認も不可欠だ。現在、治験を進める企業が増え、規制当局によるガイドラインの整備が進んだことで、現実として製造販売が承認されるようになってきている、と吉見はこの10年の状況を解説する。

“科学の進歩を患者さんの「価値」に変える”

「変化する医療の最先端に立ち、科学の進歩を患者さんの『価値』に変える」

アステラス製薬が根本治療に取り組む背景にあるのは、「変化する医療の最先端に立ち、科学の進歩を患者さんの『価値』に変える」というビジョンだ。科学の著しい進歩により見出されてきた治療手段である細胞医療や遺伝子治療の研究開発に取り組む理由について、鈴木は次のように語る。

「いま世界中で研究者、医師、技術者が新たな発見をし、技術を開発し、その検証や応用に取り組んでいます。わたしたちはたゆまぬ科学の進歩をメディカルソリューションとして昇華させ、患者さんの治療に使えるかたちに具現化する責務を負っているわけです」

その際に重要なのが、製品化に向けた歩みを社外のパートナーと共に進めていくという姿勢だ。

同社は2020年にアデノ随伴ウイルスを用いた遺伝子治療薬の研究開発に注力するAudentes社を買収するなど、バイオテック・スタートアップの買収やさまざまな会社との提携を行なってきた。吉見はその背景を次のように解説する。

「現在の遺伝子治療や細胞医療の多くの開発品は、日本を含む世界中のアカデミアやスタートアップ企業が由来です。そうしたパートナーの皆さんが大切に育ててきたシーズをさらに育て、アステラスが得意とする“安心・安全な製品としての提供”を受け持つことが最も望ましいパートナーシップであると考えています」

根本治療の応用可能性

アステラス製薬が目指す細胞医療においては、複数の疾患で病気の根本原因が共通していることがある。

そのため、「病態が共通なものであれば、失われた細胞を補充することにより、遺伝子の変異や疾患の種類によらず、広く治療ができるかもしれません。細胞医療にはそうした魅力があり、これまで目が届かなかった本当に患者数が少ない疾患でも、結果的に治療法が届けられる可能性に期待して研究開発をしています」と鈴木は言う。

そうした取り組みの先で、細胞医療や遺伝子治療はどのような未来をもたらしてくれるのだろうか。吉見はその未来を次のように語る。

「例えば遺伝子治療に多くのプレイヤーが参入すれば、技術自体がコモディティ化し、いまは患者数が少ない希少遺伝性疾患に対しても、より少ない投資で治験を開始し、医薬品が提供できるという未来がやってくるのではないかとわたしは考えています。また、将来的に、心不全や脳梗塞といった多くの人がかかるような病気に対しても応用が進んでいくかもしれません」

「根本治療」がもたらす未来を読み解く4つの視点

それでは、遺伝子治療や細胞医療によって、わたしたちの未来はどのように変わりうるのだろうか。アステラス製薬のメンバーと『WIRED』日本版編集部は、人々のウェルビーイングにつながる4つの視点を考えた。

視点1:「治療法がない」という不安からの解放

世界には、いまだ治療法のない病気が数多く存在し、そうした治療満足度の低い疾患における医療ニーズを「アンメットメディカルニーズ」と医薬品業界では呼ぶ。

がんや認知症といった多くの人が生涯のうちに罹患する病気もあれば、筋疾患といった希少疾患も挙げられる。大野は次のように説明する。

「病気を宣告されたときに『いまは治療薬がありません』と言われれば、人々の精神的ダメージはとても大きいはず。でも、視力を失う恐れがある患者さんでも、細胞医療でよくなる可能性がありますと言われたら、それは社会との新しいつながりへの希望の光になりますよね。今後、加齢に伴い、わたしたちもそうした疾患に罹る可能性はあります。治療の選択肢があれば、病気になることの不安から解放されるかもしれません」

また、吉見は企業と社会が密接に連携していくことの重要性を指摘する。「例えば、患者さんの家族が患者会を通じて基金を設立し、アカデミアなどの研究活動に投資してシーズをつくり、治療薬の開発のためのスタートアップを立ち上げて製薬企業とのパートナリングを目指す。そうした活動が遺伝子治療ではメジャーになる可能性がある」と吉見は言う。

「既存の低分子創薬の場合、製品をつくり出すために多額の投資、長い期間、大規模なヒューマンリソースが必要になってしまいます。遺伝子治療の場合は、小さなラボでつくったものが、そのまま製品になることもありうる。こうした活動がフィットしやすいのです」

社会全体として根本治療への取り組みが進んでいくことで、治療法のない病気への恐れから人々が解放され、人生を楽しむための一層多様な選択肢が得られる社会の構築につながっていくだろう。

視点2:あらゆる人々が社会参加の機会をもてる「インクルーシブな社会」の構築

「働きたい」と思っている方が社会に参画し、働けるかどうか。それは個々人のウェルビーイングを左右するだろう。

視点1で提示したように、例えば、視力を失う恐れのある患者が細胞医療によって治療可能になれば、再び社会とのつながりを取り戻せるかもしれない。その際に、介護者も新しい社会活動に参加する機会を得られるだろう。これまで有効な治療法がなく将来に不安を抱えていた患者やその家族だけでなく、いまは健康な人でも加齢に伴う病気にかかる不安に対して、希望の光を与えることになるかもしれない。

そうした取り組みは、日本社会における労働力の拡充というマクロな視点にもつながっていくはずだ。患者自身の疾患が理由による欠勤や早退、退職、家族の介護による労働力の損失は、根本治療で症状を劇的に改善することによって、抑制が期待できるかもしれない。鈴木はその先に待ち受けている社会を次のように語る。

「これまで適切なメディカルソリューションが存在せず、社会参加の機会が減ったり失われたりしている方々がいらっしゃいました。そうした方々の社会参加の機会を増すことができれば、結果的に労働生産性の向上につながると思います。また、そうした方々の声を社会に反映することで、助けあう豊かな社会への実現に貢献できると考えています」

視点3:「エイジング・イン・プレイス」の支援

住み慣れた地域で、最後まで健康的・快適にその人らしく暮らすことを意味する「エイジング・イン・プレイス」。人々のウェルビーイングを考えるうえでは、個々人の自律性は外せない観点だ。

いま全世界で1億5000万人以上が加齢に伴い視力が低下する「加齢黄斑変性」に罹患していると言われている。こうした視力を失うリスクが高い目の病気になれば、クオリティ・オブ・ライフの大幅な低下は避けられないだろう。

だからこそ、細胞医療による症状の大幅な改善によって、生活の高度なサポートが必要な状態が緩和されれば、高齢になっても身近な範囲で生活しやすくなる未来がやってくるかもしれない。社会参画の機会が増えたり、趣味や余暇を楽しめたりと、自分らしい生き方を続けるきっかけになる。

根本治療によってそうした生活を送れるようになれば、老いて亡くなる瞬間までその人らしい意思決定や住む場所の選択が尊重され、ウェルビーイングが実現する社会が実現するかもしれない。

視点4:異業種との融合がもたらす技術的ブレイクスルー

再生医療やバイオテクノロジーの最先端では、最新の医療技術と異業種の融合が起き、さまざまなブレイクスルーが起きている。遺伝子治療の製品をつくるために、最適な遺伝子配列を機械学習によって導き出すことや、インクでなく細胞をプリンターのように打ち出すことで適切な高次構造をもつ小さな組織(臓器)の構築などが挙げられる。

「バイオと異業種産業との融合は、日本の省庁でも支援していますし、アステラス製薬としても進めるべきだと考えています。このような取り組みが、将来の産業構造を変えるまでに成長することを期待しています」と吉見は言う。

他業界の技術を再生医療やバイオ研究に活かす動きも進んでいる。たとえば、ゲノム編集技術は植物や水産・畜産業での実用化が先行してきたが、医療への応用を想定した投資も盛んだ。

一方で、再生医療の関連技術がスマートセル、食品、農業などの領域に転用されていくことも予想される。例えば、NEDO(新エネルギー・産業技術総合開発機構)による、「スマートセル(植物や微生物が持つ物質生産能力を最大限引き出した細胞)」を用いたプロジェクトは、石油資源と比較して生物資源・生物機能の活用に軸足を置くため、地球環境の持続可能性に貢献する可能性が高い。

そうした環境負荷の低減は、この地球で生きる将来世代の選択肢を増やし、彼/彼女らがこの地球でウェルビーイングに生きていくために重要なテクノロジーとなっていくだろう。

再生医療の分野は異業種との融合によって、さまざまな技術的ブレイクスルーがこれからも期待できるはずだ。

これら4つの視点から見えてくるのは、根本治療が実現する、わたしたちのウェルビーイングな暮らしだ。技術革新は、それまで選択肢が限られていた人に、より多くの選択肢を与えてくれる。難病によって社会参加の機会を奪われていた人たち、年をとり何かしらの疾患により新しい挑戦に躊躇していた人たち、「老い」によって残りの人生を自律的に送ることができなかった人たち、そして、地球環境のサステナビリティが人生に影響するかもしれない未来を生きる人たち。そうした人々がウェルビーイングかつ自律的に生きることを下支えしてくれるのが、根本治療とそれがもたらす新しい価値というわけだ。

そんな技術革新に対して絶え間ない歩みを進めていくべく、鈴木は「ペイシェント・セントリシティ(患者中心の医療)」の重要性を次のように強調する。

「根本治療であれ、対症療法であれ、患者さんを中心に据えて考えることに変わりはありません。もっとも大切だと考えているのは、『病気を治すのは患者さん自身である』こと。誤解を恐れずに言えば、薬が病気を治すわけではありません。患者さんの体が病気に打ち勝ち、自ら治ろうとすることを助けてあげること、それが医療や薬の役割だとわたしは考えています」

また、アステラス製薬としても病気で困っている患者のそばに寄り添うという考え方のもと、患者のメッセージに積極的に耳を傾けることを重視しているという。例えば、社内での勉強会に患者を招いてニーズを丁寧に深く理解することが、遺伝子治療や細胞医療における技術革新と結びつく。そのような地道な取り組みによって、いまとは異なるより良い未来をわたしたちのもとにもたらしてくれるだろう。

[ 第2回アステラスオープンフォーラムダイジェスト動画 ]