【本日8/31:meetup第5回】 ポストコロナ時代の新しい都市文化とは?
人との出会い、文化的体験の享受、仕事の発見……。都市には刺激的な出会い/出合いが転がっている。しかし新型コロナウイルス感染拡大を受け、都市に住むことそのものが見直されようとしているいま、こうしたさまざまなものに出会う/出合う方法はどのように変化していくのだろう? Placy代表の鈴木綜真、SAMPO創業者の塩浦一彗と考える。

※本シリーズの記事:パンデミックは新たな“家族”のかたちを浮き彫りにする(後篇)

ローリー・ペニー

ジャーナリスト、TV作家、作家。最新作は『Bitch Doctrine: Essays for Dissenting Adults』。『WIRED』US版雑誌でおたくの世界について記事を書いている。(@PennyRed

「彼女に家族はいたのか? 」

ベッドルームに自主隔離をして、ようやく『アヴェンジャーズ/エンドゲーム』を観た。気がつくと、メンバーが集まってブラック・ウィドウの死を悲しむシーンですすり泣いていた。これまでのマーべルのスーパーヒーローシリーズでは、ブラック・ウィドウは悲劇を背負った孤独な紅一点として描かれていた。ハルクやホークアイとはいまひとつうまくやっていけず、不妊手術を施されて「モンスター」になってしまった子どものいない独身女性。つまりひとりぼっちで生きている、スパンデックスのスーツをまとった最強の兵士という役どころだった。

だがそれは、音楽が大きくなって、キャプテン・アメリカがさも当然のように「いた」と答えるまでの話だ。ブラック・ウィドウには、「ぼくら」という家族が確かにいた。

寄せ集め部隊だったはずのヒーローたちが、自分たちは「本当の家族」だと気づくこの瞬間は、ポップカルチャー的に描かれてはいるが決して陳腐にならず、ただただ胸を衝いてくる。1週間自室にひとりこもり、自分を脅かす自らの体にとらわれているときには、とりわけこたえた。咳き込みながら、自分の状態を狂ったように監視していたときだ。ハウスメイトだけがドアを開けて、上手には淹れられなかったお茶の入ったカップを優しく置いてくれる。

何百万という人たちが同じ状況になったと思うが、新型コロナウイルスによるパンデミックのおかげで、わたしは家族というものをあらためて考えることになった。選び取る家族という概念は、人々が文化のなかでつくったものだが、いよいよその時代がやって来た。いま、多くの人々が自分の家族を自らつくったり、つくり直したりしている。

血縁もなく寝る間柄でもない「ポッド」仲間

2020年3月の終わり、友人の友人のジャーナリストから電話を受けた。ロサンジェルスで暮らすわたしの選び取る家族とは具体的にはどんなものかを知りたいとのことだった。彼女は、血縁もなく寝る間柄でもない人間と一緒に隔離生活を送る人たちについて記事を書いていた。まさにわたしたちのことだった。ハウスメイトとわたし、加えて近所に住むひとり暮らしの友人ふたり。みな、病気だったり実家が遠方だったりして身内とは離れて暮らしている。4人とも独身だ。

わたしたちはいわゆる伝統的な家庭を築いていないけれど、それでも互いを呼び合うにふさわしい言葉を考え「ポッド」と言うことにしていた。いま、世界中で起こっていることが、まるでディストピアを描くSFドラマの終盤で、違う時間軸から現れたことのように感じているからだ。

作曲家でシンガーソングライターの現在のハウスメイトとわたしが出会ったのは数年前、ニューヨークのホームパーティでだった。UVライトがそこら中で光って音楽が足元に響いていた。いつか大事な存在になるだろうとお互いにすぐにわかった。そのいつかは2019年の終わりに訪れた。わたしがシルヴァーレイクで、共有バスルームの付いた、レモンの庭木のある家をまた借りすることになり、賃料をシェアしてくれる人を探していたときだ。

ほかのポッド仲間はTwitterで知り合ったセックスポジティヴなミュージシャン兼セラピストと、近所のコーヒーショップでトイレに並んでいるときにお気に入りのラジオ番組の話で盛り上がったふう変わりな若い作家だ。

ポッドとして集まったのは深い理由があってのことではなく、まったくの偶然で、それもハウスメイトとわたしの家にトコジラミが発生したからだった。トコジラミというのは本当に厄介だし、お金もかかるし、疲れる。一度発生したら、まるでパニック映画の主人公さながら走り回り、ほとんどのものを電子レンジにかけて、電子レンジ使用不可のものは燻蒸消毒しなければならない。

コーヒーショップで出会った作家の青年は衣類全部をコインランドリーまで運ぶのを手伝ってくれた。わたしはベッドにいるあの忌々しい小さなかみつき虫から逃れるためにミュージシャン兼セラピストのソファーで過ごしていた。ロサンジェルスの封鎖が告げられたときには、わたしたちはこんなふうにしてかなり近い居住空間で暮らしていたのだ。だから、誰かひとりがウイルスに感染していたら全員が感染していてもおかしくない状況だった。

わたしたちはリスクをみんなで引き受けることにした。家の雑用も、お楽しみも、クルマでの移動もだ。いつ、いかなるときにも正気を保っていられるだけのスナックを用意しておくこと、出会い系アプリ「Hinge」で手当たり次第に見知らぬ人に会いに行かないことを確認した。理にかなっていたと思う。以上が先のジャーナリストに話したすべてだ。

「核家族は間違いだった」

このときのインタヴューを、てっきり本題に入る前の背景として尋ねられたものだと、わたしは受け取っていた。しかも、記事はライフスタイル欄の特集記事の真ん中ぐらいに掲載されると思っていた。数日後、わたしたちの写真が『ロサンジェルス・タイムズ』の一面を飾った。見出しは「隔離仲間と孤立感を癒やす」。それから突然、地元のテレビ局や全国ネットのラジオ局からインタヴューを受けることになり、いまは少し手に負えなくなってきている。そもそも、この話がなぜ話題を呼ぶのだろうか?

いまを生きるわたしたちにまつわる話はたいてい、子どものころに思い描いていたような話とはかなり違う。わたしたちミレニアル世代は、数世代前からの人たちと同じく、異性と結婚して身を固め、ひとりの完全な人間になって初めて大人になるものだと育てられてきた。つまり、本当の家族を築けるような誰かを待つこと。それ以前やそれ以降のことはすべて無駄。そうすればうまくいくはずだとされていた。