家庭内暴力に怯える妻とその子どもたち。妻は子どもの助けを借り、暴力をふるう夫から逃避し、見知らぬ土地で新しい生活を始めようと試みる。主人公である妻が語るこの話が、いつのことなのかは明確には記されていない。1960年代にはフェミニズム運動以降、女性の活躍が著しくなったが、果たしてジェンダーを取りまく課題は解決されたのか。ローレン・グロフが社会に横たわる構造的な社会の歪みを問いかける。同誌2021年2月21日号に掲載。
2020年の春、米ミネソタ州で黒人男性ジョージ・フロイドが地元の警察官により絞殺され事件の衝撃は、米国内だけでなく、日本を含め世界中に拡がった。そのとき米国内のメディアでよく見かけた表現に、「構造的な人種差別(systemic racism)」がある。
この場合の“構造的な”とは、社会や文化に深く根差している状況を意味する。しかし、差別は人種だけに限ったわけでなく、日常のさまざまなところで存在している。
性差別も例外ではない。女性やLGBTQの人たちに対する不平等な扱いが、歴史的観点からどのような変遷をたどったか、専門家でない筆者が口を挟む余地はないが、少なくとも昨日今日の話ではない。親の世代、祖父母の世代、何百年前の祖先が生きた時代にも起こり、それが現在にまで及んでこの“構造的な”問題へと発展したはずだ。
2021年2月1日号の『ニューヨーカー』誌掲載の「THE WIND」は、こうした世代から世代へと連綿とした性差別の歴史を物語る。著者のローレン・グロフは現代米文学のなかでも、卓越したストーリーテラーとして評価が高く、短編小説集『丸い地球のどこかの曲がり角で』の邦訳版も先日刊行された。
そのグロフの最新短編「THE WIND」は冒頭で、子どもたちが起床し学校へと向かう、朝の慌ただしい様子が描写される。着替えやランチボックスの用意など、6歳と9歳の弟たちの世話をするのは12歳の姉だが、なぜかその場に両親の姿はない。
「死んだの(Is she dead)? 」といちばん下の弟が訊ねるが、姉たちは“余計な話はするな”とばかりに取り合おうとせず、出かける準備で忙しい。読者はこの時点で、末っ子が安否を知りたがる彼女(she)とは誰なのか知らされず、親の不在とともに謎めいた雰囲気が作品に漂う。
やがてスクール・バスに乗り込んだ子どもたちだったが、学校へ行く途中で降ろしてほしいと姉は運転手に頼む。そしてバスは姉の望み通りに停車し3人が無事下車したところで、クルマに乗った母親が彼/彼女らを迎える。
わが娘、息子を同乗させ母親が向かったのは、彼女の勤め先だ。給料を取りにいくと彼女は道すがら話すが、顔色は悪く、唇に強打を受けた跡が残っていて、ことを急ぐ様子から前述の末っ子の心配をした彼女とは、母親であるのがうかがえる。
職場での同僚とやりとりするうちに、彼女が夫から暴力を受けていたのが判明する。手にした銃を妻の歯茎に押しつけ、歯を何本か折り、身体中にあざをつくるという、非道で残虐な行動をとった夫だが、暴力は家庭のなかで日常化していた。
今回の夫による暴力制裁のきっかけは記されないが、逆上した彼はさらなる仕打ちを加えようとする。これを恐れ、子どもたちを置いたまま、家を出た彼女だったが、夫が職場までやって来るだろうといまだ身の危険を感じている。
その恐怖は、彼女を追い詰めろうばいさせる。子どもたちと逃走する計画をし、そのために必要な金を取りにきたが、手が震えてしまい、給料の小切手さえつかめない。
心理的に追い込まれる母親の様子が、ドリスという仲のよい職場の同僚との次の会話でも伝わる。
ある意味で、落ち度があったのはわたしのほう。刈り込みを一緒にやるまでは残ろう、なんて思ったものだから。あの人の羊の扱いはひどいでしょう。あの羊たちを助けてあげたかったの。
「ママ?」とわたしのおじさんはドアの傍で言った。
違うわよ。バカなこと言わないで。そんなのじゃなかった、とドリスはきつい調子で話した。彼のせいよ。ほかの誰でもない、彼のね。(拙訳)
身体の震えだけでなく、夫からの暴力による恐怖は彼女の心をもむしばむ。そんな友人と苦境に置かれた彼女の家族を親身に思い、同僚がなだめる場面だが、このやりとりだけを取っても、犠牲者であるはずが自己否定するなど、母親は極度に精神的なダメージを受けている。
さて、この引用文で気づかれたかと思うが、母親たちの会話に挟まれ末っ子の科白のあとに、「わたしのおじさん」という言葉が見つかる。不可解にも感じるが、これこそがこの小説を特徴づける重要な部分だ。
ここまで書いてきたように、本作の主要な登場人物は母親と彼女の子どもだ。家を飛び出した母親は、しっかり者の娘の助けを借りながら、子どもたちと示し合わせ、暴力が絶えない夫の元から逃避し、見知らぬ土地で新しい生活を始めようともくろむ、これが物語の骨格となる。
問題は、その話を誰が語っているかである。幼い次男を「わたしのおじさん」と呼ぶのは、語り手自身の母親が、逃避の推移をつぶさに知る姉という設定によるからだ。つまりこの小説はそれから数十年後、年老いた母親から彼女が12歳のときに経験した困難を、娘である語り手が聞いて言葉にしているわけだ。
となると、文中での母親は語り手にとって祖母に、ふたりの弟たちは叔父にあたるが、こうした設定を、単にストーリーテリングの技巧的なおもしろさを小説にもたらすととらえては、核心部分を見逃してしまう。むしろ注目すべきは、この設定を駆使することで、著者のグロフが性差別の根深さ、先に述べた社会における深刻で、構造的な問題を読者の注意を喚起させる点にある。
明確に、時代背景は記されていない。しかしこれが語り手の祖母の話であり、さらにいまは高齢となった語り手の母親の娘時代という要素を鑑みると、かなり昔(6、70年前? )に起こった出来事と推測できる。
それ以降時代は移り、米国社会も変わった──とされる。1960年代にはフェミニズム運動が活発化し、これ以降さまざま分野で女性が進出した。ビジネスにおいて企業のトップに女性が就くことは珍しくなくなり、政治の世界では先日、カマラ・ハリスが女性として初めて副大統領という政権で2番目の重職に就いた。
しかし果たして、ジェンダー間の不平等はなくなり、女性への暴力、性的虐待などの問題が解消されたのだろうか?
ハリウッドの大物プロデューサー、ハーヴェイ・ワインスタインが権力を乱用し、女優や周りのスタッフに性的虐待を強要していたことは社会問題化し、日本でも報道されたように、その後の#MeToo運動につながった。映画の世界へと飛び込んで、自分の夢を叶えようとした彼女たちの将来を考えるにつけ、胸が張り裂ける思いになるのは筆者だけではないだろう。
ハリスの就任にしても、ドイツやニュージーランドといったすでに女性が国家の指導者にいる諸国に比べると、変革のスピードは速いとは言いがたい。2016年の大統領選でドナルド・トランプと争った末、民主党候補のヒラリー・ロダム・クリントンが破れた理由が、クリントン氏が女性であったのを否定できない事実だ。
差別はどの時代も、どの場所でもある。社会全体がそう言い訳をし、ジェンダーによる差別を看過し、容認してきたとすれば、被害を受けてきた人々の傷は心身ともに甚大であることを、いまここで見つめ直す必要がある。
外見や出自、性別といったものから、人を判断してはいけないと教育を受け、理解しているつもりでいても、われわれはそれを断ち切れず、妻や女性に対しての暴力や虐待が“常態化する”ニュースを日々聞くのは、なぜか? 能力、特性、これまでの経験や成果を無視し、相手の「個」をないがしろにし、性別、人種、宗教、思想といった枠で、自分とは違うなどと距離をとり見下すのは、どんな理由からか?
被差別者の自覚、無自覚を問わず、われわれがこの愚かさ、醜さと向き合い言下に否定する時期は、もはや先延ばしできないところに来ている。