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ジョン・シーブルック

1989年から『ニューヨーカー』誌に寄稿し、1993年からスタッフライター。近著の「The Song Machine: Inside the Hit Factory」を含む4冊の著書がある。(@jmseabrook

1970年代から80年代のベイエリアで育ったプリモ・オーピリア(Studio O+Aの取締役および共同創業者)は、カリフォルニアのテクノロジーの現場から新しい民主的なデザイン美学が生まれるのを目の当たりにした。80年代初期、ほとんどの大手テクノロジー企業のオフィスは依然としてオーピリアの言う「ディルバート村」ばかりだった。ディルバートとはスコット・アダムズの漫画に出てくる、仕切りスペースで暮らすエンジニアの名前だ。

「その世界は非常に厳しい階層構造になっています」とオーピリアは言う。まるでマイク・ジャッジの1999年の風刺映画『リストラ・マン』に出てくるイニテック(Initech)のオフィスのように。「仕切りスペース、オフィス、会議室……それだけです。まだブレインストーミングルームはありませんでした。協働作業という言葉など、会話にも出てきません。ただ会議、会議、会議が繰り返されるばかりでした」

オーピリアはサンノゼ州立大学でインテリアデザインを学び、80年代半ばにサニーヴェイルのワークプレイス・デザイン会社でインターンとして働き始めた。そこで彼は、近くにあった防衛関連企業ロッキード・マーティンのスペースプランニングをすることになる。「わたしはエンジニアたちや、テクノロジーがつくり出されていく様子を観察する機会を得ました」と彼は言う。

「ひとりのスーパーエンジニアがいるとします。その人は技術の最高責任者で、部屋の中でもっとも頭のいい人です。すると、その人のアドヴァイスが欲しいほかのエンジニアたちが大勢、その人の周りに集まるんです」。オーピリアは、エンジニアたちが移動式のホワイトボードを使って、自分たち専用の臨時ブレインストーミングルームをつくっているのに気づいた。

ハードウェアデザインではチームは一定で、プロジェクトの最初から最後まで同じチームが担当するのが普通だが、ソフトウェアのチームは、仕事が進んで新たな初見の問題が発生するたびに別のチームが結成され、また解散し、再結成される、というのを繰り返すのだ。

エンジニアというのは企業の「ブレーン集団」だ、とオーピリアは言う。だが「彼/彼女らは2級市民として扱われていました。仕事をする箱形スペースは、窓もない倉庫の真ん中にありました。営業で好成績を上げている社員なら、自分用のオフィスをもてたのに。製品を売る社員のことしか考えられていない世界でした」

80年代後半になると、オフィスの責任者はデザイナーに、新たなチーム志向のワークスタイルに合ったオフィスの設計を依頼するようになった。「今度は、『この製品をつくり出す人たちをケアするにはどうすればいいか』という話になりました」とオーピリアは言う。

「彼/彼女らにインスピレーションを与え、栄養を与え、仕事をするスペースを与える必要があると考え始めたのです」。無料で食べ物やその他の生活用品を与えることで、エンジニアたちはオフィスにとどまり、夜中までプログラミングを続けた。

「彼/彼女らは長時間働き、夜中にも仕事をすることが多いのです」とオーピリアは続ける。「彼/彼女らは長い間職場で過ごすのが好きなんだ、と経営者は考えました」