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1925年の創刊以来、時事と連関した良質なエッセイやノンフィクション、小説などを掲載し続ける雑誌『ニューヨーカー』は、英語圏で小説を書く者ならば、誰もが憧れる圧倒的な影響力をいまも誇っている。トルーマン・カポーティーやレイチェル・カーソン、JD・サリンジャー……とそこに名を連ねた名文筆家たちは枚挙に暇がない。

まさに米国文学の屋台骨ともいえるその誌面から、作家・新元良一が毎月ストーリーを厳選し、ひもとく当連載「『ニューヨーカー』を読む」。今月はフランス生まれメキシコ育ちの作家キャミール・ボーダズの「OFFSIDE CONSTANTLY」を取り上げる。前回に取り上げた「ALVIN」同様に、新型コロナウイルス感染症に揺れる時代のなかで時間の流れと向き合う。

OFFSIDE CONSTANTLY」|CAMILLE BORDAS
14歳の主人公ジョアンナの兄弟トーマスは、長患いの末に夭逝する。アートを学びたいという夢は叶わなかった兄弟の死をきっかけに、ジョアンナは死そのものに“取り憑かれ”、新聞を手に取ると、どの欄よりも先に追悼記事をチェックするようになる。そんなジョアンナ自身もまた、予兆もなく睡魔がやってきて、眠りの世界に入ってしまうという問題を抱えていた。突然、普段の世界へは戻れなくなってしまうかもしれないという不安や恐怖に苛まれるなか、周囲の人の名前を書いたリストをつくる一風変わったクラスメイトのヴィクトリアとの交流から、彼女の心持ちにある変化が訪れる。『ニューヨーカー』誌2021年6月28日号に掲載。
新元良一|RIYO NIIMOTO

1959年生まれ。作家、コラムニスト。84年に米ニューヨークに渡り、22年間暮らす。帰国後、京都造形芸術大で専任教員を務めたあと、2016年末に、再び活動拠点をニューヨークに移した。主な著作に『あの空を探して』〈文藝春秋〉。ブルックリン在住。

前回「ALVIN」を取り上げたとき、新型コロナウイルス感染症により外出しなくなり、多くの人が巣ごもりするようになったことで、時間的感覚が変わった話題を取り上げた。さらに前々回の「FUTURE SELVES」も、未来の自身の姿を想像するという主題の短編小説である。

『ニューヨーカー』誌2021年6月28日号掲載のフランス生まれで、メキシコで育った作家キャミール・ボーダズの「OFFSIDE CONSTANTLY」も、新型コロナウイルス感染症に揺れる時代にあって、時間の流れと向き合う設定をとっている。三つの小説だけをサンプルに、これが世界文学のトレンドだと主張するのは横暴だが、それでも日常の変化にともなう状況での時間の捉え方は、今後もさまざまな小説で主題のひとつになるのでは、と予想される。

キャミール・ボーダズ|CAMILLE BORDAS

作家、翻訳家。フランスで生まれ、メキシコで育つ。2012年に米国に移住。フィクションを『The New Yorker』や『Tin House』に、ノンフィクションを『Chicago Magazine』や『LitHub』に寄稿している。執筆活動の傍ら、フロリダ大学でクリエイティヴ・ライティング・プログラムの教鞭もとっている。

さて、その「OFFSIDE CONSTANTLY」だが、「ALVIN」や「FUTURE SELVES」が停滞し、先行きが見えない現地点から未来へまなざしを向けているのに対し、本作はそれとは逆方向に視線が注がれる。つまり過去に起こった出来事の影響を受け、停止してしまった現在にわれわれ人間はどう対峙していくのかに着眼している(過去に固執する意味では、これも本連載で以前紹介したジョイ・ウィリアムズの「NETTLE」と相通じるものがある)。

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物語の冒頭で読者は、14歳の主人公ジョアンナの兄弟トーマスが亡くなったことを知らされる。絵を描くのが好きで、将来はソルボンヌ大学でアートを学びたいと思っていたトーマスだが、長い患いの末の早すぎる死により叶わぬ夢となった。

ジョアンナは身内の死に心を痛める一方で、やがて死そのものに“取り憑かれる”こととなる。家族が購読する新聞を手に取ると、どの欄よりも先に追悼記事に視線を落とし、念入りにその内容をチェックするのが彼女の日課となった。

追悼記事は以前、ハリウッド俳優など有名人の死亡をその欄で伝えていたが、最近は一般人、つまり“名もない人々”が亡くなったことを取り上げる。しかし記事が伝える死因は、いずれもテロや新型コロナウイルス感染症といった悲しい出来事ばかりで、読むだけで滅入ってくるし、そんな話に終始して、なぜ人びとの功績などを語らないのか、ジョアンナには理解できなかった。

そこで彼女は、トーマスの追悼記事を掲載してもらおうと画策する。遺影の写真とともに、生前の兄弟のことを文章にしたため新聞社に送ってはみたが、なしのつぶてで、返事を待つようになってから数カ月が経った。

そのジョアンナ自身もまた、普段の生活で問題を抱えていた。予兆もなく睡魔がやってきて、通う中学校の授業中でも眠りの世界に入ってしまう。問題を解決しようと親とさまざまな医師の元へと足を運ぶものの、いまだに原因が判明しない。

問題を抱える一方で、中学生というのもあってジョアンナの普段の生活には無邪気なところが散見される。そんな状況で、せっせと周囲の人たちの名前を書いたリストをつくる一風変わったクラスメイトのヴィクトリアという少女と彼女はめぐり逢い、交流をもった。

当初は、誕生日に招待する友だちを選んでいるのかと、主人公は自分の名前がそこにないのを見つけ、仲間はずれにされたと思っていた。ところが当人から直接事情を聞くと、リストに記載される人たちは、ヴィクトリアに不快な思いをさせた人間らしく、いつの日か暴力で懲らしめてやろうと彼女は考えていた。

そうはいっても、ヴィクトリアは名前が挙げた気に入らないクラスメイトや先生たちに、直接何か制裁を加えているわけではない。どんな理由でそんな気持ちを抱くようになったか詳細は記されないが、いつか見返りとして、自分に対しての悪事を思い知らせてやろうと企んでいるだけだった。

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この“いつか”の部分が、本作の重要な部分であるとともに、過去への回帰という時間に対する方向性を示している。

人は生を授かり、やがて死によって人生を終える。ジョアンナはその死に執着しているが、亡くなり方というより、人生の最期に至ることへのきっかけを追い求めていて、作品ではこれが彼女にとっての強迫観念になっているような印象を与えている。

愛する兄弟のトーマスの場合は、長患いのために他界した。その病気が何であるのか、家族も本人も承知していたから、とても悲しいことではあるが、近い将来亡くなるのが予想でき、心の準備もできた。

しかし、最期がそれほど早くやって来るのを、本人も含め誰も予想できない場合はどうなるのか? 気持ちの整理もできていない状況で、突然死が到来したとき、一体どうなってしまうのか?

彼女がそんな悲観的な気持ちにかられるのは、眠りの問題と関わっているとも考えられる。一度深い眠りに入ると、通常ならしばらく時間を経て普段の生活へと戻れるが、原因がはっきりしないだけに、必ずそうなる保証はどこにもない。

覚醒していない状況で予期せぬ死が訪れ、もう普段の世界へは戻れなくなってしまうかもしれない。先行きが見えないことへのこうした不安や恐怖は、まだ若い彼女が抱える問題としては重すぎるもので、これが強迫観念となり、“死とそこに至るきっかけ”へのジョアンナの関心が高まったという見方もできる。

何が死をもたらすのかへの執着は、本作のタイトルにもなり、文中でも次のように書き綴られている。

それから、わたしは死を至るところで見ようとした。それはちょうど、サッカーの“オフサイド”を教えられたようなものだった。つまり一度ルールを理解したら、途切れなくそこへ注目し、しょっちゅうオフサイドとみなしてしまう。(拙訳)

サッカーでよく耳にするオフサイドという用語は、位置についての罰則で、ルール違反とされる場所に選手が立っていたら、いくらそのあとに得点しても無効となる取り決めのことである。いろいろな場合が想定されるが、選手からすれば、おそらく違反したいがためにその場所にいるのではなく、無意識のうちに居合わせたと考えられるだろう。

そうであるなら、違反となる場所を探し出し、そこから離れればいい。オフサイドと認定される地点を、死に至るきっかけと重ね合わせたジョアンナは、追悼記事を読みながら、何が原因で人生を終えたのかを調べ、これを回避する方法を求めていたのではないだろうか。

小説の後半で、怒りが抑えられないヴィクトリアに、実際に暴力を振るえば、そうした感情も沈静化するかもしれないとジョアンナは提言する。そしてその相手として、ヴィクトリアに自分に制裁を加えるよう話す彼女の心の奥底には、痛い目に遭う“きっかけ”を実体験したい思いがあるように感じられる。

ここまで本作のテーマと考えられる、死に至るきっかけについて話してきたが、その部分に現実世界に起こっている自分の最期を予知できない人びとの悲劇が見つかる。

新型コロナウィルス感染症が世界的に蔓延した昨年以降、感染で亡くなった本人も「自分が死ぬことになるとはわかっていなかったのでは」という言葉をニュース番組などでよく耳にしてきた。それは前述の9.11にも言えることだが、どこからともなく訪れた出来事に為す術もなく、絶命していくのは、ジョアンナが語るようにあまりに悲しい。

しかしだからといって、その人たちが旅立ったあとに悲しみだけが残るわけではない。

小説の最後に、それまで投げやりな態度を示してきたジョアンナが、あらゆるものを受け入れ、肯定的な心持ちになる場面がある。たとえどんな終え方であっても、残された者の記憶のなかで旅立った人たちの存在とその輝きは決して失われず、いつまでも昔日のままの面影が浮かぶ、そんな人ひとりの人生の尊さが本作を締めくくっている。