お知らせ:Editor's Lounge

Takramのコンテクストデザイナーである渡邉康太郎をゲストに迎え、来たるパラダイムシフトに備える人気企画「ビブリオトーク」を1月30日(火)に実施します。カルチャー、テクノロジー、ビジネスなど、全10分野の最重要キーワードを網羅した最新号「THE WORLD IN 2024」を踏まえた選書と白熱のトークをお楽しみに!詳細はこちら

今回のオリンピックがSNSによるオリンピックになることは、いわば決まりきったことだった。Twitterの誕生から5611日となるいま、つまりパンデミックが始まるずっと以前から、人類はグローバルなメガイヴェントをSNSを副音声にして楽しんできたのだ。

ただひとつ違いがあるとすれば、無観客となったオリンピックでSNSのタイムラインを埋めるのが、観客たちではなくアスリート自身だということだ。TikTokをはじめとして、参加アスリートたちがアップする動画は、選手村や開会式をマスメディアとは違った視点から見せてくれる。ナショナリズムや世論になびいてフレームが決められた「報道」よりも、わずか数十秒の動画の積み重ねはときにより雄弁となる。

それはアスリート自身のヴォイスについても同様だ。マスコミに対してすっかり優等生になったインタヴューの受け答えよりも、直接心情が吐露され、決意を語り、オールアウトしたあとにまるでユニフォームを脱ぎ捨てたかのように飾らない言葉で綴るアスリートのSNSは、彼女/彼らの競技映像と相まって、オリンピックという“体験”をつくっている──例えば大迫傑が引退を自身のTwitterとYouTubeで表明して大会最終日に新たな文脈を編み込んだように。

それはもちろん、開会式当日まで続いた東京オリンピック開催の是非についてや、あるいは過去最高を更新する感染者数の話とは異次元の、バブルの中で起きている出来事だ。ぼく自身は、5年間、あるいはそれ以上、人生のすべてをかけてこの競技大会のために準備してきたアスリートたちには、ぜひバブルの中で競技に集中してもらえたらと思っている。ついでに言えば、バブルと言わずメタヴァースの中で競技をしてもらえれば、東京の例年通りの暑さに弱音を吐かずに済んだかもしれないし、無観客が気の毒であれば、客席をすべてミラーワールドに重なるスクリーンにして世界中の何億という“観戦者”をそこに音声つきで映せばよかったのにと思う。

問題は、その泡の外で、オリンピックとパンデミックに同時に直面している、つまり日常を生きるぼくたちのほうだ。その混乱ぶりは、ぼく自身のささやかなタイムラインにおいても顕著だった。曰く、「オリンピックに反対している奴は始まってもテレビを見るな」とか、「あれだけみんな反対していたのに開会した途端にコロッと態度を変えて転向した」とか。

つまりそこには「スイング」があったのだ。しかも、SNSにおける世紀のスイング(振幅)と言ってもいいかもしれない。

開会式については稿を改めて近々書くとして、各国選手の晴れ晴れとした入場行進やまるでパンデミックなど最初からなかったかのような競技映像の洪水、そして自国選手の素晴らしい活躍がこのスイングの主因であることは間違いない。悔しながら、こうしたコンテンツ価値についての“ぼったくり男爵”の見積もりはまだ完全に時代遅れというわけではなかったようだ(それでも、ナショナリズムを前提にした“平和の祭典”がもはや20世紀の遺物でしかないことを、この「コロナ禍のオリンピック」という歴史的なイヴェントがだめ押したことは確かだ)。

一方で、このスイング自体にはどんな意味があるのだろう? 「ツイッター論壇」なるものの変節を指摘する声もあったけれど、そもそもあなたのフィルターバブルの中以外に、そんな論壇がどこにあるのだろうか。今週のSZメンバーシップの記事は、いまやソーシャルメディアが「ストーリーやその人の物語」を伝えるものから「視覚と聴覚に訴えかける瞬間」を伝えるものへと変わっていることを指摘する。つまり、いまSNSで交わされているのは批評ではなく「ヴァイブス」なのだ。言語化されない経験やフィーリングを表すヴァイブスは、ソーシャルメディアの時代に復活し、絶え間なく拡散され、消費されていく。

今週の記事:TikTokと“ヴァイブス”の復活: #vibes はソーシャルメディアの新たな言語となる

かつてデューク・エリントンは「スイングがなければ意味はない It Don’t Mean a Thing (If It Ain’t Got That Swing)」という往年の名曲を残しているけれど、前のめりなグルーヴを全肯定してみせるそのスイングジャズこそが、いまのSNSの #vibes なのだ。そこに意味はない。批評性もない。キャンセルカルチャーはあらゆるものを「意味のなさ」という闇へ放り込んでいく。あるのはスイングだけだ。あるいは、スイングこそが、その意味なのだ。

『WIRED』日本版編集長
松島倫明