1925年の創刊以来、時事と連関した良質なエッセイやノンフィクション、小説などを掲載し続ける雑誌『ニューヨーカー』は、英語圏で小説を書く者ならば、誰もが憧れる圧倒的な影響力をいまも誇っている。トルーマン・カポーティーやレイチェル・カーソン、JD・サリンジャー……とそこに名を連ねた名文筆家たちは枚挙に暇がない。
まさに米国文学の屋台骨ともいえるその誌面から、作家・新元良一が毎月ストーリーを厳選し、ひもとく当連載「『ニューヨーカー』を読む」。今月は若手注目作家のひとりエマ・クラインの「THE ICEMAN」を取り上げる。パンデミックによって強いられた抑制に対するシンパシーや同胞意識を巧みに描き出す。

PHOTO BY SPENCER PLATT

THE ICEMAN」|EMMA CLINE
豊かな自然に囲まれた避暑地のホテルで働く主人公のサム。日光浴と涼風を求めて訪れた宿泊客を相手に、日々淡々とルーティンワークをこなしている。かつては羽目を外すことがあったが、ホテルでの仕事を始めてからは、“自制”の日々を送っている。まだ新型コロナウイルス感染症の蔓延が続くある日、サムの目の前に周囲の迷惑を顧みず着用することもなく大声で騒ぐ、1組の男女の宿泊客が現れ、彼の奥底に眠っていたある種の感情が動き出す。『ニューヨーカー』誌2021年8月23日号に掲載。
新元良一|RIYO NIIMOTO

1959年生まれ。作家、コラムニスト。84年に米ニューヨークに渡り、22年間暮らす。帰国後、京都造形芸術大で専任教員を務めたあと、2016年末に、再び活動拠点をニューヨークに移した。主な著作に『あの空を探して』〈文藝春秋〉。ブルックリン在住。

新型コロナウィルス感染症の影響によりわれわれの日常が変わったのは、もはや周知のとおりである。

筆者の住むニューヨークでも、以前は医療施設などを除けばマスクをする人を見かけることはまずなかったが、感染拡大から1年半が過ぎ、ニューヨーカーもすっかり着用が慣れた様子だ。一方、ワクチン接種が浸透したおかげで夏前には市民生活も落ち着くかと思えたが、最近になり全米規模でデルタ株が広がる傾向を強め、感染の収束がいつになるのか見通せずいる。

将来や生活に対する不安や焦燥感がストレスとなり、心身共に疲労が重なる日常を乗り切ろうと、人びとはさまざまな方法でこうした問題を緩和しようとする。身体を動かすことやネットで仲間とチャットするといったことで気を紛らわせ、心理的負担の解消を図る人は少なくない。

エマ・クライン|EMMA CLINE

作家。1989年生まれ。米国カリフォルニア州で育ち、10代のころは短編映画『When Billie Beat Bobby』(2001年)と『Flashcards』(2003年)で演技をしていた。コロンビア大学在学中に執筆した短編小説「Marion」が『The Paris Review』誌に掲載され、プリンプトン賞を受賞。2016年にデビュー作となるチャールズ・マンソンらによる凄惨な事件を題材にした『The Girls』を出版(邦訳は早川書房より出版)。同作品で全米図書批評家協会のジョン・レナード賞とCenter for FictionのFirst Novel Prizeの候補になったほか、2017年に『Granta』誌のBest of Young American Novelistsにノミネートされるなど、米国の若手注目作家のひとり。

『ニューヨーカー』誌2021年8月23号掲載の米国人作家エマ・クラインの短編小説「THE ICEMAN」は、避暑地のホテルを舞台にパンデミックの影響が及ぶこの時代の“新しい”生活を、小説ならではと思わせる手法で描いている。

小説ならではと書いたのは、主人公であるホテル従業員の男性の深層心理が、巧みに、かつ丁寧に描写されるからだ。前述のように、身体を動かすなどパンデミックの下での生活に対処方法はいくつか挙げられるが、サムというこの従業員は感情を表面に出さないよう自身に抑制をかけながらも、彼の行動から胸のうちに潜むもの、その微妙な変化を読む側は汲み取ることができる。

サムの職場はプールサイドである。自然豊かな山々に囲まれた夏のリゾートホテルは宿泊客で賑わい、日光浴と涼風を求めて人びとがやってきては安楽椅子に寝そべる。そこへ飲み物を運び、彼らが立ち去ると、テーブルの後片付けなどの給仕をするといったルーティンを、サムは毎日淡々とこなしている。

職場でサムに割り当てられた役割は、やりがいを感じさせるものとは言いがたい。

宿泊客が楽しめるように、とホテルはプールサイドに特大のチェス盤を用意するが、サイズが大きすぎるのもあって、いつも利用する人間はいない。それでも、自身の仕事のひとつであることに変わりなく、サムはせっせと盤の拭き掃除をし、担当する職務のリストにチェックを入れる日々を送る。

刺激がなく取り立てて代わり映えのしない日常であっても、客を相手にするビジネスとなれば、予期せぬ出来事も起こる。突発的なことも冷静に受け止め、適切な判断に基づいて対処するのも自分に課せられた仕事とサムは了解している。

あてがわれる任務をてきぱきと片付けるプロフェッショナルといった印象を受けるサムだが、おそらく20代と思われるそんな彼も若い時期には無茶なこともやった。仲間と共に、改造バイクに乗って真夜中に繰り出したり、クスリを服用して気分を高揚させた経験もある。

しかし、ホテルで仕事を始めたのもあって、ここ2年ほどは以前のような羽目を外す生活に別れを告げ、“自制”の日常となった。食事はヴィーガンになるなど、生活面での変化を迎えたサムだが、そのなかにあって、ひとりのロールモデルを見つけたことが彼に大きな影響を及ぼした。

どんなに厳しい寒冷状態であっても、ショーツとサンダル姿で耐えられることで知られる実在のオランダ人パフォーマー、ヴィム・ホフは「アイスマン」の通称をもつ。日ごろの鍛錬によって、この特殊な能力を身につけたホフを見倣うサムは、外部からの力に決して屈しない、強靭な心身を備えることを決めた。

食生活を改めるといった試みと共にサムが目指したのは、精神面での向上だった。悩ましいこと、不安にさせることに動じない、忍耐力というよりは感情を押し殺し、麻痺させる状態に自分の身を置いて、退屈で、不快な思いをさせられる職場環境をしのごうとしていた。

PHOTO BY DAVID MYERS

そんなある日、ホテルに宿泊する1組の男女がサムの前に現れる。新型コロナウイルス感染症の蔓延がまだ続くというのに、マスクを着用することもなく、プールサイドでくつろぐ周囲の人たちの迷惑も顧みず、大声を上げて騒いでいる。

ホテルの同僚は、カップルが有名人に違いないと耳打ちするが、一風変わっているとは思うものの、サムの目には彼らが人並みはずれた容姿とは映らない。どちらかと言うと、どこにでもいそうな人たちに見えるのだが、なぜかこの騒々しいふたりが彼は気になる。

カップルから目が離せないのは、何か不始末を起こすかもしれない心配があるからだろう。自分たちだけならまだしも、ほかの宿泊客をトラブルに巻き込む可能性も否定できない状況が、サムの視線をそちらへと向かわせると考えて自然だ。

だが、これとは別に少なからずこの男女には憎めないところがある。もちろんそんな面倒をかけそうな人間が自分の客であったなら、貧乏クジを引いてしまった、早くどこかへ行ってくれないかなどと祈りたくなっても不思議でないのだが、サムがある種の親近感を抱いているのでは、と想像させる場面が出てくる。

こうした印象は、彼が自分の感情を封じ込んでいる状況に起因する。

感染がいまなお続く新型コロナウィルスと、マスク着用やワクチン接種などそれに絡んだ日々の予防措置。刺激も新味もないホテル従業員の仕事。辛抱強くなるためのメンタル面でのトレーニングを積むサムだったが、もし我慢の限界に達したらどうなるだろう? たがが外れ、これまでの鬱憤を晴らそうと抑え込んでいたものすべてを解放させれば、爽快な気分になれるだろうか? といった思いが、サムのなかで沸き起こり、駆けめぐっていたといったように見受けられる。

同僚が話したように、もしカップルがテレビに出るような人間とその彼女で、優雅に振る舞い、所持品が高級ブランドづくしであったのなら、おそらくサムもそこまで思うこともなかっただろう。だが、食料品スーパーのロゴが入るトートバッグに代表されるように、持ち物は人目の引くようなものでなく、ふたりの行動や素ぶりについてもスタイリッシュにはほど遠く、見るからにぎこちない。

そうしたカップルに、サムは積もり積もった感情のもつれが解き放たれた彼自身を重ねたのではないだろうか。羨ましさや嫉妬ではなく、自分ができないことを平然とするふたりに対し、この人たちも自制を強いられ、それが耐えきれなくなってここにいるとシンパシーや同胞意識をもったとも考えられる。

シンパシーを感じたのは、サムだけではない。

酒かクスリでもやっているのかと、サムや彼の同僚たちが疑いの目を向けるほど限度を超えてはしゃぐカップルだったが、それが災いしたのか、突発的な事故が起こる。座っていた男性が立ち上がろうとしたところ、足をすべらして、身体を地面に強打し、倒れてしまった。

いよいよ放置できなくなったサムはカップルの元へ歩んで手を差し伸べ、部屋までエスコートすると、自身を解放させようとしたのか、部屋に入ってマスクを外した。一方、服、下着まで脱いでベッドに入った女性は、隣に男性がいるのも気にせず、そんなサムをよく知る仲間さながら誘惑しようとする。

「『彼なら大丈夫』と女性は言ったが、そう話す相手はその男性であった。サムは“彼”であった。それが彼をわれに返らせた。この人たちは彼の名を知らなかったのだ。」(拙訳)

マスクを取り払い、自分をさらけ出したかのように思えたサムだが、向こうは名前どころか、素性も性格すら承知していない。ただ共に耐え難きを耐える点において共通し、互いにシンパシーを感じているにすぎなかった。

偶然に巡ってきたこのかりそめのつながりが、新型コロナウイルス感染症に苦しむ日常の鬱憤を晴らそうと、ソーシャルメディアを使って不満をぶつけ、同意を求め合ういまのわれわれを映し出すかのようで、哀れみと共に抱擁をも促す慈しみを覚えてしまうのだ。