1925年の創刊以来、時事と連関した良質なエッセイやノンフィクション、小説などを掲載し続ける雑誌『ニューヨーカー』は、英語圏で小説を書く者ならば、誰もが憧れる圧倒的な影響力をいまも誇っている。トルーマン・カポーティーやレイチェル・カーソン、JD・サリンジャー……とそこに名を連ねた名文筆家たちは枚挙に暇がない。
まさに米国文学の屋台骨ともいえるその誌面から、作家・新元良一が毎月ストーリーを厳選し、ひもとく当連載「『ニューヨーカー』を読む」。今月は2018年度のノーベル文学賞受賞作家、オルガ・ナヴォヤ・トカルチュクの「YENTE」を取り上げる。社会的弱者である女性たちが不幸に立ち向かうために“連帯”する力を描いた、短くも重厚な作品を読み解く。

PHOTO BY TOM STODDART

YENTE」|OLGA NAWOJA TOKARCZUK
舞台はポーランドのどこかの田舎町。ユダヤ系の人たちが集まる結婚式前夜で賑わう建物の一室で、イェンテという名の老婆がひとりベッドに横たわる。診察に訪れた医師は、彼女が死の床に伏せていることに気づく。なぜこのような体調にもかかわらず、連れてこられたのか訝しるが、しばらくするとイェンテに異変が起こる。そして、不思議な体験とともに自身の母の悲しき過去を知ることとなる。『ニューヨーカー』誌2021年9月20日号に掲載。
新元良一|RIYO NIIMOTO

1959年生まれ。作家、コラムニスト。84年に米ニューヨークに渡り、22年間暮らす。帰国後、京都造形芸術大で専任教員を務めたあと、2016年末に、再び活動拠点をニューヨークに移した。主な著作に『あの空を探して』〈文藝春秋〉。ブルックリン在住。

先日、2021年度のノーベル文学賞の発表があったが、よく言われるように、この賞の存在意義として、未読の小説家や詩人の作品に目を向けるよう促す点がある。今回、英国在住のタンザニア人作家アブドゥルラザク・グルナの受賞が決まったが、まだ彼の作品に馴染みのない筆者は、読む楽しみがひとつ増えた。

小説の読書には著者を特定し、集中してその作品群に目を通す楽しみがある。その一方で、ノーベル文学賞を獲得するような書き手の、異文化に根ざした作品との出会いのなかで、刺激や気づきといった贈り物をもらう、そんな思いを抱く機会も少なくない。

『ニューヨーカー』誌2021年9月20日号掲載の、18年度のノーベル文学賞受賞作家オルガ・ナヴォヤ・トカルチュクの『YENTE』は、まさにそうした贈り物を手にできる短編小説だ。ポーランド出身のトカルチュクだが、小説家としてデビューしたのが1993年というから、その執筆活動は30年近くに及ぶ。

オルガ・ナヴォヤ・トカルチュク|OLGA NAWOJA TOKARCZUK

小説家、エッセイスト。1962年生まれ。ワルシャワ大学で心理学を学んだのち、セラピストとして働き始めるも、英国に渡り別の職に従事する。89年に社会主義体制が崩壊した母国に帰国し、93年にデビュー作『The Journey of the Book-People』を出版。同作品で「Polish Publisher’s Prize」を受賞。文学専門の出版社「ruta」を設立し、2003年以降は執筆に専念している。08年には『逃亡派』でポーランドにおいて最も権威がある文学賞「ニケ賞」を受賞するほか、同作品の英訳版でポーランドの小説として初のブッカー国際賞を受賞。19年に18年度のノーベル文学賞を受賞している。

ここ最近、『ニューヨーカー』誌で“いま”を時代設定とする作品を読んできたのもあるのだろう、スマートフォンも、ソーシャル・メディアも、そして新型コロナウィルス感染症も登場しない本作は、明らかに異彩を放つ。具体的な年代の記述はないが、ポーランドのどこか田舎町でのユダヤ系の人たちによる結婚式前夜の様子、出席する人びとの佇まいや、馬が交通手段といった生活スタイルは遠い昔を想像させる。

では、古色蒼然とした時代錯誤をにおわす小説かといえば、それとはまったく正反対と位置付けることができる。人間の死という普遍的なモチーフを用いつつ、現代だからこそ書かれたと感じさせる小説世界を描く。

小説の冒頭、ひとりの医師が建物の中を案内される。敷地内では台所で働く女性たちの声が聞こえ、調理する匂いが漂うが、男たちは彼女たちと一緒の様子はなく、別室にてまるで口論でもしているかのように、激しいトーンで言葉をぶつけ合う。

やがて医師が足を止めた小さな部屋は、数人の若い女性が近く始まる結婚式の準備をしていて、その脇に置かれたベッドでは老婆が横たわっていた。彼女の親戚である女性たちからの挨拶を受けた男性医師は、この老婆がまるで年老いた鶏のようやせ細っていることから、死の床に伏せる状態であるのに気づく。

こんな体調にもかかわらず、なぜこの人たちは老婆をここへ連れてきたのか? と医師は訝った。

そして祝いのセレモニーには、イェンテという名の老婆以外にも招待客が来ていた。遠方よりはるばるやって来た夫妻は、近く妻が出産の予定である。夫より随分と若い彼女は、やせ衰えたイェンテの姿を目にし、まるで魔女のようだと恐れを抱くが、周囲の人たちに勧められ、彼女が横たわるベッドに腰を下ろした。

するとイェンテの手が伸び、この新妻のお腹に当てられる。懐妊してまだ日が浅いため、彼女のお腹は出ておらず、身ごもっていることも伝えていなかったが、イェンテはそこに新しい生命が宿っているのを感じ取っていた。

結婚式が間近に控えているのもあって、女性ばかりの部屋は賑やかである。すぐ側に生死をさまよっている老婆がいるというのに、われを忘れるほど彼女たちはおしゃべりに夢中になるが、そんな状況に当のイェンテも気に障るふうでもなく、むしろ喜んでいるかのような表情を浮かべる。

そうこうするうちに、彼女たちの間で亡霊の話題が上がった。悪魔の霊がそこらかしこに居ると誰かが告げると、別の誰かが「どこに?」と訊ねるのだが霊は姿を現そうとしない。

しばらくして、ベッドで横たわるイェンテに異変が起こる。前述の医師がお守りを彼女の身体に装着したところ、笑顔は浮かべているものの、生きている様子をまったく示さない。

PHOTO BY SARAH MORRIS

そこから、小説の語りはイェンテの内側、つまり精神面へと入っていく。

彼女がいる小さな部屋に、ダンスを踊る音、高揚した声など、別室で行なわれる結婚の宴の賑わいが音となって届く。どんな様子なのかと好奇心を抱くと、自身が身体から抜け出て浮遊する、いわゆる幽体離脱を体験していることに彼女は気づく。

肉体の彼女は目を閉じているのだが、精神のイェンテはあらゆるものを知覚できるようになる。「風」という言葉が自分のなかから聞こえてくると、それに乗って彼女は結婚式が執り行なわれる家から飛び出し、あてもなく彷徨いはじめる。

気づくと、浮遊するイェンテの前には田舎の風景が広がっている。そこに若い女性がひとりで歩いていると、馬にまたがった男たちがどこともなく現れ、彼女を取り囲んだ。

あまりに突然の出来事で、女性は逃げ去ることもできず、ただ立ち尽くし狼狽するしかない。見も知らぬ男たちに怯える彼女に、その男たちは襲いかかり、乱暴を働くのだが、わずかな時間でそれぞれの性欲を満たすと、すぐさま馬にまたがり立ち去って行った。

暴力的な場面はショッキングではあるが、さらに衝撃的なのは被害に遭った女性がイェンテの実の母親と明かされるところだ。

イェンテは若いころ、姉たちに対して、母がいつも近くで目を光らせているのを知っていたが、その裏にはこうした事情があったことを知る。自分が経験した酷い仕打ち、不幸な出来事をわが娘に経験させたくない強い思いからの行動だったが、そんな母は家族の誰にも悲しい過去を告げず、秘密を胸にしまい一生を終えた。

その家族で、11番目の子どもとして育ったイェンテだが、彼女の父親がつけた名前は、「知らせ(news)を広げる女性」や「ほかの人たちを教える女性」といった意味をもつ。自分が7歳のとき、母親は出産により息を引き取ったため、女性の生き方を教わることはなかったが、代わりに従姉や叔母、さらには祖母たちの助けを借り、このコミュニティのなかでイェンテは育っていった。

ページ数にして5枚と、『ニューヨーカー』誌に掲載される小説としては比較的短い作品ながら、スケールの大きさを伝える読み応えを感じるのは、歴史の重さからだ。もちろんその重みは、社会で女性が虐げられてきた過去に立脚しているのだが、ただ彼女たちは悲しみに暮れるのでなく、そうした不幸に立ち向かう力を顕在化させる。

その力の根源が、“女性の連帯”である。結婚式になぜこれほど体が衰弱するイェンテを連れてきたのか、医師が疑問を抱くと書いたが、女性たちの共同体とも呼べる強固なつながりが、その場に老婆の存在を求めたからであり、それはまた#MeTooムーヴメントで結束する、現代の女性たちの姿とも重なる。

自分より若い世代の女性にとって、イェンテはいわばヴェテランの教師の立場にある。そんな彼女も、コミュニティでこれまで生きてきた先輩の女性たちから受け継いだものを、人生の残り少ない時間で、後輩の女性たちに授けるため、結婚式へ来たという考えは説得力があり、さらに妊婦のお腹をその手でさわったのも、生まれてくる子が娘と認めたからだろう。

イェンテや女性たちによって継承され、次世代に伝播するものが何であるか。作者は明確な答えを提供していない。一方で、医師がイェンテの首に置いたはずのお守りが消え、看護を手伝っていた彼の娘が「老婆が食べた」と告げたとき、医師の反応が示唆的に描かれている。

身震いすると、彼女の父親は沈黙する。無力感とともに彼が口を開くと、絶望が言葉となって昇華する。もう彼女が死ぬことはない、と。(拙訳)

“絶望”とは、イェンテが迷わず神に召されてほしい思いから、お守りに「待っている(waiting)」と書いた医師の願いが、叶わぬものとなったことを意味するのだろう。だがそれより気になるのは、医師のふと漏らした“死ぬことはない”というフレーズだ。

誰の人生にも限りはあるものだが、その限界を乗り越え、いつまでも生きながらえる精神的な屈強さが、このフレーズから浮かび上がってくる。

それは、どの女性たちも各々の時代に生きてきた証のようなものかもしれない。同胞たちにより、決して消し去られることなく時代をまたいで語り継がれていく確かな存在。そうしたものを支えるのが、女性の連帯であるのは言うまでもない。