パルル・セガル|PARUL SEHGAL

『ニューヨーカー』スタッフライター。以前は『ニューヨーク・タイムズ』の書籍評論家、シニアエディター、コラムニストを務めた。批評がニューヨーク・プレス・クラブ賞および全米図書批評家協会賞を受賞。ニューヨーク大学大学院のクリエイティヴ・ライティング・プログラムで教鞭をとる。

絶望の時間だ。その作家はがっくりと座り込んだまま、望まれる瞬間の訪れをじっと待っている。日が沈む。作家は机に顔を伏せる。プロットが──プロットが必要なのだ。貪欲にストーリーを求める大衆にとって、彼の精緻な観察眼や繊細な人物描写に用はない。プロットこそ、出版社が要求し、妻が早く書いてと急かすものなのだ。いまや養うべき子どももいる。ゆっくりと、惨めな気分で、彼は自らの身からえぐり取るように言葉を絞り出す。

ジョージ・ギッシングが1891年に発表した小説『New Grub Street』(邦訳『三文文士』)は、いつの時代にも当てはまる作家生活を極めて無慈悲なかたちで描き出す作品だ。貧しくも勤勉な物書きたちや文筆活動に関わる「インクまみれの女性たち」がロンドンを舞台に繰り広げるこの物語で、エドウィン・リアドンは精神と家計を崩壊させながらもどうにか売れるを書き上げようと奮闘する。

しかし、口のうまい実利主義者の友人ジャスパー・ミルヴェインは彼の努力を無駄な苦労だと考える。「このごろの文学は商売さ」とミルヴェインは言い、世間にうまく媚びる手段を講じる。読者が何を求めているのかを探り、とにかくそれを当世風に効率よく提供すればいいのだと。

リアドンを苦しめるのは、低すぎる文字単価、自信喪失、ライヴァルの順調な成功など作家にとってのよくある悩みに加え、ヴィクトリア朝時代の当時に主流だった「3巻本」という小説出版形式の制約もあった。シャーロット・ブロンテ、ジョージ・エリオット、ベンジャミン・ディズレーリ、アンソニー・トロロープなどの作家の作品の多くが採用したこの3巻本形式は、たいてい八つ折判で900ページほどある本を300ページずつに分けて立派に印刷・製本するというものだった。

「これら3巻本が目の前に鎮座する姿は、まるで果てのない砂漠のようだ。最後まで到達するのはとうてい無理だ」とリアドンは嘆く。このような嘆きはギッシングが自らの日記から引用したものだ。『New Grub Street』自体、ギッシングの8作目の3巻本であり、あらゆる手を尽くしながら息を切らすようにして長さを延ばしていた。トロロープは当時の文学を「水増し商売」と呼んだ。

様式は流通形態の後を追う

3巻本は高級品であり一般の読者がそのまま購入することはできなかったので、英国の書籍流通市場において巨大な存在であったミューディーズ貸本屋(Mudie’s Select Library)がその消費を支えた。

多くの部数をまとめて購入することで出版社に相応の割引を要求できる創始者のチャールズ・エドワード・ミューディーにとって、3巻本の魅力は明らかだった。彼の貸本の購読者(少なくとも基本年会費の1ギニーのみを支払っている利用者)は1度に1冊しか借りられなかったので、3巻本なら3倍の購読者に同時に貸し出せるからだ。同様に出版社も印刷費を調整できるこの形式を好んだ。第1巻に興味をそそる魅力が詰まっていれば続く巻への需要を喚起し、それらの印刷費の元手になった。

ヴィクトリア朝時代の小説に際立って見られる特徴の大半は、「果てのない砂漠」を埋め尽くして読者がそこを踏破できるよう導くことを目的に仕込まれているように思える──3幕構成、膨れ上がるサブプロットと大勢の登場人物、衝撃的なクリフハンガー[編註:続きの気になる展開]、900ページにわたって読者の記憶に残るように登場人物の個性を表す名前やキャッチフレーズなどがその例だ(例えばディケンズは『ハード・タイムズ』のなかで、ある成り上がり者(bounder)を恥ずかしげもなく「バウンダービー」と名付けている)。

架空の人物の自伝や伝記──『ヴィレット』『ジェーン・エア』『アダム・ビード』など──は3巻本に求められる要素とうまく調和した。人の生涯を描くストーリーは、いくらでも話を脱線させながらなお全体の統一感を保てるからだ。

3巻本の人気は19世紀末まで続いたが、その頃になるとミューディーズは本の供給量の多さにうんざりし、出版社に単行本小説の出版を求めるようになった。そうしてパルプ紙に安く印刷されたマスマーケット・ペーパーバックが出回り始めると、新たな小説形式が生まれ(いわゆるパルプ・フィクションだ)、独自のルールのもとに独自の魅力や仕掛けで読者を引きつけた。

しかし小説の歴史において様式は、雑誌での連載からオンライン販売に至るまで、常に流通形態の後を追って変化してきた。著書『Everything and Less: The Novel in the Age of Amazon(すべてのものと足りないもの:Amazon時代の小説』[未邦訳]のなかで文学研究者のマーク・マクガールは、巨大企業アマゾンの誕生が小説の入手法だけでなくその読み方や書き方をどのように変容させたか、さらにその理由を考察する。「近年の文学史においてアマゾンの台頭は未曾有の重要な変化であり、現代の文学的生活をオンライン小売業の付属物につくり変えようとする試みを象徴している」と彼は主張する。

文学史への最も劇的な介入

アマゾン創業者のジェフ・ベゾスが好んで言及するように、アマゾン川は世界最大の川であるだけでなく、その流域面積は2位から6位の川の合計よりも大きい。そこから社名をとった同社は、『ウォール・ストリート・ジャーナル』によると、2019年には子ども向けを除く新刊書籍のオンライン販売の4分の3近くを、すべての新刊書籍販売の半分近くを支配していた。

ミューディーズとは異なりアマゾンは出版社でもあり、16の出版レーベルを有している。そのひとつであるAmazon Crossingは現在米国で最も多くの翻訳文学作品を出版しており、同じく傘下のAudibleは最大のオーディオブック配信サーヴィスである。13年にアマゾンが買収した読書系SNSのGoodreadsは1億人以上の登録ユーザーを抱え、マクガールは「文学的生活の足跡を集めた宝庫としては、世界中のほぼすべてのKindle端末から本部に送られる詳細なデータ群に次ぐ、史上最も豊かなリポジトリ」かもしれないとまで表現する。

しかし、彼が「文学史への最も劇的な介入」と考えるのは、同じくアマゾンの一部門であるKindle Direct Publishing(K.D.P.)だ。このサーヴィスを使えば著者は従来の門番を回避して作品を無料でセルフ出版でき、一方でアマゾンには収益のかなりの割合が入る。

テッド・ストリファスやリア・プライスなどの書籍史家が述べるように、本が商品であるという概念はいまに始まったものではない。信用取引が誕生してまず掛け売りされたのは書籍だ。また、書籍は早くからバーコード化されたおかげでコンピューター上で在庫管理ができたため、オンライン販売に適していた。しかし『Everything and Less』はこの歴史に軽くしか触れない。マクガールの主な関心は、アマゾンの触手がいかにして読み手と書き手の関係に入り込んできたかを描くことだからだ。

その現状を最も顕著に見られるのがK.D.P.である。このプラットフォームにおいて著者は読まれたページ数に応じて収益を得るため、早い段階でクリフハンガーを入れ、できるだけ速く多くのページを書き上げようという強い動機が働く。そのため作家には、1冊の本やシリーズというよりもSNSのフィードに近いもの(マクガールは「シリーズ・オブ・シリーズ」と呼ぶ)を生み出していくことが求められる。

K.D.P.の販促アルゴリズムを充分に活用するなら著者は3カ月ごとに新しい小説を出版しなければならないとマクガールは言う。この作業を支援するための本も新たなジャンルとしてセルフ出版により誕生している。そのひとつ、レイチェル・アーロン著の『2K to 10K: Writing Faster, Writing Better, and Writing More of What You Love(2000から1万へ:もっと速く、うまく、多く、あなたの好きなことを書く方法)』[未邦訳]は、1、2週間で小説を書き上げるテクニックを説く。

あからさまに質より量を重視するK.D.P.だが、独自の基準はいくつか設けている。アマゾンの「Kindleコンテンツ品質ガイド」は、誤字脱字、「フォーマット上の問題」、「コンテンツの不足」、「期待外れのコンテンツ」(とりわけ「楽しい読書体験を提供しないコンテンツ」)がないようにと著者に呼びかける。いつの時代もがっかりさせる内容が読者との“約束”に違反してきたことは間違いないが、ベゾスのつくる世界ではそれが文字通りの契約条件となっている。“著者”は死んだのだ。生きながらえるのはサーヴィス提供者である。

「デジタルな存在とは液体的な存在」

一方で読者は現代市場の消費者へと生まれ変わり、その市場において最も大切なのは特定の欲求をいかに正確かつ確実に満たすかである。「デジタルな存在とは液体的な存在であって、母乳のように、必要とされるところに流れていく」とマクガールは述べる。これはまさに、ビル・ゲイツがインターネットによって実現されると約束した「摩擦なき資本主義」の姿だ。

しかし、商品の手に入れやすさはそれ自体が美学になりうるのだろうか? 評論家のロブ・ホーニングは摩擦の回避そのものが「ひとつのジャンル」になっていると言う──「読みやすい本」「聴きやすい音楽」「落ち着く感じ」「いい雰囲気」などだ。Amazonの場合はさらに狙いを定めて容易な消費を約束する。単に読みやすい本だけでなく、特にあなたにとって読みやすい本をアルゴリズムが選び出してくれるのだ。

だからこそマクガールは、いまや新たに生み出されるフィクションの大半を占めている大衆小説の爆発的増加に注目する。そこに見られるのは、アマゾンのサーヴィス精神、すなわち「地球上で最も顧客本位の企業」になるという決意と本とが交わる河口だ。

もちろん、ジャンル分けは昔から書籍のマーケティングにおける原則である。空港の売店の回転棚に並べられた本の表紙で輝くエンボス加工のタイトルは、ロバート・ラドラムが書くようなスリラーやノーラ・ロバーツ系の恋愛ものを求めるそれぞれの読者の欲求を確実に満たすと約束する。しかし、アマゾンはこのようなターゲティングをさらにひとつ上のレヴェルに高めている。ロマンス小説の愛読者だけでも、「クリーンで健全」「パラノーマル」「晩年の恋」などに好みが分類されるのだ。

そして、ユーザーの購入履歴を詳細に把握しているアマゾンはその情報に応じた提案をする。このような「マイクロジャンル」に分けることで、極めて的を絞った質を約束すると同時に、量を提供するというアマゾンの目的達成にもつながる。ジャンルの存在が確実に保証してくれるものを考えたとき、Kindleの底なしのライブラリを埋めるために延々と入れ替わり続ける本を分類する枠組みにヴァリエーションを与えるという他に何があるだろうか?

各タイトルを詳細なカテゴリーに整然と分類するAmazonにおいて、ジャンルは著者が自分の著書を“発掘”してもらううえで特に重要な鍵を握る。しかしこの状況についてマクガールは実に淡々と語る。この細かいジャンル分けによってもたらされかねない圧力、つまり一部の本のみがユーザーにおすすめされなくなったり、おすすめされる本が均質化したりする可能性について彼は懸念しない。Amazonは読者が望む本を提供するのだという前提を中心に据える彼の好奇心の矛先はむしろ、それらのジャンルが果たす機能、つまり各ジャンルが満たそうとする「ニーズ」を見定めることにあるのだ。

乱読や“粗悪な”読書と結びつけられることもあって毛嫌いされがちなロマンス小説について探るなかで、マクガールは同じような内容を繰り返し求めることがなぜ嘲りの的になるのかと問う。結局のところ多くの喜びは繰り返しから生まれるものであり、読書ほどそれに当てはまるものはないのではないかと彼は指摘する──みな子どものころは同じ物語を何度も聞きたいとねだるものだ。

フィクションの歴史と制度との関係

ある意味、マクガールも同じ物語を追い続けている──米国のフィクションの歴史を、各時代の制度との関係性という視点からずっと見てきたのだ。01年出版の著書『The Novel Art(小説という芸術)』[未邦訳]では、読み書きが普及した時代にモダニズム作家が自らの作品を慎重に大衆小説と区別しようとしたことでフィクションが高尚な芸術へと地位を高めた経緯を検証している。09年出版の『The Program Era(プログラムの時代)』[未邦訳]では、戦後文学における文芸創作教育の重要性およびその教育が文体に与えた影響について考察する。

読書と教育を通じて形成される、階級、悦び、大衆文化に対する米国特有の心地悪さをマクガールはよく理解している。そして、ジャンルおよび主流の研究や批評において長年見過ごされてきたマイクロジャンルを『Everything and Less』で探るなかで、その理解は彼にとって人類というものを学ぶ大いなる喜びへと変わる。

あらゆるジャンルが入り乱れるその世界でマクガールは、奇妙な魅力、現実離れした実験的試み、歪んだ政治的ユートピア、さらには甘美さを発掘する。『Bigfoot Pirates Haunt My Balls(ビッグフットの海賊がぼくのボールに取り憑いた)』[未邦訳]など、「ティングラー」と呼ばれる奇抜なゲイポルノ作品で有名なチャック・ティングル博士の著書にも言及する。

また、ペネロペ・ウォードとヴィ・キーランド共著のロマンス小説『Cocky Bastard(うぬぼれ男)』[未邦訳]も彼を魅了した(「文学という分野に正義はない。この小説は、くだらない『Cocky Roomie(うぬぼれルームメイト)』[未邦訳]はもちろん、『フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ』よりもはるかに優れた作品であり、真のユーモアセンスを備え、盲目の子ヤギという相棒役も登場する」と彼は述べる)。

マクガールはK.D.P.の世界の奥地に「日和見的な文学開花」があると語る。例えば『The House of Enchanted Feminization(魔法の女体化ハウス)』[未邦訳]で描かれるグループセックスは、「エロスの共産化とはいかないまでも、急速な集団化および共同体化」を象徴しているという。

すべての乱交が「共同体」ではない

マクガールにとっては、どこに目をやってもAmazonにかかわる寓話が見つかるようだ。最も需要の大きいジャンルとして彼が挙げるゾンビ系フィクションは、Amazonから見た顧客、つまり飽くなき食欲を象徴していると言えまいか。

一方、おむつプレイ(Adult Baby Diaper Lover、A.B.D.L.)を扱う本は「Amazonの真髄とも言うべき文学ジャンル」かもしれないという。このジャンルの典型的なストーリーは、マミー・クレア著の『Seduce, Dominate, Diaper(誘惑、支配、おむつ)』[未邦訳]のように、アルファ[編註:ハイスペックで有能な男性]系主人公がヒロインから母親のように世話をされ征服されて至福を味わうというパターンである。

こうした男性の幼児化は、幼子を大切に育てるすべての母親と同様に「要求が生まれてからそれを満たすまでの時間をできる限り短く」しようとするAmazonへの顧客の依存を寓意しているという。また、“ママ”という存在にはお仕置きや拘束というスリリングな優位性が伴うため、「顧客に対するAmazonの執着が、究極的には市場支配力に対する投資であることを思い出させる」。

マクガールの主張自体にも奇妙な魅力はある。だが、常に首尾一貫しているわけではない。気づけばわたしは厳しい筆致で「すべての乱交が『共同体』であるわけではない」とメモしていた。

K.D.P.で活動する作家が「成功している」とする彼の考え方にも疑問がある。セルフ出版をしている作家を対象にしたある調査によると、半数は年間500ドル(約5万8,000円)も稼げていないのだ。しかしマクガールはK.D.P.作家たち本人の声を載せていない(セルフ出版の非公式スポークスマンとも言える人気SF作家ヒュー・ハウィーだけは別だが)。

マクガールはそうした作家たちの起こす革新については語るが、彼らの金銭的な現実については語らない。現代のエドウィン・リアドンたちはどうしているのか? これほど多くの人が執筆によってこれほど稼げなかったことはかつてない。そもそも、Amazonをプラットフォームとして利用することに疑問を抱いたり、騙された、搾取されたと感じたりしている作家の話も聞かない。

マクガールによる“扇情”

もっとも、マクガールの目的は説得というよりもむしろ煽情だ。彼が行なうのは自説の主張ではなく、ほのめかし、からかい、かく乱である。条件をつけて思考実験を行ない、後からそれを事実として述べることも平然とやってのける。「もっともこれは推測の域を出ない」「もちろんこれは拡大解釈だが」など、彼の矢筒には修飾語句が満載だ。

文学カルチャーの変容におけるAmazonの優位性という命題でさえ、さりげなく引っ込ませておきながら(それは「これまで充分に検討されてこなかった一連の現実を浮き彫りにするかたちで、現代フィクションをめぐる物語に輪郭を与える手段」でしかないという)次のページで再び主張される。自己弁護も次の言葉でしっかり組み込まれている──「完全に首尾一貫している人間などいるだろうか?」

矛盾や小さなミスも募っていく。ステファニー・メイヤーの『トワイライト』シリーズは3部作ではない。マギー・ネルソンの『The Argonauts(アルゴナウテス)』[未邦訳]は回顧録であってオートフィクションの例にはならない。「bemused(困惑した)」は「amused(楽しんでいる)」の同義語ではないし、マックス・ヴェーバーがプロテスタント資本主義者たちの「acetic(酸味)」だの渋みだのについて指摘したとは言い難い[訳注:マクガールの著書においてaceticはascetic(禁欲的な)の誤字と思われる]。

冒頭で論じる主張にさえ誤りがある。アマゾンの台頭を描き13年に出版されたブラッド・ストーン著の『ジェフ・ベゾス 果てなき野望』を引き合いに出し、「この会社の存在は、ベゾスがカズオ・イシグロの文芸小説『日の名残り』を読んだおかげだと言っても、まるでおかしいということはないだろう」と述べる部分だ。

つまり、ベゾスが投資会社を辞めたのは、ある英国人執事が他人への奉仕のために自分の人生を浪費してきたことに気づくその物語を読んだ後であるというのだ。しかし、彼が実際に『日の名残り』を読んだのはアマゾンを立ち上げてから1年後である。

当時の妻マッケンジー・ベゾスはAmazon上で『ジェフ・ベゾス 果てなき野望』のページに900字に及ぶ星1つのレヴューを残し、「ジェフとわたしは結婚して20年になりますが」と冷ややかな口調で自己紹介したうえで本の内容を訂正している。同書のそれ以降の版でこの誤りは修正されたが、マクガールの著書にはそのまま残り、Amazonそのものを「文学的試み」として仕立て上げようとする彼の熱意をさらけ出している。

160万タイトルのセルフ出版

マクガールの言うこの「文学的試み」において、純文学はどこに位置づけられるのだろうか。彼は純文学もひとつのジャンルとして考え(「議論の余地ある解釈上の問題」を取り扱うことをひとつの特徴に挙げる)、大衆向けロマンスとも重なる部分を見出す。

『フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ』のようなロマンスのいたるところに「アルファ・ビリオネア」系のハイスペックな男性が登場するのと同様に、アデル・ウォルドマン著『The Love Affairs of Nathaniel P.(ナサニエル・Pの恋愛事情)』[未邦訳]のような文芸作品には「ベータ・インテリ」系の男性キャラクターがたびたび見られるという。資本主義にほどよく懐疑的で、フェミニズムに通じ、いつも自分のことで精いっぱいのベータ・インテリは、支配的なアルファとは異なり、女性に鞭打って「時間を無駄にする」ようなことはしないとマクガールは述べる。

このようにどこか遊び心のある観察はマクガールの得意技だ。しかし、なぜもっと深くにまで目を向けないのだろうか。純文学というひとつの経済や出版コングロマリットの影響について彼はほとんど言及していない。「チーターが病弱なガゼルを狙うやり方でアマゾンも小規模出版社にアプローチすべきだ」というベゾスの発言から「ガゼル・プロジェクト」と名付けられた、独立系出版社をターゲットにするアマゾンの計画についてもさらりと触れるだけだ(のちにアマゾンの法務顧問団はプロジェクト名を「小規模出版社交渉プログラム」に改名させた──いっそう恐ろしい響きをもったようにも思えるが)。

Amazonがいかに「小説過剰の時代」の到来を告げたのかをマクガールが考慮しない限り、純文学作家を適切なかたちで彼のストーリーに登場させることはできない。18年にはおよそ160万タイトルの本がセルフ出版されたと言われ、これは従来的な出版社から刊行された数万タイトルに加えての数字だ。この本の洪水のなかで作家はどう仕事をしていけばいいのか。

ただ、この苦境もまったく新しいものではない。『New Grub Street』では、「インクまみれの女性たち」のひとりが彼女の時代の本の氾濫に思いをめぐらせて嘆く様子が次のように描かれている。「一生かけても読み切れない量の優れた文学作品がすでに世界中に溢れているというのに、日々市場に出回る商品としかみなされない印刷物の生産のために自分は身を粉にして努力している。言葉も失うほどの愚行ではないか!」

陰鬱な自虐の空気

これに対してマクガールはふたつの戦略を挙げる。大量供給の流れに乗じてマキシマリズム(過剰主義)に走り叙事詩を書くか、時代に抗いオートフィクションを活路にして作家の数にまで業界を縮小させるかである。

しかし、彼が前著の『The Program Era』でも同様の主張をしており、戦後の作家たちは芸術学修士の授業で感じる階級的不安に対処するためにマキシマリスト(ジョイス・キャロル・オーツを例に挙げる)かミニマリスト(レイモンド・カーヴァーなど)になったのだと述べていたことを思い出すと、今回はいくらか輝きが失われる。さらにほとんどの純文学がいずれの主義にも当てはまらないことを考えると、いっそう錆びついて見える。

それでも、すさまじいほどの本の過剰供給は現代の多くのフィクション作品に陰鬱な自虐の空気が充満している一因として考えられるだろう。かつてソール・ベローは、小説家は人間の本質を定義しようとすることで自分の作品が存在し続けることを正当化すると言った。しかし、最近の小説が特徴とするのは“屈辱”だ。

サリー・ルーニーの『Beautiful World, Where Are You(美しき世界よ、どこにある)』[未邦訳]の主人公アリスは大人気作家だが、自分の本は「道徳的にも政治的にも無価値だ」と感じている(ちなみに恋人はアマゾンの倉庫のような場所で働いている)。トニー・トゥラティムットの『Private Citizens(民間人)』[未邦訳]で作家になろうともがくリンダは「どんな文章が生き残るのか」と沈んだ思いをめぐらせ、アンナ・モスコヴァキスの『Eleanor, or, The Rejection of the Progress of Love(エレノア、あるいは愛の進展の拒絶)』[未邦訳]では物語の語り手である作家が原稿に手を焼きながらこう語る。「わたしは自分の本について、独創性に欠ける特徴をいくつも挙げた。エピソードの構造、後期資本主義における個人の疎外感を追う平凡なストーリー、その他諸々である。しかし本当に恥ずべきだと感じたのは、少しでも読み手について想像してしまったことだ」。

インターネットを介した著者と読者の身近さ

この不安を確実に煽っているのは、インターネットを介した著者と読者の身近さ、つまり、まさに本が販売される場所に読者が星やコメントを簡単につけられることだ。そして、ギッシングが3巻本の執筆に苦労したことが彼の3巻本小説のネタとなったように、読者が身近になった時代における著者の不安もそれ自体が現代の純文学を特徴づけるテーマとなっている。

Amazonはその身近さを助長することによって(小さな出版社を追い詰めて圧迫し、書店よりも安売りをし、競争相手を潰してきたことは言うまでもなく)、ある意味すべての作家を同じ出版戦略で活動するK.D.P.作家にしてしまった。確かに作家はいつの時代も注目されようと努力してきたが(ギー・ド・モーパッサンは新作の短編小説を宣伝するためにセーヌ川の上に熱気球を飛ばしたこともある)、今日の作家の多くは、マキシマリスト、ミニマリスト、中道派にかかわらず、軽い口調で最新情報を流し続け、公式発表も「フレンドリー」に行ない、ニュースレターを配信し、自虐を交えた直接的なアピールなどをして読者を引きつけ関係を育むことが義務だと感じている。

それは自己認識の声であり、ローレン・オイラーが著書『Fake Accounts(フェイク・アカウント)』[未邦訳]で読者の期待を制御するかのようにある項に「中間(何も起こらない)」と皮肉なタイトルをつけたことからもその声が聞こえてくる。あるいは、クレア・ヴェイ・ワトキンス著の『I Love You but I’ve Chosen Darkness(あなたのことは愛しているけどわたしは暗闇を選んだ)』[未邦訳]に物語の語り手として登場する小説家を悩ませるような自己不信の声でもある。その小説家は自分の仕事に対する自信が腐敗していくのを感じ、朗読会のための移動中に逃亡する。E・M・フォースター著の『ハワーズ・エンド』の題辞には「ただ結びつけることさえすれば……」とあるが、Amazonはさまざまなものを結びつける様式、手法、必須条件を作家に指示する力をますます強めている。

それでも、『Everything and Less』はひとつの物語を語ると同時に別の物語を成立させているようにも思える。マクガールはAmazonの時代に小説が商品と化してしまったことについてあらゆる方向から詳細に分析するが、読者にはまったく別のものも見えてくる──小説が商品化しえないあらゆる理由である。小説は根源的に私的な存在であり、それこそがこの本の真の物語なのかもしれない──いわゆる文学生活の片隅に乗り込んでみたところ、期待していた以上のものを発見して驚き歓喜したマクガールの話なのだ。それこそが、つまり、なかに何があるのか完全にはわからないまま足を踏み入れなければならないことが小説の本質であろう。所有しているだけでは真に自分のものにはならないのだ。