スティーヴン・レヴィ

ジャーナリスト。『WIRED』US版エディター・アット・ラージ(編集主幹)。30年以上にわたりテクノロジーに関する記事を執筆しており、『WIRED』の創刊時から寄稿している。著書に『ハッカーズ』『暗号化 プライバシーを救った反乱者たち』『人工生命 デジタル生物の創造者たち』『マッキントッシュ物語 僕らを変えたコンピュータ』『グーグル ネット覇者の真実』など。

コンスタンティン・ボロディンは耳オタクだ。10年以上にわたり、専門的に、かつ文字通りに人の耳を覗き込んできた。社交の場でも気づけば耳に視線がいってしまう。「変な目で見られることもあります」と彼は言う。

ボロディンと出会ったのは、波を拾う特注イヤホンをつくるために彼に耳と外耳道のサイズを測ってもらったときだ。通常、型をつくるためには温かい蝋状の物質を耳に流し込む必要があるが、ボロディンはレーザーで正確な寸法を測る「eFitスキャナー」という装置を使う。VRヘッドセットのOculus Questほどの大きさのこのスキャナーには、ふたつの接眼レンズと長い針のような金属製のノズルカメラが付いている。

わたしは消毒用アルコールで耳を拭き(てかりを抑えるためだという)、ボロディンに促されてスツールに座る。さらに彼の指示で、頭を器具の中にはめ込む。「こうすれば固定しやすいので」と言いながら、ボロディンが両手でスキャナーを握ったまま素早く近づいてくる。そしてわたしの頭を傾け、左耳に狙いを定める。「そのまま動かないでください」

「これまで何回測定してきたんですか?」とわたしは尋ねた。

「3万回以上ですね」と彼は答える。それほど多くの耳を見てきても、同じものがふたつとないこと、鼻と耳だけは年齢と共に成長する器官であることなどにはいまだ驚きを覚えるという。しかし、このフィッティングのために彼とわたしが会った理由は、また別の有用な使い道にある──耳は脳の声を聴くのに最適な位置にあるのだ。

身近なガジェットで脳波をモニターする未来

ボロディンは、eFitを開発した企業で同スキャナーの担当責任者を務めた後、現在はグーグルで生まれその持株会社アルファベットのX部門から独立したスタートアップ、NextSense(ネクストセンス)で耳の探求を率いている。

NextSenseは脳の健康に焦点を当て、睡眠の改善、てんかん患者の支援、そして最終的にはさまざまな精神状態にある人々の生活を豊かにすることを目指している。そのために、脳の活動の分析に一般的に用いられる脳波を、イヤホンで読み取ろうというのだ。心電図が心臓の細動を追跡するのと同様に、脳波を見ることで脳の活動の異常を診断できる。アップル、サムスン、フィットビットなどのスマートウォッチには心拍計を搭載して睡眠をモニターしようとするものもあるが、自宅で神経データを収集することはほとんどできていない。これまでは。

ミネソタ大学ダルース校の神経学者で、こうした機器の研究を行なってきたアーシャ・カーンは、標準的な脳波測定器は「面倒が多い」と言う。彼女の研究室でそのような高価な装置を使うときには、被験者の頭皮に電極を貼り付けなければならない(「数時間は髪の毛にくぼみが残るし、ジェルを使えばシャンプーで落とすのも大変です」)。この種の装置は臨床の場でしか使えないので、長期にわたる研究には向いていない。いくつか一般消費者向けに売られている脳波ヘッドセットは持ち運び可能だが、見た目があまりにも不格好だ。イヤホンで優れた結果が得られるなら「すばらしいこと」だとカーンは言う。そう感じるのは科学者だけではないだろう。

ここ数年、病院や研究施設にときどき通う代わりに自分で定期的にバイタルサインをモニターして健康状態を把握する人が増えている。NextSenseの開発チームは、イヤホンのような身近なガジェットで人々が同じように脳の状態をモニターする未来に賭けている。そして、数時間、数日、数週間とそのイヤホンを付け続ける人が大勢出てくればとてつもない量のデータが蓄積され、まだ明かされていない心の健康パターンを解明できるだろうと期待しているのだ。

それはいまのところ夢のような話だが、2019年のある日に起こったことは現実だ。ある患者が両耳にイヤホンを装着して眠りに就くと、NextSenseの科学者たちはその結果に驚かされた。脳波が確かに計測され、この製品が人の命を救う可能性をまさに示していたのだ。

ジョナサン・ベレントはNextSenseのCEOだ。先日の夜、カリフォルニア州マウンテンビューにあるイタリアンレストランのパティオで共に前菜を待つ間、48歳の彼の話しぶりはポッドキャストを1.5倍速で聴いているかのようだった。その演説のテーマは、彼が脳の健康に興味をもった経緯だった。彼の心を捉えたのは、耳でもウェルネスでもなく、睡眠だという。

もうひとりの睡眠マニア

ジョン・メレンキャンプの曲にも登場するインディアナ州の小さな町シーモアで、シングルマザーの母親と親戚たちに育てられたベレントは、学校になじめず、しょっちゅう問題を起こしたという。代わりに趣味に没頭し、コモドール64で遊べるほどのシンプルなゲームをつくったりもした。

そして10代のとき、明晰夢に関する本に出合った。明晰夢とは、夢を見ながらその内容をコントロールできる、覚醒と睡眠の中間領域だ。この分野の第一人者であるスティーヴン・ラバージが書いたその本は、ベレントを眠れる脳の虜にした。睡眠には「物理法則も適用されなければ、社会の法則も適用されません」とベレントは語る。18歳のとき彼は初めて日記を書き、以来これまでの生涯にわたって夢日記をつけ続けている。

ベレントはスタンフォード大学に入学してコンピューター科学を学び始めたが、入門コースの最終試験でまったく手が出ずフリーズしてしまった。そして専攻を哲学に変えた。コンピューターオタクたちには働き出してから追いつけばいいと思ったのだ。しかし、哲学専攻がIT系エリート職の獲得につながるとは言えない。いくらか職探しをした末、ベレントはサン・マイクロシステムズに入り、契約審査という裏方の部署でまったくの新人として働いた。

その後2011年にはグーグルに転職し、広告配信サービスのAdWords(現Google Ads)の営業チームに加わった。彼にはこの仕事が合っていた。大人数のチームを率い、自身のオフィスにはヨガマットを敷いてマインドフルネス系の本を並べた「知恵の書棚」も置き、ウェルネス施設のような隠れ家風の雰囲気に仕上げた(「お香は焚かれていなかったと思いますが、わたしの記憶では焚かれているようなイメージです」と、オフィスを訪れたある人物は言う)。この間、彼は多相睡眠を試していた。夜10時頃に寝て3、4時間後に起き、日中に20分の昼寝を複数回するというものだ。

AdWords部門で働くもうひとりの睡眠マニアと彼が出会うまでにはそうかからなかった。神経科学の博士号をもつジョー・オーウェンスが大学時代に研究したのは睡眠と概日リズムだ。ふたりが初めて言葉を交わしたのはGoogle Meetでの長時間会議だった。ベレントは睡眠を探る自身の冒険について詳しく語った。朝型人間の自分は、昼寝をすることで、神経科学に関する本を精力的に読んだり、小説を読み進めたりドラムを練習したりと、1日のなかで何度も新しいスタートを切れると説明した。

オーウェンスは感心した。「あそこまで個人として睡眠に本気な人に会ったのは初めてでした」と彼は言う。それからふたりはスタンフォード大学の有名な睡眠科学講座でゲスト講師を務め、やがて睡眠を改善する製品のアイデアを出し合うようになった。明晰夢専門家のラバージがよき師となり、睡眠中の人にある音を聞かせると脳波計で深い眠りを示す徐波が増加したという研究論文をベレントに教えた。その知見をもとにした製品をつくれば、ユーザーは8時間の睡眠を6時間に圧縮して効率的に休めるかもしれないとベレントは考えた。

アルファベットのムーンショット部門へ

16年4月、グーグルはスタートアップ投資企業のYコンビネーターをより職人向けにしたとも言える社内インキュベーター制度「Area 120」の立ち上げを発表した。ベレントとオーウェンスは応募して落選したが、親会社アルファベットの“ムーンショット”部門であり、エリア120よりもリスクが高く長期のプロジェクトへの資金提供を引き受ける「X」に応募するよう促された。Xは睡眠をスーパーチャージするという彼らのプロジェクトを採用し、オーウェンスはフルタイムで携わることになった。ベレントは広告部門に残りつつ、このプロジェクトにも時間を注いだ。

NextSenseのCEOジョナサン・ベレント。人々の睡眠改善を手助けしようと考えた結果、前例のない量の脳データを収集する方法に行き着いた。 PHOTOGRAPH: CHRISTIE HEMM KLOK

初期の取り組みのひとつが、ノースウェスタン大学の著名な神経学者フィリス・ジーとの共同研究だった。実験には50万ドル(約6,700万円)を費やし、イヤホンをした被験者に音声信号を送ることで深い睡眠を示す徐波を増やそうとした。そこで最初の壁に突き当たった。期待通りの反応を示す被験者がいた一方、まったく反応しない被験者もいて、その理由がわからなかったのだ。

ベレントは研究結果を受けてイヤホンについて考え直し、耳から脳のデータを収集するほうがよいのではないかと思った。そうすれば、睡眠だけでなく頭の中で起きていることすべてを観察できるかもしれない。そして、その分野を研究しているジョージア工科大学の教授が偶然にもGoogle Glassの技術責任者兼マネージャーであることを知った。その教授を通して、当時コンスタンティン・ボロディンがレーザーでイヤホンのフィッティングを行なっていたユナイテッド・サイエンスに連絡を取ることができた。同社は耳から脳波を計測するシステムの開発を目指し、Kickstarterでクラウドファンディングを募ったこともあった。しかし結局製品が発売されることはなく、会社は販売を諦めてしまっていた。

ベレントはユナイテッド・サイエンスに連絡を取り、自らイヤホンのフィッティングをしてもらうことにした。完成したイヤホンは硬いプラスチック製で付け心地が悪かったが、装着したまま眠って試してみた。すると喜ばしいことに、脳のデータがいくらか測定されていた。ベレントはすぐに会社と契約を交わした。そうして広告担当幹部から脳オタクに転身した彼は、何としてでもこれを成功させなければならなくなった。

脳の“予報”

脳波の測定には色々と面倒がかかる。標準的な測定法では、電気ノイズを減らすためにべとつくジェルを塗った電極を頭皮のあちこちに貼り付ける。頭に貼った電極は、膨大な数の神経細胞が同時に活動し発生させるさまざまな周波数帯の信号を検出できる。こうして得られる脳波により脳の状態がおおまかにわかる。異なる周波数が、睡眠、休息、深い集中状態などの段階と相関しているからだ。しかし、ベレントがたったふたつの電極で(しかも導電性ジェルなしで)これをできるのかは不明だった。そこで彼は、専門家の意見を聞くためアトランタに飛んだ。

ベレントとユナイテッド・サイエンスのチームおよび数人の著名な神経学者が全員入ると、エモリー大学のブレイン・ヘルス・センターの小さな検査室はいっぱいになった。センター長のアラン・リーヴィーは耳脳波計の可能性に胸を躍らせた。「血圧、コレステロール、呼吸器系についてはよくわかっています。しかし、最も重要な臓器は脳です。なのに脳の機能を体系的に評価することはできていません」とリーヴィーは言う。頭の中の電気活動も追跡できるようになれば、患者はよりよい治療を受けられるだろうと彼は考えた。

リーヴィーは同僚の科学者たちを誘って一緒にイヤホンのフィッティングを受けた。ひとりの教授はまさしく脳波に関する教科書を書いた人物だった。しかし、なかには懐疑的な人もいた。イヤホンの小さなセンサーが比較的弱い脳の電気信号を拾うことなどできるのだろうかと感じたのだ。しかし、それがもしできれば収穫は大きい。移動中を含めた持続的な測定が可能になるからだ。「問題は、それを実現するための電子機器をすべてイヤホンの中に詰め込むことでした」と、この実験に参加したてんかん研究者のダン・ウィンケルは言う。

エモリー大学の科学者たちは自分専用のイヤホンを耳にはめ、目を閉じて……考えた。そしてコンピューターのモニターに目を向け、イヤホンがどのようなデータを取り込んだか確認した。「突然、画面に線が走ったんです」とウィンケルは言う。まさに普通の脳波計と同じ光景だった。「わたしも、その場にいたほとんどの人もかなりの衝撃を受けました」

リーヴィーはベネットに、もし最終的に本物の脳波計に匹敵する品質になれば、脳用のApple Watchのような製品が出来上がるだろうと言った。しかしその前に、てんかんのモニタリングという重要な用途にはすぐに使えるだろうと付け加えた。

発作の観察は、薬の効き目を知るのにも次の発作を予測するのにも役立つ、治療において非常に重要なステップだが、簡単で非侵襲的な方法はない。病院で1週間ほど観察し続けるか、外科手術で電極を脳に埋め込むことになる。後者は費用が高く痛みも伴う。しかしその手術を受けた患者を研究することによって、発作が近いことを示していると考えられる脳の活動パターンが特定されてきた。このような脳の予報があれば、患者はクルマの運転を避けたり高いはしごを登らないようにしたりなどして、よりよく生活をデザインできるようになる。

ベレントは前向きな気持ちでアトランタを後にした。数カ月後、彼は3カ月間の異動を決め(グーグルでは「バンジー」と呼ばれる)、フルタイムでX部門で働くことにした。しかし、異動したとたんに彼の睡眠プロジェクトは打ち切られてしまった。

「こんなことがありえるなんて!」

オーウェンスはすぐに別のチームへ移った。しかし、ベレントはXに残るため奔走した。どうにかして素早くプロジェクトの断片を集め、自分の構想の重要性を改めて主張する必要があった。18年2月、彼はX部門トップのひとりであるジョン・“イヴォ”・スティヴォリックに会い、耳脳波計の夢を救ってくれないかと訴えた。しかし、スティヴォリックの関心はコンピューターを操る脳内デバイス開発のほうにあった。その種のプロジェクトなら、人間とコンピューターが相互にやりとりする未来を研究しているXの既存のイニシアチブ「Intent OS」に適用される。

それでも、イヤホンからその人が何に集中しているのかわかるようになるかもしれないのだ。あるいは、コンピューターや拡張現実ディスプレイの操作に役立つデータを提供できるかもしれない。ベレントは諦めず新たにプロジェクトを立ち上げ、その名称は鋭い視力と聴力で敵の侵入を防いだ北欧神話の神にちなんで「Heimdallr(ヘイムダル)」とした。そしてベレントのチームは、イヤホンを使って人の意識を集中させる実験を開始した。2冊のオーディオブックを同時に流し、片耳ずつで聴くというものだった。

しかしベレントの心には、医療に使える品質の脳波計をつくりたいという思いがいまだ強く残っていた。電極がふたつしかないことを補うためには、微弱な信号を増幅する方法を考え出さなければならない。ユナイテッド・サイエンスの試作機の品質は充分とは言えず、睡眠時にも覚醒時にも発生するアルファ波が拾えていなかった。また、従来の脳波計に使われる電子部品を小型化してふたつのイヤホンの中に収める必要もある。

イヤホンの改良にあたってNextSenseのチームは、有用な信号を増幅する方法とノイズの対処法を考えなければならなかった。 PHOTOGRAPH: CHRISTIE HEMM KLOK

ベレントは、グーグルの知識と設備、そして才能があれば不可能ではないはずだと感じた。また、彼のもとにはユナイテッド・サイエンスが収集した5,000の耳のスキャンデータがあり、脳の信号の邪魔をする電気ノイズを除去するためにはしっかり密閉することが非常に重要だとわかっていた。また、同社が使用する硬いプラスチック素材は改良しなければならない。色々と探し回るうちに、ベレントは「テクチコート」という超柔軟な導電性コーティング剤を発見した。これをイヤホンに塗ると、得られる脳波がぐっと鮮明になり、装着感もはるかによくなった(最終的にベレントはこのポリマーに関連する知的財産権を取得した)。

ある日、プロジェクトがなかなか前進せずもどかしくなったベレントは、5万ドル(約680万円)する携帯型脳波計のリード線を手に取り、ジェルを塗って自分の耳に差し込んだ。すると電極はアルファ波をとらえ、ベレントは胸をなでおろした。あとはこれをイヤホンで再現すればいいだけだ。決定的な結果が出たのは、数カ月後に臨床試験を行なったときだった。ヘイムダルの試作品が通常の脳波計とほぼ同等の性能を示したのだ。

ベレントの執念に対して懐疑的だったスティヴォリックも感心した。「脳波計は世界一性能の悪いセンサーとも言えます。環境ノイズ、表面ノイズ、体の動きなどが邪魔するので」と彼は言う。「まあ無理だろうと思っていました。でも、ちゃんと機能しているんです。ちゃんと信号が表示されるのです。こんなことがありえるなんて!」

19年10月18日、人の脳波を読み取ることに伴うプライバシー問題について話し合うため、ベレントはグーグルのチーフエコノミストと会議をした。しかし、開始から数分で気分が悪くなってきた。Apple Watchを見ると、心房細動を起こしている可能性を知らせていた。病院で検査を受け、数日後には心臓を一度止めてまた動かすという心臓版の「再起動」を受けた。この体験が仕事への彼の考え方を変えた。Intent OSがなんだ、自分がつくりたいのは腕時計が心臓にしてくれたことを脳にしてくれるデバイスなのだ。

大衆向けの脳モニターをつくる

19年11月8日、ジェン・ドワイヤーはショッピングモールを改装した建物の3階に入る「ムーンショット・セントラル」でデスクワークをしていた。ベレントのチームのメディカルディレクターを務め、計算神経科学の博士号および医学の学位をもつ彼女は、睡眠とてんかんに深い関心を抱いていたことからこのプロジェクトに参加した。「あの電気生理学的な波形に心惹かれたんです」と彼女は言い、その波を「美しく魅惑的」と表現する。

ドワイヤーはウィンケルの監督のもとエモリー大学で行なったイヤホン研究の患者データのファイルを開いた。ある人の脳波が画面上を走ったとき、その波形が彼女の目を捉えた。初め、線はきれいに間隔を空けて波打っていた。「そのとき突然、ドンと来たんです」と彼女は言う。まるで穏やかだった海が急に荒ぶるように、線が激しく跳ね始めたのだ。

それは発作のサインだった──初めて耳のモニタリングで発作が検出されたのだ。眠っていた本人は異変をまったく知らなかっただろう。しかし、イヤホンと脳に埋め込まれた電極の両方が発作を確認していた。「みんなでハイタッチをしました。これこそ心から求めていたものでした」とベレントは言う。その後も研究が進むにつれてイヤホンが捉える発作は増えていき、脳内電極が検出した17の発作のうち16を拾うまでになった。

NextSenseのメディカルディレクター、ジェン・ドワイヤー。イヤホンの性能を実証すべくエモリー大学の科学者と共に研究を進めている。 PHOTOGRAPH: CHRISTIE HEMM KLOK

しかし、ヘイムダルに壁が立ちはだかった。20年6月、部門内ではいまだ浮いた存在だったこのプロジェクトへの資金提供をXが停止することをベレントは知った。そのため彼は、独立した会社を立ち上げた。Xに知的財産権を譲渡するのと引き換えに新会社の株式を取得させることで取引は成立した。ドワイヤーを含めた5人がXから新会社に移った。また、Apple Watchの開発に携わった経験のある人物を製品責任者として引き入れた。NextSenseと名付けられたその会社は、脳の健康状態をモニターするプラットフォームとして売り込みをかけ、530万ドル(約7億1,400万円)の資金を集めた。

それ以来、ネクストセンスは大学や製薬会社と提携しながら自社のイヤホンの医療用途を探ってきた。多国籍企業の大塚製薬は、このイヤホンを使っててんかんだけでなくうつ病などの精神疾患に対する薬の効果を評価したいと考えている。NextSenseは22年中にFDA(米食品医薬品局)に承認を申請する予定で、エモリー大学では数時間~数日前に発作を予測するアルゴリズムの開発を目指してさらなる研究が進められている(同大学の医師たちは現在同社のコンサルタントを務め、株式の一部を保有している)。

NextSenseのイヤホンの直接的な用途は医療だが、ベレントが最終的に望むのは大衆向けの脳モニターをつくることだ。多くの人が使うようになれば、脳の日々の働きに関するデータを膨大に得られる。ただし当然ながらそのようなことは前代未聞なので、得られるデータがほとんどの人にとっていかに役立つのかはっきりしていない点が問題だ。反面、そこが面白いところでもある。「この種のデータにアクセスした歴史がまったくないので、何がわかるのか予想がつかないのです」とエモリー大学のウィンケルは言う。

ベレントらが思い描くのは、AirPodsのように音楽のストリーミング再生や通話ができ、補聴器のように周囲の音を増幅することも可能で、脳をモニターして気分や集中状態、睡眠パターン、うつの期間などを教える多目的デバイスだ。また、大半の人にフィットする数種類のサイズに絞り、耳スキャンの手間を省きたいと考えている。

NextSenseのリチャ・グジャラティ、ジョナサン・ベレント、ステファニー・マーティン、ジェン・ドワイヤー。患者たちがイヤホンで自分の健康状態や治療状況を把握できるようにしたいと願う。 PHOTOGRAPH: CHRISTIE HEMM KLOK

NextSenseが見据える道のはるか先には、いまだ存在が証明されていない、一種の未開地帯がある。人工知能が大量の脳データを解読できれば、次のステップはその脳波パターンを変えることだ──それは適切なテンポの音を聞かせるというシンプルな手段で実現するかもしれない。「歴史を変える瞬間とも言えます」と語るのは、カリフォルニア大学サンディエゴ校の生物工学者で、自身が開発した耳による脳波測定技術の一部をNextSenseにライセンス供与したゲルト・カウエンバーグスだ。ベレントと同様、彼も音で人を深い眠りへいざなうという考えに魅せられている。「とても便利で、生活の邪魔にもなりません。どうせ最近はみんな何かしら耳に付けているんですから。そうでしょう?」と彼は言う。確かにその通りだ。脳波をいじくり回すためではないけれど。

いつか実現させると約束していることのひとつ

耳のスキャンを撮ってもらってから10日後、わたしはベレントから自分専用のイヤホンを受け取った。マウンテンビューにある建物の1階、共有スペース込みの散らかったふたつの部屋がNextSenseのオフィスだ。そこでイヤホンを耳にはめると、Airpodsと違って完璧にフィットし、ときどき付けている硬いプラスチック製のオーダーメイド補聴器よりもずっと快適だ。

ベレントはAndroidの携帯電話を取り出してNextSenseのアプリを開いた。イヤホンのデータを取り込んでさまざまなグラフに表示させるというものだ──病室のディスプレイと同様、どの線も完全にフラットにならないことが願われるデータである。画面を見ればわたしの脳波が一目でわかり、グラフ上で太い緑の線がとがった波を描いている。ベレントがタップすると別のビューが表示され、フリップすると左右のイヤホンのデータが切り替わる。「通常の脳波に見えますね」と言った彼の言葉は、わたしの健康に問題がないと安心させる目的もあれば、自身の製品が確かに脳波を捉えていると主張してもいたのだろう。

また別の実験を受けたわたしは、半瞑想状態と覚醒状態を行き来した。覚醒状態のときにオレンジ色の小さなソファ(イケアだろうか)に座って部屋を見渡すと、忙しそうに動作するパソコンと、自己啓発書や医学書、コーディングのマニュアルなどが詰まった背の低い本棚が目に入った。本棚の上にはターンテーブルと小型のスピーカーがふたつ、そして実物大の耳の模型があり、壁にはプリンスのレコードジャケットが立てかけられている。別の壁には、数式やデータの読み取り結果が書き込まれた巨大なホワイトボード。直後、それを見るために頭を動かしたせいでデータの読みが狂ってしまったとわかった。この試作品にはまだ改善点がありそうだ。

しかし、最も興味深く、ベレントも最も意気込んでいたことが確かな実験は、昼寝をするものだった。彼はいまでも睡眠に執着しており、NextSenseはエモリー大学で睡眠の研究を続けている。「睡眠段階のあいだの明確な変化をこのイヤホンで確かに見ることができます」とメディカルディレクターのドワイヤーは言う。もしイヤホンが睡眠検知器として機能すれば、通常なら睡眠外来に行くところが通院せずに済むかもしれない、とNextSenseの製品・戦略責任者のリチャ・グジャラティは言う。イヤホンを使えば、「患者を家に帰しても診断できますから」

しかし、わたしの場合はオフィスの小さなソファで昼寝をすることになった。ベレントもジープで眠ると言って部屋を出た。わたしはうずくまって眠りの国に入ろうとした。与えられた20分の半分は寝つけるまでにかかるなと思ったが、腕時計のアラームが鳴ったときにはすっかり眠り込んでいた。ベレントは部屋に戻って来て、わたしの眠りに祝いの言葉をくれた。データをアップロード後、ふたりでパソコンの前に座り、いくつかのグラフが表示されるのを見た。5~6分ほど経つとスペクトログラムに拡がる色彩が暗くなり、わたしが眠りに入ったのがわかる。ベレントのデータも同様の軌跡をたどっている。しかし、彼は日中に眠る多相睡眠の達人なので、睡眠の最後の数分間は焦げたオレンジ色の固まりのような波形だ。「死んでいるみたいですね」と彼が言う。比較のため、ベレントは身につけていた指輪型の睡眠記録装置、Ouraのデータもアップロードした。昼寝は記録されていなかった。

もちろん、鮮やかな色彩のグラフを見つめていても、わたしのうたた寝が深い眠りになるわけではない。それはNextSenseがいつか実現させると約束していることのひとつだ。それでも、自分の脳の活動をこれほど気軽に見られるというのはとても新鮮な体験だった。脈拍や酸素濃度を執拗にモニターする人がいるように、脳波を定期的にチェックしてなんとなく脳の状態を確認するというのもいいだろう。多くの人がそうするようになれば、いつか脳波の意味することがわかるかもしれない。

WIRED US/Translation by Risa Nagao, LIBER/Edit by Michiaki Matsushima)