鎌倉の拙宅は大河ドラマでいま放送されている「鎌倉殿の13人」の主人公、北条義時をはじめとする歴代の北条得宗家が住んでいた敷地の跡にある。近所にあって編集部鎌倉分室が入るコワーキングスペース北条SANCIの名称もこれが由来で、この一帯がいまは宝戒寺というお寺の借地として住宅街になっている。

そこから材木座の海に向かって7,8分も歩けば妙本寺がある。ここは比企ヶ谷と言われる一帯で、北条義時らに一族を滅亡させられた比企能員の屋敷跡だ(この「比企能員の変」もそろそろ大河で描かれるはず)。鎌倉の近所をちょっと歩けば、こうして北条家に潰された畠山や三浦、梶原といった御家人たちの屋敷跡にいくらでも出くわす。これだけ手狭な鎌倉で、つまりご近所さん同士でよくぞ凄惨な権力闘争が繰り広げられたものだと、徒歩スケールで実感するのだ。

この比企と北条の権力争いで鍵を握るのが「乳母」という存在で、つまりは源頼朝やその子どもたちの「育ての親」が誰かということが重要な意味をもつ。現代の感覚からはいまひとつピンとこないわけだけれど、いまでもお金持ちの世界がそうであるように、古今東西、特に身分の高い人々にとって、母親に代わって母乳を与えたり養育をすることは広く行われていたようだ。つまり、母であることと母性は切り離されていたわけだ。

人間の身体をテーマにした今週のSZメンバーシップでも、この「母」と「母性」の再考を迫るような記事が並んだ。英国に次いでミトコンドリア・ドネーションを認め、3人の遺伝物質の混合による妊娠処置の合法化に踏み切ったオーストラリアの事例もそうだ。致命的な疾患の遺伝を防ぐのが目的で、主に実用面と安全面から異論や慎重論が出されているわけだけれど、3人の生物学的親のDNAを受け継ぐ「3ペアレント体外受精」の技術は、遺伝子改変によって従来の親子の概念を更新するひとつの事例でもある。

今週の記事:「3人の親による体外受精」へと慎重に舵を切るオーストラリアと、ミトコンドリア・ドネーションの現在地

だけれど、親子や母性の固定観念を揺るがすのに、必ずしも最先端の遺伝子工学が必要となるわけではない。今週の記事では、出生時に女性とされた(AFAB=Assigned Female At Birth)トランスジェンダーの男性が妊娠をして病院に行くと、どんなにお腹が出ていても、医師や看護婦が彼の妻のことを患者だと思い込んで自分はいつも診療室の外に取り残されそうになるのだ、というエピソードが紹介されている。つまり、「人々は『男』と『妊娠』の両方を同時に理解することができなかった」というわけだ。

今週の記事:トランスジェンダーと母性:最新の生命科学が「母」と「女性」の関係を再定義する

トランスジェンダーやクィアの人々はいまや、社会的に固定された「母親」という概念を拡張し、出産や母性についてインクルーシブな社会を目指している。それまで「社会はつねに、男性社会において許容されてきた特定のグループにのみ、母になる経験を認めてきた」。19世紀以降、中産階級が台頭すると、「女性」と「妻」と「母」はひとつの社会的カテゴリーに「ひっくるめ」られ、乳母は過去のものとなり、従順な主婦兼母というイメージができあがった(メディアの責任も大きい)。

異性愛を規範とする社会においては、妊娠したトランス男性は診療室の外に追いやられ、トランス女性は「問題のある親」と見なされる。今後、性別と母親、母性といったことを完全に切り離してフラットかつインクルーシブに誰もが暮らす社会を、ぼくたちは想像できるだろうか? そんな自由な未来をスペキュラティブに描いたSF作品が、アーシュラ・K・ル=グウィンの『闇の左手』だ。1969年に発表され、翌年にヒューゴー賞とネピュラ賞を受賞した本作で、彼女は時代を代表するSF作家への道を歩むことになる。作品では、生まれつき「性」の区別をもたない中性的、あるいは両性具有のゲセン人といわれる人々の社会が描かれている。

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彼/彼女らは発情期にだけ男性あるいは女性の生殖器がランダムに発達する。従って、母親にも父親にもなりえるため、結果的に社会的な性的役割というものは存在しない。この惑星〈冬〉のゲセン人たちの社会を外側から、雌雄異体の社会の常識で観察するとこうなる(以下、ル=グウィン『闇の左手』小尾芙佐 訳/早川書房より)。

・誰もが出産に縛り付けられる可能性をもつということは、“よその世界”の女性のように完全に縛り付けられることがない一方、“よその世界”の自由な男性ほど自由ではない。すべての人が同等の危機、同等の選択の機会をもつ。

・子どもは、母親と父親に対して精神的性的な関係をもたない。惑星〈冬〉にはエディプスコンプレックスは存在しない。

・双方の同意によって始めて生殖活動における性的分化が起こるので、同意のない性行為、強姦は存在しない。この社会では「戦争」というものがないのも、ここに因果関係があるのではと推測される。

・保護/被保護、支配/従属、所有者/奴隷、能動/受動といった二元的な人間的属性は存在しない。

・男性らしさや女性らしさといった評価が存在しないので、“よその世界”から来た人々は、しばしば自尊心を傷つけられることになる。人は人間としてのみ顧慮され、判断される。「これはぞっとさせられる体験である」

日本においても代表作『ゲド戦記』で知られ(スタジオジブリが映画化した)、時代の制約や社会規範、抑圧からの自由を究極のテーマにしたル=グウィンは、この『闇の左手』の冒頭をこのように書き始めている。

私はこの報告書を物語のようにしたためよう。わが故郷では幼時より、真実とは想像力の所産だと教えこまれたからである。まぎれもない事実もその伝え方で、みながそれを真実と見るか否かがきまるだろう。

ぼくも講演などでよく例に出すことだけれど、かつて1969年に世界で初めて試験管の中で人間での受精が行われ胚が発生したとき、あるいは1978年に世界で初めて、体外受精によっていわゆる試験管ベビーが生まれたとき、みながそれを、自然の摂理や神にも背く人類の暴走であり、もはや引き返すことのできない罪深き行為だと断じた。だがわずか50年ほどしか経っていない現在、全世界で800万人を数える体外受精児や不妊治療に励むカップルに「あなたは自然に反している」と言う人はいない。

いまや世界初の移植子宮による出産が成功し、体外妊娠を可能にする人工子宮の開発も進んでいる。成人細胞を精子や卵細胞といった配偶子に変える研究が進めば、やがて生殖の方法はいまと全く違ったものになる。そのときの社会の変化、人々の「真実への想像力」の変化が、あなたが思うよりもずっと早いだろうことは、試験管ベビーの一件からも容易に想像できる。

テクノロジーはこれまでも、性や性的役割、親子や男女といった強固な社会規範ですら、急激な変化を人類にもたらしてきた。それはこれからも変わらないだろう。だけれど、テクノロジーの進展を待つ必要はない。ぼくたちの身の回りには今日も、社会のバイアスの在り処を指摘し、狭量なその常識とやらを拡げて新たな可能性の余地を示すことで、社会に自由をもたらそうとする人々がいる。それに、SF(スペキュラティブフィクション)によって、ぼくたちはいつでも想像力によるリハーサルが可能なのだ。

『WIRED』日本版編集長
松島倫明