ヴァージニア・ヘファーナン

『WIRED』のコントリビューター。『Magic and Loss: The Internet as Art』の著者。スティッチャー・ラジオの文化トーク番組「This Is Critical」の司会も務める。『WIRED』に来る前は、『The New York Times』のスタッフライターとして働き、テレビ批評、雑誌のコラムニスト、オピニオンライターを務めた。バージニア大学で学士号、ハーバード大学で英語の修士号と博士号を取得。1979年(インターネットが風変りな聖職者のバックオフィスだったころ)偶然インターネットに出合い、以来、ずっとその嵐のなかにいる。

女性はアニメが散りばめられたワンジーに身を包み、男性のほうはタイトなデニムジャケットにワイドパンツ姿。気持ちよく晴れ渡ったその日、わたしはブルックリンのウィリアムズバーグの横断歩道で、ふたりの会話に聞き耳を立てていた。

「いまどきは、お酒を飲まないことって大事だよね」女性が言う。

「ああ」と男性。「赤ん坊にとってはね」

シラフの赤ん坊と、酔った大人。洞窟のようなリサイクルショップを覗きながら、わたしはこの件について考えていた。この10年間たびたび感じてきたように、カクテルパーティーでスプライトを手にしていると、回復を実感することがあった。一方、(断酒会の)12ステップミーティングで「わたしは浴びるほど飲むと、自分を冷淡で薄情なファムファタル──洗練された魂──だと感じていた」と話していた女性のことも覚えている。

わたしも以前はそう思っていた。のちに彼女は、自分が酒を飲むのは、ほんの少しの痛みにも耐えられないからだと気がついた。アルコール依存症者のなかには、これをクイーンベイビー症候群と呼ぶ者もいる。ジョージアウォッカを飲むことで、自分をなだめていたのだ、と彼女は言った(プライバシーを考慮してここでは詳細を変えている)。

この人物は、と彼女は続ける。空気の抜けたエアマットレスの上で、テッド・クルーズ似のドラッグクイーンと抱き合いながら目覚めたときにどん底を迎えた、と。わたしはこの話が忘れられなかった。

わたしはいまでも自分のことをアルコール依存症(alcoholic)と呼ぶが、この言葉は酒を飲まない有名人たちに敬遠されつつあり、これには正当な理由がある。「~holic」を語尾につけた乱暴な造語(有名なところで言うと「chocoholic」など)が、言語学上の危機を引き起こしているからだ。また「アルコール依存症」は、問題を抱えた普通の人(例えば「糖尿病」や「喘息」など)とは異なり、可燃性であること以外は安全な有機化合物、エタノールに固執するような、頑固な性質をもつ人々を指すため、混乱が生じる。エタノールは(例えば)グルテンほど遍在しているわけではないが、重度のアルコール依存症者なら知っているように、それはウィスキーサワーの中だけでなく、香水、マウスウォッシュ、ワイパー液などにも含まれる。

アルコール依存症のための昔ながらの12ステップ療法では、現在わたしが興味を惹かれている魅力的な新しい手法とは対照的に、根っからの酒飲みは、嘘をついたり、騙したり、盗んだり、自慢したりして、品性が欠落していると言われている。しかしこうした奇行は、数字で測定されたり、内省で決まったり、文化的規範に照らして評価されるものなのだろうか? いずれもノーであり……イエスかもしれない。1633年、英国の詩人にして司祭のジョージ・ハーバートは、詩集『The Church-porch』のなかで、アルコール依存症の分析に果敢に挑戦している。そして酒飲みが過剰な酒を捨てなければ、恥をかき、嘔吐することになると警告した。

汝が飼いならすことのできない、第三のグラスを飲むなかれ、
それが汝の体内に収まれば──いや、収まる前なら
望みどおりにそれを支配できるかもしれない──恥を注ぎ、
その恥は汝に、床に注がれるだろう

ハーバートがとりわけ3杯目がもたらす恥を懸念するところは、アルコール依存症の進行に関する、もうひとつの3段階の格言を思い出させる。「人が酒を飲み、酒が酒を飲み、酒が人を飲む」。このあとハーバートは人称代名詞を切り替え、3杯目の酒で床に転がり、そこで文字どおり底を打つ、と想像する。

大方の場合床に投げ出され、
飲み続ければ、わたしもその場に投げ出されるだろう

もちろんハーバートがこれを書いたのは、6本入りパックの1/3以上を飲む習慣が意志の弱さではなく病理だとみなされるようになる何世紀も前のことだ。しかし20世紀の疾患モデルはしばしばアルコホーリクス・アノニマス(AA)[編註:1935年に米国で始まり世界に拡がった、飲酒問題を解決したいと願う人々の自助グループ。いかなる宗教、宗派、政党、組織、団体にも縛られないとされ、そのプログラムは「12のステップ」 と「12の伝統 」からなる]に関連づけられ、多くの混乱を招いてきた。アルコール依存症(alcoholic)の定義と言われている苦痛、いわゆるアルコール中毒(alcoholism)が、明確な生物学的マーカーを欠いているのはなぜだろう? ちなみにalcoholismは「itis(病)」ではなく「ism(主義)」と表現される。はたしてアルコール中毒は病気なのか、観念なのか?

語源が助けになるとすれば、「アルコール」はアラビア語の「アル・コール(al-kuhl)」に由来しており、コールは紀元前4000年紀にアイライナーなどに使用されていた黒い粉末を指す。コールは精製された鉱物でできており、やがて蒸留されたあらゆるものがコールと呼ばれるようになる。以前酔っぱらったときにググった情報だ。ラテン語でのスペルは「alcool」。All coolだ。

ILLUSTRATION: GENIE ESPINOSA

いまどきは、お酒を飲まないことって大事だよね。

前述の横断歩道の女性は正しい。とりわけ禁酒によって「飲酒との関係を変えよう」としていたり、禁酒について四六時中話していたり、非飲酒市場のポテンシャルを活用しようと思っている場合には。Instagramには散文調のジョージ・ハーバートがあふれかえり──シラフで(soberaf)で飲まずに輝く(soberglow)シラフインフルエンサー(soberfluencer)たちが踊っている。21世紀は、アルコール依存症という言葉を拒絶する若い禁酒家や、ダメ人間やうぬぼれ屋になる前に禁酒したいと望むすべての人にとっていい時代となっている。

AAがいつその輝きを失ったかを特定するのは難しい。出発点のひとつとなったのは2000年代初期。それ以来、ますます多くの酒断ちに挑む人々が禁酒を誓い、禁酒月間(Dry January)として有名な国際的逆レイヴに参加した。Dry Januaryは2013年、英国で公衆衛生キャンペーンとして始まり、4,000人あまりを魅了した。21年には、その数は13万人にまで膨れ上がっている。

こうした禁酒熱は、禁欲主義と快楽主義が併存する米国にも拡がった。31日間飲酒を控えるという挑戦は、世俗的な四旬節[編註:灰の水曜日から復活祭までの40日間、カトリック信者が断食と懺悔を行なう期間]を祝おうと熱望する人々を活気づけているようだった。21年1月には、米国成人の約1/5がDry Januaryに挑戦している。

長年にわたり、アルコール懐疑論者による自己啓発本も数多く出版されているが、著者(大半は女性)の多くは、かつて3本目のボトルを飲まないでいることに苦労してきた。リサ・メイ・ベネット『My Unfurling』、ガブリエル・グレイザー『Her Best-Kept Secret』、アニー・グレイス『This Naked Mind』、キャサリン・グレー『The Unexpected Joy of Being Sober』、ロザムンド・ディーン『Mindful Drinking』、デイヴィッド・ナット『Drink?』、ルビー・ウォリントンの『飲まない生き方 ソバーキュリアス』、ホリー・ウィタカー『Quit Like a Woman』など。副題は省略したが、いずれも大きな約束をしている。

こうした本の指示に従えば、読者は──そして「Recovery Happy Hour」や「Edit Podcast」など、類似テーマのポッドキャストのリスナーは──アルコールと手を切り、不安を手放し、家父長制や資本主義に徹底的に逆らい、幸福で、健康で、裕福にさえなれるという。一方で、12ステップの実践者なら、アルコール依存症に対する従来の治療法では、こうした驚異はいずれも保証されないと言うだろう。

シラフで酔っぱらうことには、ポーズ以上のものがあるかもしれない。どうやら人々は本当に飲酒量を減らしているようなのだ。ギャラップによると、19年には米国成人の65%がアルコールを飲んでいた。しかし21年になると、感染症流行による閉塞感や不安があったにもかかわらず、その割合は60%に下がっている。さらに、19年には(自己申告で)週4杯アルコールを飲んでいたのが、21年には3.6杯になったという。

こうしたいまどきの節度あるタイプに満足してもらうため──つまり、消費を拒む人に消費を続けてもらうため──ニューヨーク、デンバー、マイアミ、オースティン、サンフランシスコなどでは、お酒を飲まない人を歓迎するバーがクロッカスのように咲き乱れている。なかにはお酒を一切提供しない店もある。また、さまざまな酒類と一緒に豪華なモクテル(ノンアルカクテル)を出している店もある。こうした場所では、サビや藻の色をしたドリンクを飲んでいる人は、たいてい常連客で通るだろう。シックな店内では、バーテンダーがオルジェー、タバコシロップ、キノットオレンジなどの洗練された高級な原料をソフトドリンクに混ぜている。

21年、ブレイク・ライブリー、ベラ・ハディッド、ケイティ・ペリーといったモクテルの立役者らが、ハイデザインな容器に入ったノンアルコールカクテルを売り出した。水やお茶にスタイリッシュさを加えたこうした飲み物が約束することは、禁酒本の表紙に書かれている内容を補完するものだ。TranquiniやRecessといったAmazonで購入できるいくつかの商品には、ストレスに対する最新の万能薬ハーブであるアダプトゲンを、ストレスに対する最高の万能薬であるアルコールの代わりに使用している。

ノンアルコール飲料ブランドのひとつTöstは、「大人向けの複雑な」フェイクワインを提供し、Seedlipは植物を蒸留して「香り高い、洗練された大人のオプション」を製造している。ひょっとするとアルコールを摂取しない人々は、赤ん坊だと思われることを恐れているのかもしれない。

食品業界がダイエット市場を生み出したように、アルコール業界も酔わないドリンクという新たな市場分野を生み出しつつあるように見える。これはシラフでいたい人々よりも、起業精神旺盛なご都合主義者に大きな利益があるかもしれない。すでにケイティ・ペリーのDe Soi Purple Lune(ローズとミルラの入った8オンス[約235ml]缶の炭酸ティーで、バランスとストレス解消についてでたらめな健康を謳っている)は6ドル(約800円)で売り出され、これはバドワイザー1缶のおよそ5倍の値段である。

カリスマインフルエンサーたちの乾杯

匿名性の高い禁酒スペース(スペースはどこにでもある)に住むカリスマインフルエンサーたちが乾杯するならなおさらだろう。新たな禁酒のスーパースター界は寡占状態だと思うかもしれないが、実は無数に存在し、それぞれのソバーフルエンサーはニッチなアプローチを行なうか、少なくともトレードマークとなるデザイン要素をもっている。また多くの人が、運動、精神世界、繁栄、生産性、あるいは陰謀などと明らかに関連する界隈のライフスタイルの達人と交わっている。

そしてわたしが3日間スクロールしまくった結果、禁酒スペースで最も影響力のあるインフルエンサーは、かなりわかりやすく3つのカテゴリーに分類されることが判明した。ロココ的迷信の禁酒を主とする神秘主義のグル、禁酒を幸福のハックとみなす習慣矯正のプロ、現在アルコール依存症と呼ばれる脳の誤作動を治療するための医療介入と認知科学を提唱する管理職クラスの代表者たち。

その先駆けとなったのは、もちろんラッセル・ブランド(ペリーの元夫)で、ヘロイン常用者だった彼は、02年にドラッグをやめてシラフの教皇になった。いまは自らを予言者と呼び、リザード・キングのような恰好をして、十字架のタトゥーと菩提樹の実のマーラービーズを得意げに見せびらかしている。

彼の華美な自己宣伝と東洋趣味風のスタイル(安物雑貨店で手に入るハレクリシュナへの熱意も含め)は、科学に基づく禁酒の反神秘主義とも、伝統的な12ステップによる断酒会が求める謙虚さとも相容れない。最近、ブランドは、リベラルな人間主義の原則と、もともと嫌っていた市場主導の新自由主義とを混同した極左-右派政治(so-far-left-it’s-right politics)を信奉しており、科学や投票を含むリベラルなプロジェクト全体を歴史のゴミ山に預けようとしているように見えることがある。You Tubeでは、ブランドをブランドマークとした禁酒は、過激な個人主義、コンスピリチュアリティ[conspiracy(陰謀論)+spirituality(スピリチュアル)]、ワクチンやロシア、ヒラリー・クリントンなど、ありとあらゆるガセネタにまつわる、彼のイデオロギーとセットで提供されている。

ILLUSTRATION: GENIE ESPINOSA

もう少しマイルドなグルの地位にいるのはルビー・ウォリントンだ。いわゆる「いまの時代(Now Age)」のライフスタイル・インフルエンサーで、「Numinous Astro Deck」と呼ばれる占星術「ツール」の生みの親でもある。本人が回想録で語っているように、「中年で、中流階級のわたし」は昔、シャルドネとコスモポリタンを浴びるように飲んでいた。やがて彼女は自分が#sobercuriousであることに気づき、その言葉を地道に拡散していった。2016年、彼女はClub Söda NYC—the sober umlaut strikes again—というイベントシリーズの立ち上げを手伝い、いまはなんとなくお酒をやめようかなと考えている人や、禁酒的なことを考えている人のためのイベントを主催している。

パンデミック以前は、こうしたイベントは「野菜中心の家庭のブランチ」風の食事や、TED流の山上の垂訓、そして高遠な理想(WeWork/オバマ時代の日常の美的快適さ)を売りにしていた。写真で見ると、ウォリントンのイベントもインスタ民的ノリで盛り上がっている。Club Söda(「シラフであること、あるいは節制を論じること」)では、お酒をやめることは、AAで言われる魂の闇夜のような、「不可解な意気消沈」に対処する最後の手段ではなく、幸福、集中、深いつながりへと続く王道のスタイルとみなされている。どうやらセックスや生産性のようなもので、手にできれば素晴らしい。12ステップは、性欲を刺激するのではなく、相手を遠ざける傾向がある。

「アルコールとの関係を変える」

スピリチュアル要素薄めのインフルエンサー、ホリー・ウィタカーは、社会正義のオプティマイザーで、19年にベストセラーとなった『Quit Like a Woman』の著者だ。13年、サンフランシスコのベイエリアで頑張っていたウィタカーは、飲酒が“ガールボス”[編註:学歴もお金もない型破りな女の子がネットビジネスで大成功するテレビドラマ]を目指す自分の足を引っ張っていることに気がついた。1年後、彼女はHip Sobriety (現Tempest)というオンライン・アルコール・カウンセリングのスタートアップを設立し、有料で「アルコールとの関係を変える」手助けを始めた。ウィタカーのプログラムは、コーチングやオンラインコミュニティなどの手法を用い、派手な花火やラッセル・ブランドのような洞察は控えつつ、家父長制と資本主義を飲酒と結びつけている。というのも、それらが過剰摂取を促すからだ。

同時に、彼女は自分のオンラインビジネスを、プロダクトでありビジネスモデルだと説明している。「営利目的で、消費者に重点をおいた、デザイン性のある……わたしのような人々に向けたものです」。2020年、彼女は「How I Raised It」のインタビューに答え、シリコンバレーでうまく立ち回ってベンチャーキャピタルを取得する方法(Tempestは3度の投資ラウンドで1,540万ドル[約20億円]を調達)を語っている。一方で、会費や入会金のない12ステッププログラムの唯一の資金は、ミーティングの休憩中に帽子の中に落とされるしわくちゃの1ドル札だけだ。

飲酒問題が全くない著名な健康ジャーナリスト、ガブリエル・グレイザーは、AAの「ハイヤーパワー(higher power)」からウォリントンの占星術カードまで、スピリチュアルな民間伝承全般に関する情報を熱心に調べている。ただし、彼女自身はパーソナルブランドではなく、自身が回復したという物語もない。13年、綿密な調査の末に書きあげた『Her Best-Kept Secret: Why Women Drink—and How They Can Regain Control』で、彼女は12ステッププログラムに真っ向から切りこんでいく。グレイザーが強調するように、AAには回復を裏づける科学的証拠がほとんどない。匿名のプログラムは追跡が難しいことで知られており、その効果を経験的に証明するのが難しいという点においてグレイザーは正しい。

グレイザーが代わりに推奨するのは、絶対主義的なアプローチではなく、特に(オピエート拮抗薬である)ナルトレキソンを、酒量を減らす方法として喧伝することだ。オピエート拮抗薬を服用すると、アルコールが脳に快楽をもたらさなくなるため、飲みたい気持ちが薄れる。依存症患者のためにこの治療法を開発し、2015年に他界した心理学者のジョン・デビッド・シンクレアは、40年以上にわたって査読つきジャーナルに数々の発見を発表してきた。グレイザーは、シンクレアが01年に学術誌『Alcohol and Alcoholism』で発表した研究結果を引用し、ナルトレキソンのみを服用した患者の78%が、酒量を週10杯まで減らすことに成功したことを示している。

なるほど……たしかに78%はなかなかの数字だが、いや、ちょっと待って。週に10杯飲めば、かつてのわたしの意識の飛んだ週末や二日酔いを優に繰り返せる量だ。それで脳の快楽システムを抑える新たな薬が効いていると?

インフルエンサーたちの何千という投稿、一流有名人の何百というソフトドリンクの広告、そして脳の受容体に関する1ダースの研究論文を見ても、幸いなことに、お酒を飲みたくなることはない。しかし、こうした諸々のせいで、苗字を隠し、折り畳みのスチールチェアを掴み、かび臭い教会の地下室でスローガンを唱えながら、昔ながらの断酒会に浸りたくなってしまう。シンプルにやれよ、おバカさん。いや、こっちのほうがいいだろう──気楽にやろうよ。こうなると、これら新手の禁酒者たちは、かつての匿名のアルコール依存症者たちとはまったく異なる目標をもっていると言わざるをえない。

ILLUSTRATION: GENIE ESPINOSA

聖餐式や軽食に発酵酒が伴う文化圏では、酔いに関する独自の見解がある。100年以上前、フランスの詩人シャルル・ボードレールは「つねに酔っぱらっていなさい」と助言し、ナイジェリアのアフロポップ歌手ジョーボーイは、2021年のヒット曲「Sip(Alcohol)」で、問題解決にワインを勧めている。

北米に入植したヨーロッパ人のあいだでは、酩酊が宗教上の問題となり、キリスト教の美徳から逸脱したものとみなされるようになった。1870年代、プロテスタントの女性たちは、選挙権をもつずっと前から、男性陣が行儀よくし、乱暴を働かないよう、禁酒運動を政治の中心に据えていた。1900年、アイルランドやイタリアからの移民が酔っぱらって道徳的混乱をもたらすようになると、移民排斥論が禁酒言説に忍び込み始めた。禁酒推進者のなかには、信仰の篤い者に禁酒の誓いを要求し、さもなくば天罰が下ると諭す者もいた。

やがて実験が失敗し、禁酒法が1933年に終わりを迎えると、公衆衛生局は新たなアプローチを試みた。酔うことを姦通のような罪にしたり、喫煙のような不健康なライフスタイルの選択にしたりするのではなく、喧嘩のような公共の安全性を脅かすものとみなしたのだ。

各州は飲酒運転を取り締まる法律をつくり、酩酊が引き起こすあらゆる暴力について生徒に教えるプログラムを立ち上げた。アルコール依存症の枠組みとしての公衆衛生は、ヤヌスのようにふたつの顔をもっている。酔っ払いが社会的救済を伴う公共の問題として扱われれば、飲んだくれが個人的に非難されることは少なくなるかもしれない。一方で、警察などが絡んでくると、ほかの人よりはるかに頻繁に、スピード違反で止められたり、薬物所持の疑いで身体検査をされたりする者が出てくるだろう。12ステップのグループには、何度も奇跡的に飲酒運転を免れた白人が大勢いる一方で、飲酒運転よりはるかに軽い罪で投獄された有色人種がたくさんいる。

禁酒法後の酒飲みへのアプローチと並行して、1935年に医師と株仲買人によって設立されたアルコホーリクス・アノニマス(AA)が、モラル改善のためのプロジェクトとして発展した。そう、このプログラムでは酒をやめることが求められている。しかし断酒会に長くいると、AAは断酒そのものが目的ではなく、基本的な前提として、正直に、信心深く、他者に奉仕する人生を送るよう求めていることがわかってくる。

以前セラピストにこう言われたことがある。人は変わるためにセラピーにやって来るわけではない、痛みを取りのぞくためにやって来る。だからあなたは彼/彼女らを説得して、変化を促さなければならないのだと。12ステッププログラムに関しても同じことが言える。その集まりには、心に傷を負い、打ちのめされ、職を失った人々が慰めを(そしてしばしばお金を)切実に求めてやって来る。そして数日のうちに、たとえ禁断症状で震えていても、床をモップがけしたり、椅子を積み重ねたりして、他者を助けるよう求められ、やがて信仰のよりどころとすべき「自分たちより大きな力」を探すよう促される。

無神論者は、「宇宙」や「自然」といったより高次な力の代替案を数多くつくりあげてきたが、いわゆる「神的なこと」は端から敬遠してきた。少々身勝手だが面白いAAのマニュアル(通称「ビッグブック」)には、「われら不可知論者」という章まであり、禁酒に求められる具体的な神秘体験への不安を和らげようとしている。酒を飲まない無神論者のなかには、その章は不誠実だと感じている人もいる。

それでも、やがて他者を助けるという部分はたいていの人が理解する。自己点検の必要性も同様だ。皮肉なユーモアの源にもなっていく。数カ月後には、多くの酔っぱらいが、自分に不義理を働いたクズ人間についてくだを巻いている傍らで、あなたは、そもそもクズ人間である自分が、人に働いた不義理を書き出すよう勧められる。もしあなたが一度でも経費を水増ししたり、オーガズムを装ったりしたことがあるなら、プログラムのガイド(あなたの支援者)は、それも書き出すよう言うかもしれない。あなたは泥棒で、嘘つきだと。ぐさりとくる。

「独身女の禁酒ライフ」

わたしが12ステッププログラムでいちばん好きだったのは、友人がダライ・ラマの『ダライ・ラマ こころの育て方』を読んでいることを知った参加者の話だ。

「ぼくは読まないと思うけど」と、その男性はぼそぼそと訊いた。「(こころを育てる)秘訣って何?」

「たぶん気に入らないと思うよ」男性の友人は答えた。

「え、まさか──」

「そう」

「嘘だろ」

「そうなんだ」

「『他人を助けること』?」

「そう」

「ちくしょう」

12ステッププログラムに参加した際、わたしは他者を助けることが、スクリューキャップのワインやベンゼンの代わりになるという考えが大嫌いだった。他者を助けることが幸福へのカギ? そんなバカな。わたしは本気でお金だと思っていたのだ。

この禁酒に関する昔ながらの──治療が済んでいない酔っ払いは悪党であり、健全な起業家ではないという──たとえ話は、今年、思いがけないところで登場した。Huluのシットコム「独身女の禁酒ライフ」だ。自身もアルコール依存症から回復した、脚本家のシモーネ・フィンチが手がけたこの非常に魅力的な作品は、22年1月から放送が始まり、ソフィア・ブラック=デリア扮する大酒飲みのサムが暴行容疑で逮捕され、12ステップミーティングに送り返されるというものだ。

驚いたことに、「独身女の禁酒ライフ」に登場するAAのマニアックな用語やミーティングのシーンは、お酒の問題を抱えた人々が登場する多くの番組で見られるように、患者を刺激して再発させるための装置として使われているわけではなかった。実際、12ステップでのサムの回復の様子があまりに的確で感銘を受けたわたしは、ひょっとしたらほかの人は、この番組全体をAAのプロパガンダ、例えばどさくさにまぎれてキリスト教に引きこもうとするアーチー・コミックスの続編のように感じるのではないかと思った。アーチーと彼の仲間はいつもどおりオープンカーで盛り上がり、タバコやセックスといった50年代の誘惑を前にこんなことを言う。「ジャグヘッドってば、ヨハネの福音書14章6節を読んでみなよ! 神はわたしたちのために完璧な計画を用意してるんだって!」

わたしのパートナーは、確かに「独身女の禁酒ライフ」はこれとは違うねとわたしに言った。しかしサムが30日禁酒メダルを手にしたとき、彼はわたしのように声を詰まらせなかった。じゃあ、サムがようやく自分は世間のお荷物ではないと気づき、周囲の期待に応えようとしたときはどうか。もちろん、わたしは泣いた。

道徳的マゾヒズムに傾く可能性

AAに対する大きな批判は、懲罰──わたしって最低? うん、いつも──が道徳的マゾヒズムに傾く可能性がある点だ。自分の「人格の欠陥」を点検するのは誠実であるように思えるが、トラウマに苦しむ人のなかには、アルコール依存症者は全員罪びとだとみなすAAの主張を被害者叩きだと考える人もいる。人生の悪い時期に自分の役割を探そうとすると、苦しみを抑圧してしまうか、さらには苦しみを増幅させることになりかねない。

気に入らないこともたくさんある。AAミーティングは地球上のどこよりも社会的に異質だが、政治について話すことは「伝統」と呼ばれるプログラムのざっくりした指針において、実質的に禁止されているのだ(わたしは以前、ブレット・カバノーの悪口を言ったせいでミーティングを追い出されたことがある)。さらに、ビッグブックの一部にはとんでもない性差別がある。「妻たちへ」という恐ろしい章では、酒飲みの理想的な侍女は、放蕩(「6月の雪のように溶ける預金口座」)から、暴力(「子どもに手を上げる」)、悪い仲間(「保安官、警官、路上生活者、友人、ときには家に連れ帰った女性さえ」)まで、酒飲み男のすべてを許すよう教えている。

12ステップのメンバーのなかには聖典原理主義者や文化的保守派もいるものの(ミーティングは地域色が強い)、このプログラムは聖書ではなく、80年にわたって会合で培われ、取捨選択されてきた伝承や金言のなかに生きている。この終わりなき文章には「資格」や「共有」が含まれる。こうした儀礼形式の物語を通じて、アルコール依存症者は自分の経験、そこから得た視点、育まれる希望などを話し合っていく。

ビッグブックの大半もまた、中世の白人男性による福音書ではない。プログラムについて説明する序章に続いて、クィアの酔っ払い、先住民の酔っぱらい、医者の酔っぱらい、列車で旅する放浪者の酔っぱらいなど、多様なアルコール依存症者のミニ回想録が紹介される。多くのミーティングでは、参加者はこうした物語を読み、ときには一人称を「わたし」に変えて、自分とは異質なアイデンティティを体現する。酒飲みの年配のおばさんが、酒飲みの若い犯罪者の言葉を読むと、そこには皮肉が生じるが──しかし、他者の心の広がりや苦しみの普遍性を認めることから得られる至高の甘美さも生まれる。また優秀な支援者は、参加者が熱中しすぎるのを防ぎ、プログラムの教義や矛盾や時代錯誤な点を笑い飛ばせるよう手助けする。

あまり楽しいことではないが、支援者はあなたが「現金や賞品」のために禁酒するわけではないことを思い出させる。賞品とは、クルマ、セックス、名声、現金、あるいは健康のこと──シラフのインフルエンサーがモデルを務め、さらには提供するご褒美である。支援者は「ほどほど」の飲酒も、ましてや週10杯の飲酒も許してくれない。従来の依存症者にとっての飲酒の危険性は、飲むと必ずと言っていいほど不正直になってしまうことだ。わたしは以前、ミーティングにいた怖そうなリーダーに、グラン・マルニエが少しだけ入ったデザートを食べてもいいかと尋ねたことがあるが、そのとき「この病気を甘く見ないほうがいい」と注意されたことがある。彼女は絶対に、ニア・ビール[編註:アルコール度3.2%以下のビール]やケイティ・ペリーの6ドルのモクテルには触れないだろう。

シラフになることと酒をやめることはイコールではない

わたしがグレイザーのようにAAの科学否定をそこまで真剣に受け止められない理由のひとつは、研究者らが、12ステッププログラムでは禁酒とはカウントされないような成功のビジョンを利用しているように思えるからだ。

12ステッププログラムでは「飲み物を置く」ことで、ようやく道徳的かつ精神的な状態とみなされる。結局のところ、AAがしているのは極めて控えめな約束なのだ。Ninth Step Promisesと呼ばれるリストによると、回復したアルコール依存症者が、自分が傷つけた人々に償いをしようと思っても、漠然とした、ささやかな配当しか期待できない。酒を飲まずに他者を助けることで、ある程度の安らぎを得、他者への関心を新たにし、直感が冴え、後悔、自己憐憫、当惑、経済的不安の恐怖から解放されるのだ(注:経済的不安という恐怖からの解放≠お金)。

新たな禁酒運動の多くは、12ステップグループの口うるさいアルコール依存症者にとっては受け入れがたいものだった。しかし他人の禁酒のやり方をとやかく言うのは、回復途上にあるアルコール依存症者がよく犯す間違いで、AAの創設者ビル・Wは、そういう人たちのことを「血まみれの助祭」と呼んだ。そのフレーズの出所は神のみぞ知るだが、わたしはこの呼び名を聞くと、黒い法王の帽子をかぶり、ぱっくりと開いて血がにじみ出ている聖痕のある、痩せさらばえた人物の姿が脳裏に浮かぶ。AAミーティングでの一般的な解釈によると、血まみれの助祭は、あなたが祈りを怠ったり、コーヒーカップの配置を間違えたりして狭い道を踏み外せば、文字通り死が待っていると主張する。

禁酒に関してわたしは何の権限ももち合わせていない。わたしは41歳までお酒をやめられなかった(ラッセル・ブランドが禁酒したのは27歳で、わたしは彼と自分を比較して絶望している)。わたしの怒りに満ちた酒断ちには、愛も光もほとんどなかった。オピエート拮抗薬、ホットヨガ、ノンアルコールテキーラを使って禁酒するほうが、ミーティングをがまんするよりよっぽど正しく、効果的に思える。

だがわたしが学んだところによると、シラフになることと酒をやめることはイコールではない。それは、よりいい人間になるという古風な希望のなかで、慢性的に野暮ったいプログラムに取り組むということだ。会合の参加者は、飲酒についてより、ほかの運転手に道を譲ること、他人のパーキングメーターにお金を入れてあげること、ホームレスにサンドイッチを買ってあげることについて話す。新たなシラフインフルエンサーたちのおかげで、この陳腐な12ステップが万人に当てはまるものではないことはわかった。確かにその効果は、科学を使って一覧にすることはできない。わたしの経験では、それらは計り知れないものなのだ。

WIRED US/Translation by Eriko Katagiri, LIBER/Edit by Michiaki Matsushima)