ユーラ・ビス

作家。著書に『子どもができて考えた、ワクチンと命のこと。』『Notes from No Man’s Land: American Essays』(全米批評家協会賞受賞/未邦訳)などがある。

スコットランドから南のラクストンに向かう列車に進行方向とは逆に座ったわたしは、目の前を通りすぎていくイングランドの野原を眺めていた。わたしの視線は、暗いひだになった丘の陰やでこぼこの垣根の向こうに、どうやって見つけたらいいかわからないもの、果たして目に見えるのかどうかも定かでないものを探していた。

わたしが探していたのは、私有財産の起源という、なんだかよくわからないものだ。その垣根の中に、「囲い込み」の生きた記録が見えはしないか。かつて土地をもたない者たちが集団で耕してきた土地が、土地所有者の所有物にされていった数世紀にわたる過程の記憶が、どこかに残っていはしないだろうか。

その土地は、昔ながらの所有という意味で言えば、もともと土地所有者のものではあった。だが、その土地を常に使用してきたのは、土地をもたない者たちであり、そうした人々はその土地に属していた。やがて新たに設置された垣根に囲まれた野原の中で、所有権の意味が変容していく。土地所有者はいまや土地の使い方を一方的に決める権利をもつようになり、その土地に属する者はいなくなった。

列車の後方を眺める席からは、崖のてっぺんに建つ長い石壁が見える。ジョン・バージャーはこう表現した。「壁は、はるか昔、階級闘争と呼ばれる闘いの前線だった」。壁やフェンス、垣根や溝はすべて、囲まれた土地の境界を示すために使われ、羊が外へ逃げないようにしたり、その他もろもろの利益を追求したりするためにつくられた。この「囲い込み」によって、英国内のほとんどすべての農地が、人口のわずか1%以下の人びとによって所有されることとなった。『イングランド労働階級の形成』の中で、歴史家E・P・トムスンはこう書いている。「『囲い込み』が階級全体による強奪行為であることは明白だ。しかもそれは、土地所有者と法律家が構成する議会によって定められた、正当な所有権法に則って行なわれた」

メイフラワー号に乗って海を渡ったピルグリム・ファーザーズは土地所有者ではなく、土地所有者から資金援助を受けた経済移民だった。また彼らはある意味、共産主義者でもあった。入植後7年間は共同で働き、その労働によって得た利益は全員で分配することになっていたのだ。もっとも、その合意は最初の1年しか続かなかった。彼らが入植したのはワンパノアグ族の土地だったが、ワンパノアグ族はその土地の所有権をとくに主張することはなかった。ワンパノアグ族のあいだでは、ある土地を使用する権利は複数の家族にまたがっており、ある家族がその土地の川で魚を獲る権利をもっているとすると、別の家族がその川の岸辺を耕す権利をもっていたりする。使用権は母から娘へと伝えられるが、土地そのものは誰の所有物でもなかった。

マサチューセッツ湾の初期の地図。 ART WORK FROM GETTY

昔、ある美術館の床に、開いた古いトランクがいくつか、芝をいっぱいに詰めて置いてあるのを見たことがある。それは南アフリカのアーティスト、ケマン・ワ・レフレレの作品で、美術館のカタログによると、歴史から削除された風景を再現しようとしたものらしい。「囲い込み」も、そういった景色のひとつだ。その削除は、500年という長い年月をかけて、おそろしくゆっくりと拡がっていった。

囲い込みの始まりは中世にさかのぼるが、それを完成したのは18世紀と19世紀の議会制定法だ。この土地革命は、来たるべき産業革命の土台をつくった。マルクスによれば、囲い込みこそが土地をもたぬ賃金労働者を生みだし、それがプロレタリアートの始まりとなったのだという。現在の歴史学者はその説には同意できないようなので、とりあえずこう言っておくのが無難だろう。「囲い込みはロマン主義の詩を生みだした。失われた世界を懐かしむノスタルジアにあふれた文学を」。土地をもたぬ詩人ジョン・クレアはこう書いている。「誰もがため息をついた、あの無法の法、囲い込みがやってきたとき」

クレアは故郷を懐かしむ詩人だった。子どものころに走り回った開けた野原のことを、繰り返し書いてはその思い出にひたった。「果てしのない景色を支配していたのは、境界のない自由だった。そこにはまだ所有を示す囲いが忍び寄ってはいなかった」。4冊の詩集を書いたあと、クレアは発狂したとみなされ、精神病院へ送られる。しかしそこを抜けだしたクレアは、80マイル(約130km)離れた故郷を目指して歩く。溝の中で眠り、雑草を食べ、初恋の人に会えると信じて。だがその初恋の人は、すでにこの世の人ではなかった。美術館の床に置かれたあのトランクを見て以来、わたしの頭のなかでは、生まれ故郷の芝の入ったトランクを下げたクレアが、80マイルの道のりをいまも歩き続けている。

かつて囲い込まれたことのない村

ラクストンはイングランドに現存する、過去一度も囲い込まれたことのない村のひとつだ。そこではいまも小作農家の人たちが、これまで少なくとも700年の間してきたのと同じように、共同で土地を耕している。ここで使われているのは解放耕地と呼ばれる制度で、丘の起伏に沿って並ぶ細長い区画の中で作物を耕す。それぞれの区画の間には垣根もなければ柵もなく、すべての区画の運営は農家どうしの協力によって成りたっている。

囲い込みが行なわれる前の時代、土地をもたない村人たちが家畜を放牧する牧草地は「コモン(共有地)」だった。ラクストンにはタウン・ムーア・コモンと、それよりかなり大きいウェストウッド・コモンというふたつのコモンズがあり、その両方に104件の共同利用権が設定されていた。この利用権は、それぞれ村内に建つコテージまたは屋敷に付属するものだ。ラクストンでは、コモンズは最ももてるものが少ない人たちのために確保された資産だった。コモンズと解放耕地はどちらも荘園の領主の所有物だったが、そこを使用する権利をもっていたのは、小さなコテージしかもたない村人たちだった。

私的所有権の時代からやってきた人間からしてみると、共同利用者たちが自分がもっているわけでも借りているわけでもない土地の権利を所有していたというのは、かなり異例なことのように感じるが、当時はそれが当たり前の状況だった。またふつうの放牧に加えて、共同利用者たちは「森で豚を走らせる権利」や「燃料の泥炭を切り出す権利」、「森で薪を集める権利」、「魚を釣る権利」なども与えられていた。こういった権利は最低限の生活を営むために必要なものであり、土地から入手できるもので生活していくための権利だった。

だが囲い込みが拡がるにつれ、成文法が慣習法を駆逐し、共同利用者たちはそういった権利を失っていった。議会は所有権を絶対のものとし、生活のために土地の恵みを手にいれるという伝統的な行ないは「窃盗」と定義し直された。収穫物を集めに行くことは「不法侵入」とみなされ、魚を獲ることは「密漁」となった。共同利用をしつづけた人たちは、いまや犯罪者と呼ばれることになった。この法律の歴史全体を、次の作者不明の4行詩が巧みに言い表している。

共有地からガチョウを盗む男や女を
法律は牢屋に閉じこめる
だがガチョウから共有地を盗む大悪人は
何のお咎めもないまま野放しだ

「コモンズの悲劇」

「ここがピルグリム・ファーザーズの故郷なんですよ──このノッティンガムシャーがね」。レットフォードの駅からラクストンへ向かうために乗ったタクシーの運転手は、窓の外を指してそう言った。「知ってました?」知らなかった。わたしは運転手に、ここには農家の人は多いですか? と尋ねた。その朝列車に乗ってからわたしが目にしてきたのは、どこまでも続くなだらかな畑ばかりだったが、そこに人の姿は誰ひとり見えなかったのだ。「いまは機械が畑仕事をやるからね」と運転手は答えた。「たいていの人はほかの仕事をしているね」

運転手はブレグジットに賛成の投票をしたそうだ。まさか通るとは思っていなかったが、まあ通ってよかったと思っている。この旅をした2016年当時には、ブレグジットにはまだ現実味がなかった。「もうあれこれ指図されずにすむ」と運転手は言う。おそらく関税や貿易協定のことを言っているのだろうが、とにかく独立したいという考えのほかに、彼にとってそういう話がどれほどの意味をもつのか、わたしには計りかねた。実はラクストンまでバスに乗ろうと思っていたんですが、駅でバスの時刻表を見たら、毎日走ってるわけじゃないんですね、とわたしは話題を変えた。「このへんの交通状況は、まあひどいもんだ」と運転手は言った。どうやらそれはタダでバスに乗る年金生活者のせいだ、と言いたいようだった。

共有されていた資源が、それを搾取する人々によって必然的に破壊されてしまうという状況を、「コモンズの悲劇」と呼ぶ。これは常識として通用する考え方というだけでなく、経済理論としても根拠のあるものだ。そもそも「コモンズの悲劇」というのは、1968年に生態学者ギャレット・ハーディンが書いた論文のタイトルだった。この論文はあまりに多くの人々に引用されたため、コモンズが何なのかまったく知らない人にまで「コモンズ」という言葉が使われるようになってしまった。

「コモンズの悲劇とは次のように起こる」とハーディンは説明する。「誰もが使える牧草地があるとする。牛飼いたちはそれぞれ、その共有地でできるだけたくさんの牛を飼おうとする。そういった仕組みが数世紀の間、そこそこうまく働いてきたのは、部族間の争いや密猟や疫病などのせいで、人と家畜両方の数が、土地が養いきれる上限を超えるほど増えなかったからだ。だがやがて審判の日がやってくる。つまり社会の安定という、長い間求められてきた望みが現実となる日が来るのだ。この時点で、共有地がもともと内包していた論理が、無慈悲にも悲劇を生みだしはじめる」

ハーディンは白人の国粋主義者で、現在「交代説」と呼ばれている考え方の信奉者だった。彼の言によれば「多民族社会は正気の沙汰ではない」ものであり、したがって合衆国は非白人の移民を制限すべきだと信じていた。1974年に出版された論文「Lifeboat Ethics: The Case Against Helping the Poor(救命ボートの倫理:貧民救済反対の例証)」で、ハーディンは世界食糧銀行を創設することの危険性を訴えている。「将来に対する備えをもつ有能な人々の金を使って、将来に対する備えが乏しく能力にも劣る人々が増殖する。その結果、コモンズに共存するすべての人が滅びることになるのだ」

ハーディンがこの論文を書いたのは、囲い込みにより共有地が失われてかなりの年月が経ってからのことであり、彼の言う「コモンズ」とは単なる比喩でしかない。実際には歴史上のコモンズは、彼が想像したような誰にも何の制限もない空間とは違っていた。ラクストンでは、ウェストウッド・コモンの権利をもつ村人たちは20頭の羊あるいは牛を飼うことだけができた。夏の間に、冬の間も世話できる頭数以上の家畜を飼うことは、誰にも許されなかった。

コモンの権利は何世紀にもわたり、需要の増減にしたがって継続的に見直しと改訂が行なわれた。1662年には、あるラクストン在住の男が「タウン・ムーア・コモンで担当区画のアザミを伐採しなかった罪で」裁判所から罰金を科せられている。E・P・トムスンが言うように、「コモンズを利用する人たち自体は、コモンセンス(常識)をもたない人たちではなかった」のだ。

ハーディンが「コモンズがもともと内包していた論理」と考えているものは、実際には現代を支配する資本主義の論理のことだ。その論理が行き着くところは、たとえどんな結果が待っていようと、とにかく拡大を目指すことであり、事実ハーディンの警告どおり、われわれの世界をほぼ破滅へと導いてきた。ハーディンはこう書いている。「破滅こそがすべての人間が先を急いで向かう目的地である。それは誰もがコモンズの自由を信じる社会のなかで、自らの最大の利益を求めて奔走した結果だ」。ここで彼の言う「自由」とは、いわゆる「自由な事業活動」のことであり、現代の定義で言うところの「利益追求権」のことだ。

白人国粋主義者たちのノスタルジア

「ノスタルジア」という言葉は、ギリシャ語の「帰郷」と「痛み」を意味する言葉から成りたっている。1688年にこの言葉を最初に使ったスイスの医師は、それは人の体を弱らせる心の病であり、非常に深刻な病状だと考えた。その医師の扱った症例のなかに、ひどい転倒事故からの回復を目指して、遠くの病院に送られたある少女の話がある。少女は食べ物も薬も拒否し、ただ「家に帰りたい」と訴えるようになった。医師はこの「ノスタルジア」の初期段階と思われる症状を、吐瀉や瀉血といったほかの治療法で紛らわすことを勧めた。それが全部失敗に終われば、残った選択肢は少女を故郷へ帰すことしかない。だが、これが往々にして病気の全快につながることがあった、と医師は書き残している。

数百年の間、ノスタルジアは心の病や神経障害と考えられてきた。この病は誰にでも起こりうるが、とくに行き場をなくした人に多く見られる。比較的最近の1938年にも、それを「移民の精神病」と描写する記述があるほどだ。現在でさえ、多くの人の頭の中では、ノスタルジアは憐れむべき状態と捉えられており、命をおびやかす危険があるわけではないが、後ろ向きで感傷的な感情と思われている。

感傷の極みとも言えるのが、ジョン・クレアが愛する2本のニレの木を失う絶望について書いた詩だ。この木は所有者の地主が、材木にするために売り払おうとしていた。クレアの詩の才能に最初に気づいた人物が、このニレの老木を救おうと間に立ってくれたが、その人物はおそらく木のことよりもクレアのほうが心配だったのだと思う。クレアは体が衰弱するほどの憂鬱な気分に陥りやすく、のちには妄想にもとりつかれるようになった。

クレアの狂気の詳しい性質については、不明な部分が多い。貧しさゆえのストレスが引き金となったのか? あるいは栄養不良が原因か? 伝記作者のジョナサン・ベイトの推測では、おそらくその原因はひとつではないが、最も明らかな原因はよくあるうつ病だったと思われる。ベイトはこう書いている。「クレアの天才は並はずれたものだったが、その『狂気』は珍しいものではなかった」

いまではノスタルジアは病気というより、心理的な戦略と捉えられるようになった。それはいわば過去から慰めを引きだして、それを不確かな現在に当てはめる方法だ。それによって、空虚と無意味さにさいなまれる感情を、満ち足りて意義深いように感じられる記憶へと塗り替えることができる。「それは心のなかに『記憶を植えつける』行為なのだ」と、精神分析医のD・G・ハーツはノスタルジアのもつ効果について書いている。2008年のある論文の著者たちは、「ノスタルジアは孤独に対処するための行為である」と分析し、さらにこう結論づけている。「それは帰属意識の欠如を是正しようとする試みなのかもしれない」

おそらくいまの政治的なノスタルジアを導いているのは、まさにその帰属意識の欠如だろう。そのノスタルジアは「メイク・アメリカ・グレート・アゲイン(アメリカを再び偉大な国に)」というスローガンによって呼び覚まされたものだ。白人国粋主義者たちの運動は、作家ゼイディー・スミス言うところの「タイム・トラベルを望む過激な願望」に突き動かされている。個人的なノスタルジアは心のなかに現実の記憶を植えつけようとするが、政治的なノスタルジアはタイムトラベルと同じくらい非現実的な時代へと戻ろうとする場合が多い。

白人国粋主義者たちの言うその「過去」においては、土地と所有権、権利と返還請求を求める非白人からの敵対的な主張に、白人は苦しめられてはいなかったという。その「過去」では、白人は非白人に対する何の責任も負っていない。そんな過去は、いまだかつて存在したことなどない。なのに一部の人たちの頭の中には、そういった「自由な過去」が消え去らぬ夢のようにいつまでも残り続けている。

封建制度のもとでは、小作人は領主の土地を耕す義務を負い、領主は小作人に生活必需品を供給する義務を負っていた。1725年、英国ミッドランド地方のある荘園領主が、家令から貧しい家族への牧草地の割り当て方について進言を受けた記録がある。「わたくしが思うに、未亡人のサットン夫人にはリチャード・ウィルキンズより一区画多く割り当てるべきです。ウィルキンズには確かに子どもが3人おりますが、その子どもたちのためにサットン夫人よりもたくさん働くことができます。サットン夫人は小さい子どもを2人抱えているだけでなく、姑の世話もしなければなりません。夫人がいなければ、姑はすぐにでも教区の世話になっていたことでしょう」

領主は他人の世話をしている人を援助するのが当然だ、という前提のもとに話が進められていることも興味深いが、さらに印象的なのが、家令の進言の論拠だろう。彼の進言は道徳や法的義務ではなく、必然性に基づいている。未亡人にその土地を割り当てるのが「ふさわしい」のは、彼女がその土地を必要としているからなのだ。

「おそろしいまでの尊大な主張」

ラクストンの村はコンパクトにまとまったつくりをしていて、すべての農民がパブから歩いていける距離に住んでいる。これは、わたしがそれまでに知っていたどんな田舎の村とも違っていた。村の中心に立つと、ある概念のなかに立っているような感覚にとらわれた。それは他人との必然的な関係を保ちつつ生きる、という概念だ。その概念にわたしはすっかりなじんだ気持ちになったが、一瞬そう感じた自分に戸惑いを覚えた。そして、これまでに一度も来たことのない村の中心にしっかり抱きしめられるような感覚を味わいつつ、いま感じているこの心地よさは、果たしてわたしの想像がつくりだしたものなのだろうか? と思いを巡らせた。

パブの隣にある納屋の上には、貸間になっている部屋がふたつある。わたしが泊まったほうの部屋の窓からは、いくつかの耕作地が見えた。納屋の前の門をくぐって歩いていくと、レンガの壁や石壁など、7つの種類の違う囲いがあることがわかった。そのとき初めて、囲い込みの存在は、実際の壁や柵の存在によって示されるわけではない、ということに気づいた。ラクストンに来てからまだコモンズの場所は見つけておらず、そもそもいったいどうしたらその場所を特定できるのかもわからなかった。「コモンズは目に見えない」と歴史家のピーター・ラインバウは言っている。「それが失われてしまうまでは」

わたしは村の中を歩いて教会に差し掛かった。1190年ごろに建てられた教会の墓地には、まだ真新しい墓がひとつ立っていた。小ぎれいな農家がいくつか並び、家の裏手には道から隠れるように洗濯物が干してある。農場にはすべてアルミのネームプレートが取りつけられていて、プレートには大きなHelveticaの書体で農場の名前が書いてあり、少し小さな文字で王冠のロゴとともに「クラウン・エステート(イギリス国王に帰属する公の不動産)」の表記もあった。そうか、ラクストンの村はブランド化されているんだ、とそのときわたしは気づいた。

畑に入ったところで、その空間の美しさに惹きつけられて、わたしは立ちどまった。空には8月も終盤の太陽が低く光り、大きく丸い干草の塊がなだらかな丘の斜面に点々と置かれていた。丘には作物が格子模様を描いている。ある区画には黄金色の小麦が実ってそよぎ、またある区画では麦は刈られて切り株が鮮やかな切り口を見せていた。最近収穫が終わったばかりの区画の端に足を踏み入れたわたしは、刈り取られて地面にこぼれた小麦の絨毯に指を這わせた。

ミレーの『落穂拾い』に描かれたフランスの農婦たちが、エプロンに拾い集めていたのはこれだ。通常なら宗教的なテーマが描かれるはずの大きなカンヴァスの上に描かれた落穂を拾う人たちは、「落穂拾い」が聖書によって認められた行為だということを思い起こさせる。絵の前景で腰を曲げて無心に落穂を拾う3人の農婦は、1857年のパリのサロンで人々から信じられないほどの怒りを買った。ある批評家はこう書いている。「ミレーの3人の落穂を拾う農婦たちには、おそろしいまでの尊大な主張が見てとれる」

『落穂拾い』(1857年) COURTESY OF ALBUM/AFLO

落穂を拾う権利は、当時のフランスで大きな議論の的となっていた。かつては英国同様フランスでも、収穫の際に残った落穂を拾う権利は、伝統的に貧しい人々のために確保されていた。したがって収穫後の畑を落穂拾いの人々に解放することは、土地所有者の義務だとされていた。ところがミレーの絵が発表されたころ、フランスでそれは慈善的行為であると定義し直される。その結果、基本的に落穂拾いは私的所有権の侵害とみなされるようになり、新たに出現したブルジョワの土地所有者たちは、「女たちの集団」が自分たちの所有する作物を「くすねに来る」と文句を言うようになった。

アニエス・ヴァルダが晩年の2000年に撮った映画『落穂拾い』では、現代の落穂拾いたちが畑や果樹園に出没するばかりでなく、都市の市場や路上のごみ箱をあさる姿をとらえている。落穂拾いたちは、農家が道ばたに捨てた規格外のジャガイモの山を持ち去り、潮が引けば嵐が養殖筏から引きはがしたカキを拾い集める。街中では、男が売り子たちが引き払ったあとの青空市場を歩きまわり、レタスの切れ端を口にしながら、捨てられた野菜を拾っていく。廃品アーティストが獲物を探して道ばたを物色し、見つけた壊れたワイパーを使って彫刻をつくりあげる。落穂拾いとアート創作は、由緒ある伝統にのっとった行為だとヴァルダは言いたいようだ。ごみ拾いとは、古くなったからといって物を簡単に捨てないのと同じ伝統に属する行為なのだ。

映画『トゥームストーン』とカウボーイ

開けた畑から外に出る道で、片手のない男性と行きあった。その人は熱心な調子で、「いやあ、わたしはアメリカノフィル(米国びいき)でね」と話してくれた。いままで一度も聞いたことのない言葉だ。前にフロリダとテキサスとアリゾナに行ったことがある、あんたはなんであんないいところを出てきたんだい? と尋ねられた。「あそこには何でもあるじゃないか。できれば米国に住むんだがな」

彼はラクストンに住む農家だったが、先はそれほど長くないらしい。もう引退するんだ、政府の口出しがうるさくて、と彼は言った。昨日ネズミ駆除の薬を買いに行ったのだが、政府に邪魔されたのだという。早口でまくしたてる彼の言葉を聞きとるのは難しく、政府と殺鼠剤にどういう関係があるのか、いまひとつよくわからなかったが、彼が政府に不満をもっていることは理解できた。好きな映画は米国のカウボーイ映画『トゥームストーン』だ、と言う彼の声には敬意がこもっていた。一度米国に行ったときに、西部の風景の中をクルマに乗って突っ走り、トゥームストーンの町にも滞在したそうだが、あまり感動はしなかったという。町はいまでは博物館のようになっていて、有名な「OK牧場の決闘」を1日に3回再現している。「ラクストンも古くさい村だが、トゥームストーンのほうがもっと古くさかったな」と彼は言った。

映画『トゥームストーン』(1993年)より PHOTOGRAPH: EVERETT COLLECTION/AFLO

『トゥームストーン』に出てくるカウボーイたちは、自らを「カウボーイズ」と称していた密売人たちをモデルにしている。トゥームストーンの町で、牛飼いをカウボーイと呼ぶのが侮辱と捉えられるようになったのは、彼らのせいだ。映画のなかでは、カウボーイズを追う法の番人たちはあまり真っ当な市民とは言えず、ギャンブルで持ち金をなくして、保安官になることを選んだような輩だ。こういった保安官たちが一発当てるためにトゥームストーンにやってきて、結局何もかもなくして町を去ることになった。

囲い込みの物語は、時に契約、あるいは取引の物語として語られる場合もある。そういった取引で、土地所有者は土地をもたぬ者たちとの伝統的な関係を売り渡し、それと引き換えにより確かな独立を手にした。貧民に施しをするという社会的義務から解放された土地所有者は、いまや利益のみを求めて畑を耕す自由を手に入れたのだ。この自由こそが、いわゆる農業革命と呼ばれる効率性の向上をもたらしていく。そうしてコモンズの利用者たちは、かつて自給自足の生活によって自分たちに認められていた自由を失った。土地から切り離された人々は、今度は賃金に縛られる存在になっていった。

後編はこちら

THE NEW YORKER/Translation by Terumi Kato, LIBER/Edit by Michiaki Matsushima)