ゾーイ・ヘラー

著書に小説『あるスキャンダルの覚え書き』(ランダムハウス講談社)『The Believers』『Everything You Know』がある。

10年前、ハンナ・ロージンは著書『The End of Men(男性の終焉)』[未邦訳]で、フェミニズムはその目的をおおむね達成し、次は男性の萎縮を懸念するべきだと主張した。米国では、学士号と修士号を取得した人の数は男性より女性のほうが多くなり、コミュニケーションと柔軟性を重んじる「女性化された」労働市場で、米国人女性は活躍を期待されるようになった。米国史上初めて、女性は職場で男性に数で勝るようになった。「現代の経済界は、女性が主導権を握る場となりつつある」とロージンは書いた。

だが、トランプの台頭や#MeToo運動、人工妊娠中絶を認めたロー対ウェイド事件を覆す判決など、この10年間に起こった出来事により、フェミニズムはこうした勝利の酔いから醒めたようだ。フェミニストの言説の全体的なトーンは、以前より明らかに手厳しくなり、皮肉を帯びるようになった。「女性であること」の未来を示す明るいスローガンは影を潜め、以前は女性学の教授たちだけの専門用語だった「家父長制」という言葉は、いまや一般的な文化として語られるようになった。

2021年、パンデミックのなかで女性が職を追われる現状を説明した記事で、ロージンはかつて述べた主張を撤回し、その「悲劇的な無邪気さ」を謝罪した。「労働人口への女性の大量参入は最初から不正操作されていた」とロージンは書いている。「米国の労働文化は常に専門職から女性を排除し、女性を労働階級に縛りつけようと企んできた」

もちろん男性のなかでも、保守的な男性たちは依然として男性の状況を嘆き続けている(保守派政治コメンテーターのタッカー・カールソンは22年春、ロージンの書籍のタイトルを横取りして、男性の精子数の急激な減少に関するドキュメンタリー番組を宣伝した)。だが、「男性の衰退」を嘆く物語に、フェミニストはもはや愛想を尽かしてしまった。「男性は最近、迫害された哀れな男性のつらさについてしきりに泣き言を言っているが、それは家父長制の純粋な産物となる責任を巧みに逃れようとしているにすぎない」とポーリーヌ・ハーマンジュは20年刊行の著書『I Hate Men(わたしは男性が大嫌い)』[未邦訳]で述べた。

さらに最近では、英国のジャーナリストであるローリー・ペニーが著書『Sexual Revolution(性の革命)』[未邦訳]で、そうした泣き言の体系的な根拠を次のように指摘している。「家父長的な文化のあらゆる毛穴からにじみ出る前提は、女性は痛みや恐怖や不満に耐えるはずだが、一方、男性の痛みは容認できないというものだ」。ペニーは男らしさに対する嫌悪と男性に対する嫌悪を注意深く区別しているが、それでもなお、現代の基本的な政治闘争はフェミニズムと白人異性愛者の男性による支配との戦いだと説明する。

また、英国の著作家であるキャサリン・エンジェルは著書『Daddy Issues(父親との問題)』[未邦訳]のなかで、#MeToo運動時代のフェミニストに対し、長年見過ごされてきた父親の怠慢に注意を向けるべきだと呼びかけている。女性は父親を批判したがらないものだが、家父長制をつぶすとしたら、その点を問いただし、克服しなければならないとエンジェルは主張する。「現代の教養豊かな父親」でさえ「批判を受ける」べきであり、娘たちは「報いを与え、復讐し、処罰したいという自分の気持ち」を無視してはならない、とエンジェルは言う。

女性と同じく男性の苦悩も認める

これら著作家たちの闘争的なトーンは、驚くべきことではない。女性の生殖権を守るために現在展開されている運動が男性の精子数の減少を特段案じていないのも無理はないと主張する人もいれば、男性のことを心配するのはフェミニズムの仕事ではないと主張する人もいる。キツネの状況を心配するのはめんどりの仕事ではないのと同じというわけだ。

ところが、最近出版された2冊の書籍は、そうした従来の著作家たちとは異なる主張をする。フランスの歴史家であるイヴァン・ジャブロンカによる『A History of Masculinity: From Patriarchy to Gender Justice(男らしさの歴史:家父長制からジェンダー公正へ)』[未邦訳]と、英国のコラムニストで哲学者でもあるニーナ・パワーによる『What Do Men Want?: Masculinity and Its Discontents(男性は何を望む? 男らしさとそれに対する不満)』[未邦訳]の2冊である。

ふたりは、性をめぐる議論がゼロサムの戦いへと向かうのはフェミニズムにとってよくないことだと主張する。この問題に対する両者の分析はほぼ正反対ではあるものの、ふたりとも寛容で人間味のあるフェミニストの主張に賛同し、女性と同じく男性の苦悩も認めている。めんどりには怒るだけの正当な理由があるがキツネにも感情はある、とふたりは認めている。

ジャブロンカの緻密な研究に基づく難解な書籍は、19年にフランスで出版され、思いがけなくベストセラーとなった。さまざまな神話をもとに主題に迫った意欲的な作品である。ソルボンヌ・パリ・ノール大学の教授であるジャブロンカは、後期旧石器時代の謎の多い豊満な「ヴィーナス」像の分析に始まり、現代フェミニズムの一連の高まりに至るまでの何万年もの時の流れを丁寧に説明する。バビロニアのハンムラビ法典のもとでは、父親が犯した罪を処罰するために娘が殺害されていた可能性があるなど、印象的で時におぞましい情報に目を向け、時代を超えた類似性を生き生きと描き出した。

古代から現代に至るまで、武器、機関車、肉(特に生肉)は男らしさを示す重要な象徴であり、それはいまも驚くほど変わっていない。同様に、ローマ帝国崩壊からワイマール共和国の時代まで、男性は一貫して、政治の混乱や文化の衰退を女性らしい価値観の不健全な影響のせいと考えてきたという。

家父長制の発生に関するジャブロンカの主張は、極めて標準的なものだ。早くも紀元前1万年のスペインの洞窟壁画には、弓をもった男性が狩りをし、女性が蜂蜜を集める姿が描かれていることからわかるように、旧石器時代の社会ではすでに性的分業が行なわれていた。だが、それは比較的穏やかなものだった。やがて新石器時代に入り、農業の出現に伴い遊牧生活から離れると、出生率が高まり、女性は家庭という領域に留まるようになり、男性は土地を所有し始めた。それ以来、金属製武器や国家の出現、文字の誕生といった新たな発展のたびに、男性の支配と女性の服従という構図が強化された。

ILLUSTRATION BY ALAIN PILON

過去の経緯はそのとおりだ。だがジャブロンカによると、現在「家父長制は衰退した」ものの、男性は依然として「男らしさという病」にとらわれ、象徴的役割に従って生きようとしている。失われつつある優位性が反映されていない役割である。その結果、男性は「悲劇的とも言える」レベルの疎外感に苦しむようになった。フェミニストがこうした男性の苦悩を笑いものにし、無視すれば、男性たちはタッカー・カールソンとその仲間の報復主義者が語る夢物語に無防備な状態でさらされてしまうだろう。

そうではなく、フェミニストはいまこの瞬間を勢力回復の決定的チャンスとみなすべきだ、とジャブロンカは言う。いまこそ、「男らしさの強制モデル」によって男性は力を得た以上に苦しい状況に追い込まれていることを、男性自身に納得させるときだという。「男らしさによる支配は、男性にとって得にはなるが代償も大きい。不安定な自尊心、幼稚な虚栄心、読書や知的生活への無関心、精神生活の退廃、社会的機会の狭まりを生み……そして何よりも、平均寿命が短くなる」

フェミニズムは一向に男性に共感を示そうとせず、男性と協力しようとしなかった、とジャブロンカは主張する。それは、フェミニズム運動の参加者の多くが、男性は迫害者で女性は被害者という「二元論的な世界観」に固執し続けているからだ。一部のフェミニストは時代錯誤の極左主義者であり、女性の進歩を示す証拠を「男性支配の持続を隠蔽するために煙にまいているだけ」として拒絶する。また、「女性支持のロマン主義」により、女性は生まれつき男性よりも優しく進歩的だと信じ込んでいる人もいる。

ジャブロンカはこうした類の本質主義的な考えを受け入れず、そういう考えは伝統的な性別役割分担に誤った生物学的根拠を与えてしまうと言う。女性は生まれながらにして男性より優しく子育てに向いていて、男性には「本質的にレイプ文化が染みついている」としたら、なぜわざわざ現状を変えようとするのだろう。

テストステロンなどの男性ホルモンは男性の攻撃性と「関係がある」かもしれないとジャブロンカは認めるものの、「人間は生態にも性にも束縛されない」と言う。男性の野蛮な行為の歴史は家父長制文化の産物であり、男性と女性は「根本的に同一」と主張することによって初めて、フェミニズムは本来の目的である「ジェンダーの再分配」を実現できる。さまざまな「新たな男らしさ」が生まれ、特定の男性像を選択することが「ライフスタイルの選択」になるという。

家父長制をつくり出したのは誰なのか

しかし、男らしさを家父長的な「構成概念」と主張することは、説明というよりはむしろ説明の先送りと言える。そもそも家父長制をつくり出したのは誰なのか、あるいは何なのか?

進化生物学者の主張によると、最古の男性の祖先には、女性を激しく奪い合い、女性を独占することによって、自らの遺伝子を最大限に拡散しようとする進化のための動機付けがあった。ジャブロンカはそうした生物学的な責務という説は好まず、その結果、検証不能な物語のようなものに手を伸ばし、明らかにしてきた歴史の多くとズレた論を展開してしまう。

家父長制は単に女性の子宮に対する怒りから生まれた、とジャブロンカは推測する。「男性は女性がもつ力を与えられなかったために、その他すべての力を手中に収めた」と述べる。「これは男性の復讐だった。生物学的に劣っていたため、社会的な覇権を手に入れたのだ」

こうして、綿々と続く家父長的社会のエリートは「男らしさとは女性にはない優れた資質だ」と定義することにより、過去何千年にもわたって正当性に欠ける男性支配を支えてきた、とジャブロンカは言う。彼は、唯一無二の男らしさが存在すると考えているわけではない。むしろ、太古以来のあらゆる男らしさのモデルは、家父長的な権力を主張し、強制するための仕組みだったと考えている。闘牛士の社交的な自信たっぷりの態度は、ヴィクトリア時代の紳士の礼儀正しさとはかけ離れているし、カウボーイの素っ気ない魅力ともまったく異なっている。だが、これらはみな等しく男性優位の固定観念を示す表現というわけだ。

だが、ジャブロンカは世界中のあらゆる階層、不公平、対立を、有史以前の生殖をめぐる嫉妬心に帰着させようとしたために、やがて大きな混乱を引き起こす。彼は、男性が覇権を握ることによって「ユダヤ人」「敗者」「黒人」「同性愛者」が男らしさの点で劣っているとみなされるようになった、と突拍子もない、非歴史的とも言える主張を掲げる。

もちろん、貧しい人や黒人、同性愛者やユダヤ人に対する歴史上の迫害をジェンダーポリティクスの点からすべて説明するのは不可能だ。ジャブロンカはそんな説明を試みたために、白人男性が黒人男性を奴隷にしたのは黒人のことを「女性的」で「性欲がない」と考えたからだ、といった馬鹿げた主張をいくつも提唱する羽目になる。包括的な分析を目指した自信過剰とも言える執筆姿勢が仇となってしまった。

ジャブロンカは一貫して、本質主義的な男女観に反する立場を取る。女性も心の底は男性に劣らず貪欲で、人種差別的で、好戦的な行動を取ることができると主張するが、この考えは、「家父長的な男らしさのない世界は現在よりはるかに公正で平和な場所になる」という彼の主張の核心とはいささか矛盾する。この矛盾を解消しようと、彼は、将来権力を握る女性たちはこれまで権力を握ってきた男性たちの悪習を断ち、ジェンダー公正が「地位平等の原則に変換され、さまざまな社会経済的地位の間の不平等が軽減される」かもしれないという漠然とした希望を表明している。

現在のジェンダーポリティクスの典型的な弱点

ニーナ・パワーの著書『What Do Men Want?』によると、そうした階層間の不平等を軽視していることが現在のジェンダーポリティクスの典型的な弱点だという。パワーの短いながらも少々とりとめのない文化批判は、現代のフェミニストの原則をいくつか取り上げ、一貫性に欠ける部分も見られるが、男女の間に「気の利いた遊び心」を取り戻すためにはどうしたらよいかを説明する。

パワーは、「家父長制」や「男性の特権」といった言葉は漠然としすぎているとし、そうした言葉を貧しい労働者階級の男性に用いた場合、事実が明らかになるどころか覆い隠されてしまうと考えている。リベラル・フェミニズムは、生産手段を誰が所有しているかよりも人々がどんな「アイデンティティをもつ」かに関心を寄せるからこそ、企業資本主義と非常に相性がよいことを示してきた、とパワーは主張する。

パワーのいちばんの関心事は、フェミニズムはもっとインターセクショナルな視点[編註:人種・国籍・性別・階級などの差別を個別の問題と捉えるのではなくて、交差し合っているものと捉えること]をもつべきだと説くことではない。「体制という観点ではなく、互いを尊重するという観点から考える必要があると思うようになりました」とパワーは述べる。

パワーの考えによれば、男性の有毒性──マンスプレイニング[編註:男性が女性に対して偉そうに説明すること]やマンスプレッディング[編註:男性が公共交通機関の座席で大きく脚を開いて座る行為]など──について大げさに不満を訴えるのは、女性たちの間では仲間内の習慣のようになっている。だが、男性を常に悪者扱いすることで、日常的な男女の交流の楽しさや魅力の多くが失われてしまうだけでなく、わたしたちは男女の違いの価値やそこから生まれるものを見失ってしまった。

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男性が悪名高い「男らしさの強制モデル」から逃れる手助けをしたいと考えるジャブロンカに対し、パワーは、そうしたモデルから何を残す価値があるかを読者に問いかけている。男らしさを不要な遺物と決めつけようとするあまり、わたしたちは「家族を守る父親、責任感の強い男性」という男らしさの「肯定的な側面」を見失ってしまった、とパワーは言う。現代社会は男性の筋肉や攻撃性を必要としなくなったとよく言われるが、わたしたちはいまでも、戦争で戦うことなど、体力的にきつい、危険な仕事の大部分を男性に頼っている(ジャブロンカは性差が流動的となる未来でも、男性は力のいる、汚い、「報われない仕事」をすることになると認めている。融通の利かないジェンダー平等は「馬鹿げている」と彼は言う)。

男性に汚い仕事をさせることを相変わらず期待するのなら、男性の強さに何らかの価値を見出すべきではないか、とパワーは問いかける。そして、男性と異性関係を結ぶ女性はパートナーの攻撃性をある程度責任をもって尊重している、と主張する。「どんなにたくましく、どんなに自立した女性でも、いざとなったら少なくとも体力的には男性から守られたいと思うだろう」とパワーは言う。「暴力はわたしたちが想像するほど保護とかけ離れたものではない」

「男性の行動は様変わりした」

パワーの本は「あまりに極端」で、すべての重要な平等はすでに達成された、男性のやり方に関して必要なすべての改革は成功した、と宣言するが、そこまで言うのはまだ早急だ。

「男性の行動は様変わりした。……今日、同僚の女性を誘惑する男性などいるだろうか?」とパワーは言うが、これは自らの保守的な幻想を世界と勘違いしている人が口にするような軽薄な発言だ。ただ、そうは言っても、パワーが男女間で守りたいと望む「気の利いた遊び心」や、伝統的な男らしさの害のない側面は、おそらく一般に認められているよりも広く共有されているのだろう。

女性が恋愛小説を読むのは、服従という錠剤が甘く飲みやすくなり、「男性の権力の必然性」を受け入れやすくなるからだ、とジャブロンカはいささか説得力に欠ける主張をしている。もちろん、恋愛小説は家父長制の継続を目指す団体が創作しているわけではない。恋愛小説は、悪意なく支配力をもつ男性に惹かれる女性の根強い気持ちを代弁しているからこそ売れるのだ。

だが、女性を魅了するそうした力が自然と文化のどちらに端を発していようと、ジョン・ウェインに憧れる少女時代を描いたジョーン・ディディオンの小説を読み、「あなたはわたしより強くなくちゃ」と歌うエイミー・ワインハウスの歌を聞き、現代のティーンエイジャーがソーシャルメディアで「女のように柔らかな声」を馬鹿にするのを耳にすれば、男性支配に惹かれる女性の根強い気持ちがわかるだろう。

数年前、ハーバード大学の保守派の政治哲学者であるハーヴェイ・マンスフィールドは著書『Manliness(男らしさ)』[未邦訳]のなかで、保護は男らしさを特徴づける役割だと定義した。「男性は自らの保護下にある人たちが、自分がいなければ対処できない危険に直面したとき、その人たちを危険から守ろうとする」とマンスフィールドは書いている。

ジャブロンカにとって、そうした役割は家父長制と切り離すことができず、「保護の意思表示を礼儀正しく示すことは、善意ある性差別でもある。敵対的な性差別を補うものだ」と言う。一方、パワーは、男らしさの魅力的でセクシーな側面は確かに暴力的ではあるものの、それはあくまで「女性の活躍と両立しうる」ものであり、暴力は必要なときだけ引き出され、男女は普段は、注意深くつくられた平等のもとで暮らすことができると示唆している。

果たしてこれは本当だろうか? 女性は偉そうで威張った態度を我慢することなく、男らしい男性に温かく包まれることができるのだろうか? マンスフィールドは、それは無理だと考える。「名誉とは誰かを守ると強く主張することであり、守るという主張は支配するという主張でもある」とマンスフィールドは言う。「何をすべきか教えられないのに、誰かをしっかり守ることなどできるわけがないのだ」

THE NEW YORKER/Translation By Miho Michimoto, LIBER/Edit by Michiaki Matsushima)