畑中章宏|AKIHIRO HATANAKA

1962年大阪生まれ。民俗学者、作家。著作に『柳田国男と今和次郎』〈平凡社〉、『災害と妖怪』〈亜紀書房〉、『21世紀の民俗学』〈KADOKAWA〉、『死者の民主主義』〈トランスビュー〉、『五輪と万博』〈春秋社〉。2021年5月に『日本疫病図説』〈笠間書院〉、6月に『廃仏毀釈』〈筑摩書房〉、10月に『医療民俗学序説』を上梓。最新刊は『忘れられた日本憲法』〈亜紀書房〉。

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変装・仮装・変身

民俗学者の柳田国男は『木綿以前の事』で、衣服やその素材の進化は、身体や感情の変化、景観の変貌をもたらすものであることをこの連載の前回に指摘した。一方、現在進化を遂げつつあるデジタルファッションでは、バーチャルな肌ざわりや着心地をまとわせることができるかが課題になっている。

デジタルファッションは、生身の人間が実際に着用することはできないものの、物理世界の身体と離れてファッションを想像、創造できることから、衣装や衣料に新たな次元をもたらす可能性がある。しかし、そもそも日本では、神社で祀る〈神〉に、先端的な素材で、デザインを追究し、技巧を凝らした衣服をまとわせてきたのだった。つまり、アバターに託したデジタルファッションの創造は、列島文化の“伝統”の延長線上にあるといえるかもしれないのだ。

こうした視点や問題意識は、柳田と並ぶ日本の民俗学者、折口信夫(おりくち・しのぶ/1887-1953)が追及した日本の神や芸能に対する考察と重ね合わせることができる。そこで、今回は折口の主著『古代研究』(1929-30年)などにみられる、民俗芸能や来訪神をめぐる民俗的・国文学的概念とバーチャル空間との接点を探ってみたいと思う。

国文学の発生史的研究や古代信仰・祭礼などに関する考察を体系化した“折口学”がデザインの観点から読まれることはまずない。しかし、大胆な仮説を含む彼の学問的成果のなかには、柳田とはまた違う〈まとうこと〉や、そこから広がる変装、仮装、そして変身に対する洞察をみることができるのだ。

折口信夫の『古代研究』

国文学者、民俗学者で歌人・詩人でもある(歌人・詩人としての号は釈迢空[しゃく・ちょうくう])折口信夫は、古代から現代に至る日本人の心の伝承を捉えるため、古典文学を通して日本の言葉・文化を系統的に研究する国文学に、一般民衆がつくり上げてきた文化の発展の様相を追究する民俗学的考察を導入し、神道学、国語学、芸能史研究にも新生面を開いた。著書に『古代研究』『日本文学の発生序説』『日本芸能史六講』などの論考、歌集『海やまのあひだ』、小説『死者の書』などがある。

折口が「国文学篇」と「民俗学篇」からなる『古代研究』で、民俗芸能や神事への探索と独自の発想力から導いた最重要概念が〈まれびと〉である。各地で普遍的にみられる、外部からの来訪者(異人)に宿舎や食事を提供して歓待する風習の根底に、異人を異界からの神とする「まれびと信仰」が存在するというものだ。

〈もどき〉という批評

折口の提起した民俗学上・国文学上の概念で〈まれびと〉と並んで重要な概念が〈もどき〉である。〈もどき〉は日常的には「―もどき」といったように名詞の下に付き、それに匹敵するほどのもの、それに似て非なるものなどを表すことが多い。〈もどき〉は現在「擬き」と書かれ、主体とは別の姿を装う「擬装」の意味で使われ、この「擬」の字は「擬える/なぞらえる」と訓じられることもある。

折口によると(「翁の発生」『古代研究 民俗学篇第一』)、〈もどく〉いう動詞は、「反対する」「逆に出る」「批難する」などといった用語例をもつものだと考えられているが、古くはもっと広い意味をもつものだった。それは、例えば演芸史の上では〈もどく〉の意味に、「物まねする」「説明する」から派生し、「再説する」「説き和げる」などといった語義が加わっていることからも明らかだという。

〈もどき〉は民俗芸能で真面目な演舞が済むと、装束や持ち物もやや壊れたかたちで登場し、短い間を置いて前の舞を繰り返し、前の演目を和らげ、かつ、おどけた振りに変えて舞い、時間も早く切り上げて引っ込むものだとされる。民俗芸能や伝統芸能の領域では、仮面をまとうことにより、もともとあった主体の人格を別のものに変えて、異界からこの世界にやってくることを演じる(例えば「鬼」の面をかぶった演者が登場する諸行事を想像してもらってもいい)。これに対し〈もどき〉は仮面による変装、仮装によって何者か(神や精霊)を演じること自体を批評する存在なのである。

民俗芸能・伝統芸能における〈もどき〉のこうした役割、あるいは属性は、インターネット上にも見出すことができる。バーチャル空間における「アバター」を、民俗的な仮装、変装になぞらえることはたやすい。しかし、〈もどき〉の仮装とその批評性から、わたしが思い浮かべたのは、VTuber(バーチャルYouTuber)やその派生形のひとつ「バ美肉(バびにく)」である。

「バ美肉」は「バーチャル美少女受肉」、あるいは「バーチャル美少女セルフ受肉」の略語で、アバターをまとってバーチャル空間の美少女として、VTuberやバーチャルアイドルとして活動するものだ。

「バ美肉」と〈まれびと〉

VTuberの世界では演者のことを「魂」、キャラクターの絵や3Dモデルのことを「肉体」、絵や3Dモデルを手に入れることを「受肉」という。つまりこの「受肉」は、「肉体(アバター)を手に入れる」ことである。しかし、バ美肉では、「受肉」はまた別の意味をもつこととなる。

ボイスチェンジャーなどを使用し、大人の男性が女性として振る舞う、つまり女性を受肉したと呼ばれるVTuberが数年前に注目されたことがある。魂と肉体の性別が同じであることがほとんどのVTuberの世界に、肉体は女性、魂と声は男性という属性の「じゃロリ狐娘Youtuberおじさん」が登場したのだ。

発声は男性のまま、男性でも美少女になれることを示したバ美肉おじさんは、民俗世界における仮装や変身、デジタル領域におけるアバターに対し、批評的に振る舞うことで〈もどき〉の役割を果たしている。そしてしかも、彼ら(彼女ら)の活動の場が、社寺の境内や村里の広場、能や歌舞伎の舞台のような民俗的現実ではなく、バーチャル空間であるため、その存在自体が二重性、重層性を帯びる。彼ら(彼女ら)の仮装は擬装なのか、あるいはリアルな実態なのかという問題である。

またバ美肉がもつ受肉のありかたは、民俗芸能における神や精霊への変身、伝統芸能における〈女形(おやま)〉への仮装とは異なる、現象の変容の仕方である。アバターという〈もどき〉をさらに〈もどく〉ということは、テクノロジーを利用しつつ、テクノロジー上の存在を批評することで成立する、問題意識に富んだ表現行為だと捉えることができるだろう。

折口によると、〈まれびと〉の「まれ」の溯れる限り最も古い語義は、最少の度数の出現、訪問を示すものだった。また「ひと」という言葉も、「人間」の意味に固定する前は、「神」とその継承者の意味があったようで、こうした観点から見ると、〈まれびと〉は「来訪する神」ということになる。そしてさらに折口は、「ひと」について、「人にして神なるもの」を表すことがあった、人に扮した神であることから「ひと」と称したという説を紹介している。

私の考えるまれびとの原の姿を言えば、神であった。第一義においては古代の村々に、海のあなたから時あって来り臨んで、その村人どもの生活を幸福にして還る霊物を意味していた。

このように折口は、〈まれびと〉は古くは「神」の意味を指す言葉で、常世(とこよ。異界・彼岸・あの世)から時を定めて来訪することがあると思われていたという。

バーチャル空間という異界、あるいは対岸をフィールドに、アバターやデジタル世界における「受肉」に対して批評的に振る舞うバ美肉おじさんは、〈ひと〉を超えた〈神〉と呼ばれるにふさわしい存在であり、現代の〈まれびと〉にほかならないのだ。

折口信夫が遠い過去を参照することで民俗学に招き入れた〈もどき〉と〈まれびと〉は、バ美肉を通して、テクノロジーによる身体拡張や身体変容というデザインの領域に大いなる示唆を与える思想や概念になりうるかもしれない。

*『古代研究』(中央文庫版『折口信夫全集』第1巻~第3巻)からの引用は表記を改め読みやすくした。

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Edit by Erina Anscomb