Speculative Zones
3つの読みどころ

1)著者はこの5年間、作家たちが創作にテキスト生成ツールをどう利用したい/したくないかを調査してきた。
2)小説を書くプロセスを立案・執筆・推敲と分けると、AIに任せられる部分と、人間が渡したくない領域が見えてくる。
3)最初の読者たる編集者のように、AIは推敲が得意だが、それがどの視点からなされるのか、作家はまだAIを信用していない。

あるひとりの女性作家が、YA(ヤングアダルト)向けファンタジー小説の執筆に何時間も取り組んでいる。しばらくすると、(いつものことだが)メールをチェックしたくてたまらなくなる。次に何を書けばいいのか、思いつかないのだ。PCの画面をじっと見つめても、言葉は出てこない。もうこうなったら壁に頭を打ちつけるか、好きな本を取り出してインスピレーションのもとを探すか、書くのをあきらめてほかのことに逃げるかしかない。

だがそこで、彼女はAIライティングツールを立ち上げる。すると、それまでに彼女が書いた文章を飲みこんだAIツールは、続きの文章(になりそうなもの)を吐きだしてくれる。この続きの文章のアイデアは、彼女が書こうと思っていたものとはぜんぜん違うが、ときに美しい表現や魅惑的な展開を見せてくれることもある(一度など、登場人物が歌をうたうという設定をAIが提案してきたことがあり、そのための曲の歌詞まで作詞されていた)。

そういった文章はそのまま採用されることはないが、新しい物語が生まれるきっかけにはなりうる。小説家はこのAIが生み出した文章に好奇心を抱き、それが自分で物語の続きを書こうという気持ちに火をつけるのだ。

ケイティ・イロンカ・ゲロ

作家であり、人間対AI間の相互作用を研究する研究者でもある。コロンビア大学でコンピューター・サイエンスの博士号を取得している。

そこそこ頼りになる相棒

高性能なコンピューターによるテキスト生成ツールの出現によって、作家はそこそこ頼りになる相棒のような存在を得た。この相棒はとりあえず頼んだことは何でもこなしてくれるし(それが常にうまくいくとは限らないが)、自分の手柄を主張したりもしない。これまで、作家が自分の選んだトピックについて書かれた流暢なテキストを手に入れたいと思ったら、ほかの作家に頼む以外に道はなかった(作家がこうやってAIを利用するケースをたとえるなら、ゴーストライターを使うようなものだと言えばわかりやすいかもしれない)。

だがこのAIライターを使うとすると、作家にはこんな問題が突きつけられる。すなわち、書くという作業のどこまでが、自分でやらなくてもいいようなつまらない部分なのか? 何もないところから何かを生み出すという説明しがたい創作の醍醐味は、いったいどこから生じてくるのか? そして、書くという行為のどの部分が、自分にとってもっとも重要なのか?

わたしはこの5年間、人間/AI間の相互作用をテーマとする博士課程研究の一環として、コンピューターによるテキスト生成システムを利用しつつ、同時にほかの作家たちが自分の創作にテキスト生成ツールをどのように利用したい(あるいはしたくない)と考えているのかを調査してきた。最初に挙げたファンタジー小説を執筆中の女性作家の話は、作家がコンピューターに支援を依頼したり、その結果を自作に取り入れたりしていく上での社会的ダイナミクスに関する研究の一環として、ある女性にインタビューした際に聞いたエピソードに基づいている。

小説を書くという作業は、3つの部分から成り立っている、と考えてみよう。立案と執筆と推敲だ。わたしはこの3つを、ひとつずつ踏んでいく段階ではなく、それぞれ独立したパーツのようなものと捉えている。それは文章を書く際に生じる認知処理課程であり、したがって立案は最初に来る場合もあれば、中盤にも発生しうるし、時には終盤にも起こりうる。

こういったパーツのそれぞれをじっくりと見ていけば、小説を書くという行為にコンピューターが及ぼす影響を、より詳しく理解することができるようになるだろう。この影響を探ることは、小説執筆の未来を正しく理解するだけでなく、わたしたちが暮らしたいと思えるような幸せな未来を実現するためにも、大きな助けとなっていくはずだ。

ここで最初の小説に取り組んでいる女性作家に話を戻そう。彼女は執筆中のスランプを乗り越えるのにコンピューターの力を借りることには、何のためらいも感じていない。だが、物語のプロットを生み出すのは、基本的に人間のするべき仕事だという点については譲らない。そのプロットこそが、彼女が語りたい物語だからだ。

つまり、そここそが彼女の意図が存在する場所であり、自分が信じて書きたいと思っていることはそのプロットにほかならない。彼女のこの意見に賛成する作家は多いと思う。物語や詩や随筆の進む方向を定めるには何らかの問題を解決しなければならないが、この問題解決を行なえるのは作家自身だけだと多くの作家が感じている。

「右に曲がりたいと思ったら、左に曲がれ」

一方で、AIライティングツールが提示してくれる解決策のアイデアは、ひとつの課題と考えることもできる。それは作家が乗り越えるべき最初のハードルであり、それを超えていくことによって、よりよい解決策にたどりつくことができるのだ。

わたしがインタビューした作家のなかに、テレビドラマのパイロット版の脚本を書いている人がいた。彼女は、テレビやコメディの脚本を書く場合、「右に曲がりたいと思ったら、左に曲がれ」と言われたという。そういう脚本は、唯一無二のオリジナルなものでなくてはならない。世間の人たちは、それこそありとあらゆるテレビドラマを見てきているからだ。

コンピューターがどれほどいいセリフを書いてこようと、彼女は常にそれよりもっといいセリフを書かねばならないと感じる。たとえ自分の代わりに、AIライティングツールにあるシーンを書き上げてもらうとしても、それはあくまで自分がそれよりもっと思いがけなくて、もっと洞察力に富んだシーンを書くためのたたき台なのだ。

それでも、コンピューターに2、3の文を書かせるだけでなく、小説の方向性を左右するような作業をさせることは、本当は自分がすべての采配を振るいたい場面で、コンピューターに手綱を渡すようなまねをしている気分になるかもしれない。立案はある意味、この上ない楽しみでもある。プロットの節目やエンディングやオープニングの設定を決めることや、そのほか、ただ文を書くだけでなくもっと高次元の思考を必要とするような行為も含めて、立案という部分は作品執筆のなかでもっとも難しく、知性を必要とし、かつ面白く、それゆえ人間にしかできない部分だと考える作家は多い。

詩の最後をどうやって結ぼうかと考えるのは難しい仕事だが、だからこそ面白味を感じられる部分でもある。あるシーンのエンディングをうまく書き上げたときの達成感は、自分で苦労して文章を書きあげた経験のある人にしかわからないだろう。

では、言葉をページのうえに書きつけるという、捉えどころのない行為についてはどうだろうか? 認知心理学の研究においては、この行為はしばしば「翻訳」と呼ばれる。それによって、わたしたちは形のないアイデアを個々の具体的な言葉に翻訳しているからだ。

作家のほとんど、いや、文章を書かずにはいられない人々のほとんどが、頭が真っ白になる感覚を知っている。たいていの作家は、その恐怖から逃れる術を何とか身につけているが、どれだけ多くのページに言葉を書きつけようと、次に何を書いたらいいのかわからなくなる瞬間は必ずやってくる。そのときこそ、コンピューターシステムにその能力を遺憾なく発揮してもらえばいい。つまり次に何がくるかを予想する、という能力だ。

いい意味で期待を裏切る能力

AIライティングシステムを草稿執筆時の相棒として使うことは、作家が執筆の助けを得る方法としては非常に画期的だし、これまでのところAIツール最大のセールスポイントであり使用事例でもある。

現在入手できるライティングツールのほとんどが、あなたの代わりに草稿を作成してくれ、例えばあなたが一旦書き終えたところから続きを書いたり、もっと細かい指示に応えてくれたりする。SudoWriteは小説家に人気の高いAIライティングツールで、いま挙げたような作業を全部こなしてくれる。”write”と言えば続きを書いてくれるし、”describe”と言えば指示した名詞を説明してくれる。また”brainstorm”と言えばあなたが描写した状況に基づいて、いろんなアイデアを出してくれるのだ。

Jasper.aiやLexのようなシステムも、指示どおりにあなたの書き始めたパラグラフや草稿を完成してくれるし、Laikaにも同じような機能があるが、こちらはもっと小説やドラマに的を絞った作業が得意だ。

こういったツールはかなり優秀で、日々進化を続けている。AIライティングシステムがアクセスできるテキストは、ひとりの人間が読むことができるテキストの数をはるかに凌駕していて、いい意味で期待を裏切る展開に進みがちな傾向は、自分の書く文章に新風を吹き込みたいと考える作家にとって、格好の能力だと言える。コンピューターが書いたテキストは、自動書記や「博識だがちょっと頭のおかしいオウム」にたとえることもできるだろう。ふつうの人間の作家には書けそうにない文章だが、あくまで補完的な働きをするもの、という位置づけだ。

それにしても、これほど多くのAIライティングシステムが、わたしたちの文章を仕上げたり、次に書くことを予測したりするためにつくりだされているという事実は、じつに興味深い。というのも、作家の人たちに「いつも助けがほしいと感じる点はどんな部分ですか?」と尋ねたとき、「誰かに自分の代わりに書いてくれるよう頼みたい」と口にした人はひとりもいなかったからだ。

作家というものは、自分の作品を仕上げるにあたって、他人に頼もうとはふつう思わない。だがそれこそコンピューターが最も得意とする部分であり、だからこそコンピューターはいままさにその役目を果たすために使われているのだ。もちろんなかには進んで人からの注文に応じて文章を書く作家もいるが、そうでない人たちは外的存在に自分の書くべき言葉を選ばせることをためらう。

何人かの作家が語ってくれたように、言葉は一旦ページ上に書かれてしまうと、ほかの言葉を使うことを想像するのが難しくなる。作品にとりかかった初期の段階でフィードバックをもらうことを嫌がる作家が多いのは、そのせいもある。作品執筆は非常にデリケートな作業であり、ほかの人がその作品のもつ可能性に気づいてくれるよう、作家はアイデアを守り支えていかねばならないのだ。

コンピューターは明確に自らの意思を提示してくることはないが、作家の意思を乱す可能性はある。だからこそ、ひとり机の前に座って、いくつもの言葉を搾りだすことに誇りを見出す作家たちがいる。それは言うなれば訓練のようなものだ。努力を続けなければ、スキルは衰えてしまう。

推敲こそが得意なパート

さて、現在のAIシステムにおいては、創作にはかなりの重点が置かれているものの、推敲に力を注いでいるシステムは少ない。しかし、じつは推敲こそが、ふつう作家がもっとも外からの助けを求めることが多い部分だ。

商業的なシステムのうち、AIの有意義な使用法としてフィードバックの生成を提示しているものはほとんどないが、それも将来変わっていくかもしれない。AIに書きかけの文をあれほどそつなく仕上げる能力があるなら、自分の作品の出来について興味深い質問を投げかけてくれるかもしれない、とわたしたちはそのうち気づくのではないだろうか。現時点では、わたしたちはAIのそういう使い方を念頭においてはいないが、それが一般的になっていく可能性は充分にある。

書かれた作品をコンピューターの視点から分析するというのは、言語の統計学的な研究が始まったばかりのころから存在する考え方だ。かつては「the」とか「with」の使われる頻度を数えることにより、著者の特徴を見つけだそうとした。だが、最新のテクノロジーによる分析は人間のやることにもっと近く、例えばきちんと定義せずに新しい言葉を導入したケースを指摘したり、ある場面の進行が非常にゆっくりである理由を説明したりすることもできる。

たいていの作家は自分の作品を見直すことにかなりの時間をかけているが、それをコンピューターにやってもらうのは、親しい友人にチェックしてもらうよりかなり気が楽だ。コンピューターからダメ出しを食らうこともあるかもしれないが、だからといってこの先コンピューターとの仲が気まずくなるようなことはない。コンピューターと一緒に文章の推敲をするのは、ひとりごとを言っている感覚に近いと考える作家もいる。それは私的で自分の内に向かう作業であり、部屋の中に他人がいるような感じはまったくしないのだ。要は、コンピューターは初期の段階の編集者であり、作家が作品を誰か重要な相手に見せる前にフィードバックを手にすることを可能にしてくれる存在だと言える。

だが結果的に、作家はどうしてもコンピューターを全面的に信用することはできない。というのも、結局コンピューターはどこから生まれてきたものなのか? と考えてしまうからだ。そのフィードバックが、自分の作品を一度も気に入ってくれたことのない教授や、常に前向きな友人のひとりや、数十年に及ぶ経験をもつ編集者からもらったものであることが確実なら、わたしたちはどのような批判も甘んじて受け入れることができる。だがコンピューターが実際に何をもたらすのか、それをどれくらいの回数、どのような状況で信じるべきなのかを理解するには、しばらく時間がかかるだろう。

わたしが話を聞いた作家たちは、AIライティングシステムの基準について不安を感じていた。それは異性愛者の白人男性の視点を備えているように思えたからだ。だが同時に、システムがほかの特定の視点から判断を下そうと試みるなら、それは形式的でステレオタイプ化につながるおそれがある。これはコンピューターを窮地に追いこむ欠点となりうるが、システムデザイナーの努力次第で、特定の人物やアイデンティティグループになぞらえることなく、コンピューターの背景を設定する方法を見つけることはできるかもしれない。

作家のテキストとのダンス

ここでもう一度、書くという行為のどの部分がわたしたちにとって最も重要なのか、また人間ならではの性質とは何か、という点に立ち戻ってみよう。自分の作品にコンピューターが生成したテキストを含めるのに賛成か反対か、その立場を決めることは簡単かもしれない。だが、コンピューターがわたしたちの書く文章にじつにさまざまな方法で影響を与えるという事実を目の当たりにすると、その意見は微妙に変わってくるのではないだろうか。

作家は自分自身のオリジナリティと意図を守りたいと考える。だから、コンピューターにテキストを生成させるのは、作家のテキストとダンスを踊るようなものだと考えてみるといいかもしれない。たいていの作家は、コラボレーションを嫌がっているわけではない。ただ、ダンスの主導権は自分が握りたいだけだ。コンピューターが自分のステップに合わせてくれるなら、作家は喜んでコンピューターにダンスに参加してもらいたいと思うだろう。

だがコンピューターが作家の足を踏んだとたん、作家はひどく動揺する。ちょっとしたプロットのアイデアとか、ハッとするような魅力のある一文とか、作家の背中を少しだけ押してくれる編集コメントとか、そういうものを提案してくれるのは構わない。だが作家がそもそも書こうと考えていたことを、最終的にコンピューターが変えてしまったとなると、作家は疑問に思い始めるのだ。自分の頭の中にあった構想が、実世界で何の経験も積んでいない存在に惑わされてしまっていいのかと。

わたしの望みは、コンピューターが生成するテキストによって、より多くの人が自分の語りたいことを語り、自分の理想を実現するチャンスを得ることだ。それを実現するのは、立案や執筆や推敲を手伝ってくれるAIシステムかもしれないし、それとはまったく違うシステムかもしれない。わたし自身は、コンピューターが人間の作家の書いた本よりもすぐれた本を、ひとりで書けるようになるときがそんなに早く来るとは思わない。それはコンピューターにその能力がないからではなく(というか、おそらくその能力はあるのだが)、人間はまだまだ生身の人間の語る言葉のほうに、はるかに大きな興味を抱くと思われるからだ。

読者の観点から、コンピューターが生成したテキストについて考えてみることも大事だ。語るべき物語をもつのは、機械ではなく生身の人だけだというわたしたちの感覚を、コンピューターが揺るがすときがはたして来るのだろうか? その条件を満たす基準を決めるのは、作家ではなく読者なのかもしれないが、いまのところわたしたちはその決断を下すにいたるほどの文章を手に入れていない。

だが今世紀中にはその段階に達するかもしれず、そのときわたしたちは、意思を伝えることのどの部分がそんなに重要なのか、自分に問い直す必要に直面するだろう。もしわたしのなかに、小説にしたいアイデアがあって、そのほとんどをコンピューターが書いたとしたら、それはわたしの物語と呼べるのか? この質問の答えは、わたしとコンピューターがそれぞれ何語書いたから、という数で決められるものではない。その答えは文化に基づくものになるはずだ。つまり、物語のオリジナリティと真実はどこにあるのか、という感覚に基づいて決められるべきものなのだ。

だが、コンピューターが執筆のどの部分に関わったかをより具体的に考えることで、この質問にはもう少し答えやすくなるかもしれない。そして、その質問に答えるにあたって最も大切なのは、わたしたちが文章を書くという行為のどの部分をいちばん重要に思うか、という点なのだ。

WIRED/Translation by Terumi Kato, LIBER/Edit by Michiaki Matsushima)