Speculative Zones
3つの読みどころ

1)これまで多くの未来予測が外れ、また、結果的に歴史を変えた出来事や発明の多くが、当初は見過ごされてきた。
2)歴史学者のマシュー・コネリーは米国機密文書200万件を調べ、歴史的にも予想がいかに正確さに欠けたかを突き止めた。
3)それでも人間は予測せずにいられない。だとすればそれにつけ込まれることなく、活かすためにできることは何か。

未来に関するセールストークを、わたしたちは始終聞かされている。広告、選挙運動、四半期ごとの予算はみな、明日はこうなるという約束、あるいは脅迫だ。

時にそれは、好むと好まざるとにかかわらず、ただ黙って見ているだけでそうした未来が実現すると思わせる効果がある。だが、そんな未来はいまもって来ていない。そうした言葉を信じるくらいなら、わたしたちには未来について発言する資格があるのだから、それを最大限有効に活用すべきだ。

でもどうやって? この8年、わたしは未来をテーマにしたポッドキャスト「Flash Forward」で180以上のエピソードを制作・放送してきた。パート3までのシリーズを通じてわたしがこれまでに学んだ、未来のためにできることについての考え方のうち、とくに重要なものを紹介しよう(今回はパート2だ。パート1パート3も引き続き読んでほしい)。

誤った予測はいくらでも見つかる

ローズ・エヴェレス

『WIRED』のアイデアコントリビューターであり、未来に関するポッドキャスト「Flash Forward ── possible & not so possible futures──」のホスト兼プロデューサー。風で野原をころがる”タンブルウィード”のにせ物をつくる農場から100万ドルのバカラ賭博強盗まで、さまざまな話題を取り上げている。

過去になされた未来予想がその後どうなったのかを見て笑うのは簡単だ。ときには愉快でさえあるだろう。1905年に、『A Hundred Years Hence: The Expectations of an Optimist(これからの100年期:ある楽観主義者の希望的観測)』[未邦訳]のなかで進歩の終わりを予言してみせたのはT・バロン・ラッセルだ。

「小さな家の上層階にたどり着くために、きれいとは言いがたいカーペットの敷かれた木製の斜面をよじ登っていくというような発想は、いずれ当然のごとく用をなさなくなるだろう。次の階へと通じる階段が今後20~30年でつくられるかどうかも怪しいものだ」とラッセルは書いている。通販サイトは商売として成立しないと自信たっぷりに論じた『Time』誌や、ロケットは地球の軌道の外に出ることなどできないと主張した『ニューヨークタイムズ』紙の記事など、誤った予測は検索すればいくらでも見つかる。

人はよくも悪くも、現在の自分たちがまさに未来を決定づける分岐点にいると考えがちだ。マイクを手に演説をぶったり、ポッドキャストを配信したり、ツイートをバズらせたりする人々の声に耳を傾けているうちに、自分たちが革命の前線に居合わせているかのように思い込んでしまう。

何を革命的と見るかは人によって異なる。黙示録的な何かかもしれないし、シンギュラリティのことかもしれない。戦争の場合もあるだろうし、アルツハイマーの治療法という場合もあるだろう。実を言えば、どの崖から淵を覗き込んでいるのかは大した意味をもたない。あと半歩の地点に立っているという実感こそが、わたしたちにとって重要なのだ。

だが本当にそうだろうか?「わたしたちはいま、まさに変革のときを迎えている」と断定することは、はたして可能なのだろうか? 先のことなど誰にも分からないのだから、いま起きている物事を未来の人々がどう捉えるかを見極めることは不可能だ、と主張する歴史学者や哲学者もいる。

他方で、目の前の出来事に歴史的な意味があるか否かは瞬時に判断できるとする声もある。「不幸なことにわたしたちの多くが──それもあまりにも頻繁に──これは大変なことになってしまったと思わざるを得ないような事態に日常的に接している」と述べるのは、コロンビア大学の歴史学者であり、『The Declassification Engine(機密解除を促すもの)』の著者でもあるマシュー・コネリーだ。米国人にとっては、旅客機がツインタワーに突っ込んだ瞬間や、1月6日の連邦議会襲撃事件といった事件がすぐに思い浮かぶことだろう。「一刻も早く子どもたちにも知らせなければ、と思わず考えてしまうような瞬間だ」

とはいえ、そのような大事件はそうそう起こるものではない。小さな出来事の一つひとつが重要な意味をもっていて、振り返って初めて因果関係が分かるような場合がほとんどだ。ファン・レーウェンフック[編註:18世紀のオランダの科学者・商人。史上初めて顕微鏡を用いて微生物の観察を行なったことで「微生物学の父」として知られる]が初めて顕微鏡を披露した際、それを気に留めた者はひとりとしていなかった。

ボリス・エリツィンがあのウラジーミル・プーチンを後継者に指名した1999年8月の時点で、その人選がいずれ歴史を大きく動かすと考えた人は──当のロシアにおいてさえ──ほとんど存在しなかったのだ。1876年、アレクサンダー・グラハム・ベルが、自分の発明品である電話(テレフォン)をウェスタン・ユニオン社に売り込もうとしたとき、同社は「こんなものはオモチャにすぎない」とベルを一笑に付している。

米国国務省の内部文書

要するに、どちらの意見が正しいのだろうか? そして人々は、どうすればそれを判断できるのだろうか? これこそ、コネリーが2019年の論文「Predicting History(歴史を予見する)」のなかで展開している議論である。

過去になされた予言を調べ上げ、その成否を判断するのは簡単なことではない。物事を予見するわたしたちの能力がどの程度優れた(もしくは不確かな)ものかを見極めるには、例えばいま目の前にある時事問題に関して世論調査を行ない、その結果を30年後に確かめてみたらいいだろう。だが、そんなことをやろうとする人はまずいない、とコネリーは述べている。そのような実験に予算が割かれることなどないからだ。

長期間に及び、しかも耐性のある夢のようなデータに代わる何かを、コネリーと研究チームは見つけ出さなければならなかった。そこで彼らが目をつけたのが、米国国務省の内部で交わされた外交文書の山だ。つまり、米国政府と外交官たちとの間で交わされた電信のことだが、誤った相手に届くようなことがあってはならないため、送付の際にはありとあらゆる情報がタグ付けされ、種別が明記される。メッセージには機密事項や緊急事項、なかには国務長官宛などのタグや種別がつけられているので、彼らがどの事案を特に重要視したかを読み解けるというわけだ。

コネリーが採用したのは、米国政府により機密解除されたうえで公開されている195万2,029件からなる記録──1973年から79年の間に交わされた電信の数々──である。200万件に迫るメッセージのすべてに目を通し、そのなかから実際に歴史的重要度の認められるものを抜き出すというのは、現実的に無理な話だった。しかし、そうする必要はそもそもなかった。国務省がすでにその作業を済ませていたからだ。

米国国務省内には、国家の公式な歴史的記録をまとめる歴史学者の専門チームが設けられており、チームが整理した資料のなかには電信なども含まれている。そのうち公式の歴史的記録として扱う価値のあるものだけが分類され、追って保管に回される。結果として残されるのは1,000通のうち1通という割合にすぎない。

つまりコネリーたちが採った手法とは、送信時に設定された重要度に対し、それがその後に保管資料として採用されたか否かを確認するというものだ。その結果、外交官の見立ての大半が外れていたことが瞬時に判明した。重要度が誤って高く設定されたものと低く見積もられたものの両方が混在していた。緊急かつ最重要とランク付けされた電信のうち、実際に歴史的記録として分類されたものはわずか1%に満たなかったのだ。

例えば、エルサルバドル内戦[編註:1980~92年]を目前に控えて行なわれたナポレオン・ドゥアルテ[編註:後のエルサルバドル大統領(1984~89年)]との交渉に関する電信は、当時は“極秘”扱いとされたものだ。送信者にとっては極めて重要な交渉記録だったことをうかがわせる内容だが、結果から見ればほぼ無意味なものだ──合衆国政府によるドゥアルテへの経済的および軍事的支援のほうがはるかに大きな影響を及ぼしている。ちなみにこの電信は、結局のところ公式外交文書としては採用されていない。

その一方で、当時においては重要視されなかったものの、事実として歴史的瞬間を記録していたものもある。いわゆる「Don’t Ask, Don’t Tell(訊かざる、言わざる)」政策[編註:クリントン政権下の1993年に採用された政策。米軍への同性愛者の入隊を認めようという(ジェンダー平等の実現を目的とした)動きに対し、軍上層部および一部議員の反発が起きた結果、同性愛者であることを公言しないという前提で入隊を認める方針が妥協策として採用された]の再検討に関する一連の電信などがその好例だろう。当時は緊急性の低い事務的な連絡として分類されていたものだ。だが、いまにして振り返れば、歴史的に大きな意味をもつ出来事だったに違いない。

予言に関する疑問について結論を言ってしまえば、それは地球を揺るがすほどのものではないということだ。この先、何が問題となるかを予見できることもあるかもしれないが、正確さという点においては期待外れなものなのだ。

予言によって人類は生き延びてきた

しかし、ここでさらなる疑問が生じる。専門家でさえ多くのことを見誤るという事実を知ったうえで、それでもなお未来を予想することに意味があるのだろうか? 予想の価値は正確さのみにあるのではない、というのがコネリーの考えだ。

「10年以内に核テロリズムが起こると予測する人々がいるが、そうした人々はもうかれこれ30年も同じ主張を繰り返している」とコネリーは言う。その的中率の低さを指摘して、愚かなことだと嘲笑の的にする人もいるだろう。しかしコネリーは、そこから読み取るべき教訓があると述べる。「実際、そういう人々がいるからこそ、紛失した核の追跡がなされ、過小評価されがちな科学者や物理学者が研究を継続できるといった小さからぬ作用が生じている」、つまり、発せられる警告そのものが、予見された危機の回避につながっていると考えられるのだ。

言うまでもないが、何もかもが予測可能ということはありえない。地震を例に挙げよう。地震がどのように起きるのかをわたしたちは知っているし、その地質学的プロセスの基本的な部分は解明されている。しかし、「地震は本質的に予測不可能な現象だといえるかもしれない」と主張する、米国地質調査所のスーザン・ハフのような地震学者もいる。地震とは、人類未踏の地中深くで発生するものだ。あまりにも巨大な圧力と強度によって生じる現象のため、実験室で行なうシミュレーションには限界がある。「地震について学ぶには、地震が起きるのを待つほかはない」とハフは首を振る(つまり地震学者もわたしたちとおなじく、座して地震を待つのみなのだ!)。

それでも、人類は予言中毒から抜け出せずにいる。ネットで検索すれば、科学的な地震解析に始まり、月の満ち欠け、火星の位置など、ありとあらゆる知見を駆使して独自の地震予想を展開する人々がすぐに見つかるはずだ。「明らかなインチキ予想から完全なる自己欺瞞に至るまで、実に雑多だ。そうした人々は何らかの法則を発見したと信じ込みたいのかも知れないが、実は統計学のことさえ何ひとつ理解していない」と、ハフは述べている。

そのような人々に対して未来予想をやめろということほど愚かなことはないだろう。ほとんどの予測が外れるものだとわかっていてなお、こうなのだ。わたしたちはただ嬉々として賭けに興じるのである。

人類の進化の歴史は、いつだって予言とともにあった。予言によって人類は生き延びてきたのだ。「大量の情報を取り込み、それを手際よく処理することで生死のはざまを生き抜いてきた人々、信じられないほどのプレッシャーのなかで決断を迫られてきた人々の子孫として、いまを生きるわたしたちがあるのだ」と、科学分野のコミュニケーターとしてLiminal社を立ち上げたリズ・ニーリーは言う。つまり、わたしたちの情報処理の精度が高まって初めて、来るべき事態を想定することも可能になるというわけだ。

わたしたちはすでに追い詰められている

しかし現在では、予測を立てることがだんだん難しくなっている。将来的に重要になるかもしれない何かを予知しうるアルゴリズムの構築、というのがコネリーの研究のもうひとつの側面だ。この研究によって、ニュースバリューが高まれば高まるほど、そのニュース自体がアルゴリズムを乱すことが判明している。あまりにも多くの情報が押し寄せる状況に、わたしたちは追い詰められているのだ。結果としてもたらされるのは、喪失感と倦怠感である。

断崖絶壁や高僧ビルの屋上から眼下を見下ろし、はたしてここから飛び降りたらどうなるだろうと想像したことのある人は少なからずいるだろう。自殺願望のことを言いたいのではない。奈落の底へとわたしたちを誘う、あの感覚について話したいのだ。人々のおよそ50%がその衝動に駆られたことがあると証言している。フランス語では「虚空の呼び声(l’appel du vide)」と言われるが、英語においてはより端的に「高所恐怖症」と呼ばれる、あの感覚のことだ。

転落の危険のない崖には、人を惹きつける魅力がある。身の危険を覚えることなく、新たな変化や大きな飛躍を夢想できる場だからだ。本気で飛び込むつもりなどない──だが、そうしたらどうなるだろうと夢想する、そのこと自体が意味をもっている。「もし」という感覚こそが契機となるのだ。

断崖から見下ろす景色は絶景だろう。しかしそのような場に立ち続け、ずっと身を乗り出しているうちに、何らかの変化が起きてくる。疲弊し、麻痺してしまうのだ。ひたすら激しさを増す音楽に身を委ねているような、あの感覚だ。リズムが鎮まる瞬間を待ち焦がれるが、それがなかなか訪れない。このようにして保たれる熱狂が持続可能なものだと言うことはできない。

未来に意識を向けると、抱えきれない思いにたじろいでしまう。そんなわたしたちの差し迫った感情が、未来を標榜する人々に利用されている。ビジネス上の利益や投資に適した予想こそが現実としての未来であると謳うのだ。過ぎ去りし日の愚かな人々とは異なり、先端的なテクノロジーを備え、そのことで未来を見据えた正しい判断が可能なのだと言ってのける。こうする以外に道はないとでもいうような態度で。なぜなら、わたしたちは事実としてすでに追い詰められているからだ。残された時間は限られているのだ。好むと好まざるとにかかわらず、わたしたちは決断を迫られているのである。

予知は無理でも備えはできる

未来がどうなるかを予見することはできない。核戦争は起きないだろうか? 先進国が団結し、気候危機の対策に乗り出すことはあるのだろうか? ある日突然、恋に落ちる可能性はあるのだろうか? わたしたちはこうしたことについて、来週の水曜日の正午にマグニチュード6.2の大地震が起きるかどうかと同じぐらい知っている──つまり、何もわからないということだ。

それもでもなお人々は、来るべき地震であれ何であれ、次に起きる何かについて考え続ける。「つまり、わたしたちは希望を捨てることなどできない。深夜2時に突然の大地震に襲われるといった未来を望む人はいないのだ」とハフは言う。ここで話を地震に戻せば、予知することは無理であっても、可能な限りの備えをしておくべきだということについては、わたしたちはよく承知している。

たしかに楽しいこととは言えないだろう。地震に備えようとすれば、例えばまずは建築基準法について考えておく必要がある。建築基準法について考えるのが楽しいという人は多くはないだろう。だが、鉄筋やセメントの残骸に埋もれて命を落とさないためには、構造物の安全性が何より重要になる。地震はいつ襲ってくるとも知れないのだから、とにかく備えが肝心なのだ。

「何が起こるかを予知できるのなら、それ以上にいいことはないだろう」とハフは言う。「しかし、地震の有無にかかわらず、まずは建造物が地震に耐えられるようにすることが重要だ」

ほかのすべてのことに関しても同じようなことが言えるだろう。いかなる事態が起きうるのか、いざその状況になったときにどう対処すればいいのか、案じているばかりでは何も始まらない。危機的状況について想像を巡らすよりも、まずは自分たちの安全を確保するための構造について考え、いますぐ着手しておくべきことについて考える、それこそが重要なのだ。渦中に飛び込むか否かを決定するのは、それからでも遅くはない。

WIRED/Translation by Eiji Iijima, LIBER/Edit by Michiaki Matsushima)