Speculative Zones
3つの読みどころ

1)ポルトガル領マデイラ諸島最大の島であるマデイラ島にはまるで絵葉書のようなのどかな街並みと自然が広がる。
2)パンデミックのさなか、ポルトガルの外国人ワーカー受け入れの後押しもあってここにデジタルノマド村が生まれた。
3)だが新しいコミュニティと地元住民との交流は進まず、定住者を増やしたいという目論見もうまくはいっていない。

遠くから見ると、ポンタ・ド・ソル行政区のこじんまりした美しさはまるで絵葉書のようだ。中心部には小さなロータリーと、ガソリンスタンド、小型のショッピングセンター、テラコッタ色の屋根瓦を載せた素朴な建物の数々がある。うしろにはバナナ、ヤシ、松の木が茂る緑の丘陵地帯が広がり、丘の間にぽつぽつと住宅が建っている。その全体を迫力ある断崖が取り囲み、岩肌から溢れ出すいくつもの小さな滝の水が何世紀も前から使われてきた水路を満たしてこの地に亜熱帯らしい豊かな自然をもたらしている。

2020年9月にゴンサロ・ホールが初めてこの地をクルマで走ったとき、頭に浮かんだ言葉はこうだった──「なんだ、ここは?」

ポンタ・ド・ソルがあるのは、ポルトガル領マデイラ諸島最大の島であるマデイラ島の南岸だ。ホールは子どものころに一度だけその島を訪れたことがあるが、これほど美しくすばらしい場所だとは記憶していなかった。そしていま彼は、本記事の取材で語ったように、「デジタルノマドの目で」再びその地を見ていた。今回ホールがそこにやってきた理由は、島の中心都市フンシャルでリモートワークをテーマに開催されるカンファレンスの運営を手伝うためだった。田園地帯をクルマで長時間走った翌日、彼は島の自治政府の経済担当長官に単刀直入に尋ねた。なぜデジタルノマドにご関心を?

スザナ・フェレイラ

ジャーナリスト、作家、博士候補生。現在は大西洋世界における国境と帰属をテーマにした初の著書を執筆中。

長身のがっしりした体型、金髪に青い目をもち、陽気な印象をまとう35歳のホールは、「人生はいいものだ」「幸せになろう、大金を稼ごう」などのハッシュタグ的なマントラが口癖だ。リスボン有数の高級住宅街ラパで育ち、現在は妻のカタリーナとともにポンタ・ド・ソルにアパートを所有している。いまのリスボンにはいろんなところから人が集まりすぎている、と初めて会ったときにホールは不満を漏らしていた。

昔から彼は、銀行員が多い自身の一族のようなスーツとネクタイ姿ではなく、サンダルとショートパンツで出社できるような生活に憧れていた。19年前半の2カ月間、夫妻はバリ島に移り住み、そこでホールは初めてのリモートワーク契約を結び、リモートハウ(Remote-how)という会社から受託したマーケティングの仕事などをしながら膨大な人脈を構築した。その後夫妻はタイ、マレーシア、ベトナム、そして再びバリで1、2カ月ずつ過ごしたあと欧州に戻った。

スタートアップ・マデイラ

デジタルノマドとして生活し始めて1年足らずでリスボンに戻ったホールは、リモートワークとノマドワークいずれもの専門家を自称し、それらをテーマとしたカンファレンスを開催してまわった。マデイラ島に着いたときには、物価の安さ、インターネット回線の速さ、サーフィンができるビーチ、インスタ映えする美しい景色など、ノマドを呼び込むマーケティングの柱となるものをいくつも目にした。そののどかな雰囲気にも可能性を感じた。島に来る直前、スペインの田舎町で見学した小規模のノマドプロジェクトに彼は感銘を受けていた。和やかな魅力に溢れ、それまで経験してきた賑やかな都市部のハブよりも親しみやすいものだったのだ。

タイのチェンマイやバリのチャングーのようにノマドワークのホットスポットとしてすでに有名な場所で築かれているのは、白人が圧倒的大半を占める裕福な外国人が自分たちの欲しいものや快適な空間を英語で提供してくれるコーヒーショップやコワーキングスペースなどに集まる閉鎖的なコミュニティであることが多い。マデイラ島の小さな町にノマドの旅先を設ければ異なる環境ができるはずだ、とホールは考えた。各地を飛び回るリモートワーカーたちが、まるで昔からその地に住んでいるように地元の住民に溶け込んで暮らせるようにしよう──地元の人たちの近所に住み、同じレストランで食事をし、「コミュニティマネージャー」が企画する集会で交流できるようにするのだ。ホールはこの構想をマデイラ自治政府に売り込むことにした。

売り込みは簡単だった。新型コロナウイルス感染症の影響で欧州のシェンゲン協定[検査なしで国境を越えられる]外からの渡航者の入国が禁止された結果、マデイラ諸島の観光需要は激減していた。そこでホールはノマドを解決策に仕立てた。ポルトガルの都心部にはすでにリモートワーカーが溢れ返っていたが、リスボンから飛行機で2時間もかからないマデイラはまだ注目されていなかった。高収入のプロフェッショナルたちが地元のビジネスに資金を注いでくれます、とホールは自治政府に語った。そんなノマドたちを迎え入れるために必要なのは、魅力的なインフラとすぐに参加できる既成のネットワークだけです。わたしがそれをつくるので、そうすれば皆来てくれます、と請け合った。

マデイラ自治政府主席ミゲル・アルバカーキと話し合いの場も設けられ、「数杯のビールの後に契約は成立した」とアルバカーキはのちに振り返った。プロジェクトの運営は島のビジネスインキュベーターであるスタートアップ・マデイラ(StartUp Madeira)が行なうことになり、ホールがプロジェクトリーダーに選ばれた。そうして人口4,300人の海岸沿いの行政区ポンタ・ド・ソルが、観光のような、未来の仕事というものの試運転のような、選択的移民政策のような、そして地域の住宅市場逼迫という試練を大いに感じさせる実験の場として選ばれた。

ポルトガル本土が外国人リモートワーカーを積極的に受け入れ、世界的にもノマドに優しい法律や彼/彼女らのニーズに応える民間産業が拡大するなかで、このプロジェクトは生まれるべくして生まれたのかもしれない。ある意味、皮肉とも言える。パンデミックは多くの人にとって国境を閉ざした一方、一部の人々に対して国境を開く経済的なインセンティブをもたらしたのだから。

「何かがうまくいっていない」

21年2月に「デジタルノマド村」が正式に開かれたとき、最初期の“村人”はほんの数人だった。ポーランド人ソフトウェア開発者のカミル・ココトとその妹、Slackを通じて一緒に家を借りる約束をしたドイツ人男性二人、そしてホール自身である。

当時その地域ではコロナの影響で夜7時以降の外出が禁止されていたが、そんな数カ月が終わると移住者たちは新しい地で新しい人たちに囲まれて暮らすことに胸を躍らせた。春になるころにはノマド村の人口は50人ほどにまで一気に増えており、ココトも絆の強い友人グループができたと感じた。5月の彼の誕生日にはその仲間たちがサプライズパーティーを開いてくれて、その後も季節外れのクリスマス、ハロウィーン、大晦日を一緒に祝った。

春のある暖かな晩には、シャンパンを飲んで酔っ払いながら外出禁止時間ぎりぎりにビーチで花火をし、それをポンタ・ド・ソルの住民は自宅から戸惑いの目で見ていた。6月末、このグループはアゾレス諸島でともに楽しい休暇を過ごしたあと、それぞれ別の地へと散っていった。そして冬になると、ココトを含む何人かはまたマデイラに戻ってきた。ポーランド以外で住まいを構えてもいいと思えるのはマデイラ島が初めてだ、とココトは取材でわたしに語った。

IMAGE: KYLE JEFFERS

わたしが22年2月に島を訪れたとき、そのパイロットプロジェクトは誕生から1年が経っていた。ポンタ・ド・ソル行政区および同市内には、各国から訪れた推定200人のリモートワーカーが賃貸住宅で暮らしていた。それに加えて少なくとも1,000人以上が島内の他の場所のアパートやヴィラに住んでいた──もはやポンタ・ド・ソルでは住宅の空きがないか価格が吊り上げられていたことも理由のひとつだ。デジタルノマド村で仕事をするため、あるいは村の予定表を埋め尽くすヨガ教室やワークショップなどのイベントに参加するため、多くのノマドワーカーがポンタ・ド・ソルを日々訪れた。

そうしたイベントのひとつが、コワーキングスペース近くのレストラン「ステーキ&サン」で毎週水曜日に開かれる「コミュニティランチ」だ。わたしが参加した日は30人あまりのリモートワーカーがレストランに集まり、キッチンスタッフは新たな客層のためにベジタリアンおよびビーガン向けの料理も用意できるようになっていた。魚マークをつけてSlackに投稿すれば、9ユーロ(約1300円)でバカリャウ・ア・ブラス、ノンアルコールドリンク、エスプレッソを注文することができた。わたしとテーブルをともにしたのは、ホール夫妻、リトアニア人アートアドミニストレーター、英国人スタートアップ共同設立者、ドイツ人ソフトウェア開発者数名と、スコットランド人ソフトウェア開発者だった。

隣町のカリェタから来たメリッサ・カブラルとジョアン・カブラル姉弟がわたしたちのテーブルに近づき、英語で自己紹介をした。「わたしたちは地元の人間です。ご一緒してもいいですか?」とメリッサが言った。わたしの周りに座る人たちは熱のこもった声でイエスと答え、どうぞ、ぜひ座ってください、と身振りで促した。二人が席に着くと、地元のほうがコミュニティランチに参加してくれるのは初めてです、とホールが皆に言った。カブラル姉弟は驚きを隠せない様子だった。

姉弟はリモートでマーケティングの仕事をしていた。その日の朝にコワーキングスペースを訪れていたとき、ホールからこのランチについて聞いたのだった。はじめ、メリッサは躊躇したという。「『デジタルノマド』の単語を見て、わたしたちには関係ないなと思いました」という彼女の言葉は、のちに他の地元民と話したときにも何度か耳にした。しかし、彼女もマデイラ島で働くリモートワーカーであり、起業家や国際的な人脈をもつ人たちとのネットワークは役に立つだろうと考えて参加を決めたのだ。メリッサはテーブルに座る全員に対して「地元の人とつながることは大切だと思いますか?」と質問した。ホールはすぐにきっぱりとした口調で、もちろんイエスですと答えた。それこそがこのプロジェクトの次の段階です。しかし、いまのところはコロナのせいで実現できずにいるのです、と彼は言った。

のちに姉弟から話を聞いたところでは、このときの暖かな歓迎ぶりには圧倒されたという。昼食後には興味津々のノマドたちが二人を囲み、質問をし、夕食に誘い、コワーキングスペースの利用を促し、またぜひ来てほしいと言った。二人はまた来ると返した。しかしメリッサは、自分と弟が初めてそこに参加した地元の人間であるなら、「何かがうまくいっていない」ことは明らかだと語った。

コミットメントも責任も伴わない浅薄な帰属意識

「デジタルノマド村」は、当然ながら本物の村ではない。それはあくまでもマーケティングのための名称であり、各国からやってくるリモートワーカーの交流を促進するためのバーチャルなインフラを、何世紀も前から存在するポンタ・ド・ソルという実際の村を土台にして重ね合わせたものである。物理的な構造としてデジタルノマド村が最も近いのは、無料のコワーキングスペースだ。町で数少ない近代的な建物「ジョン・ドス・パソス文化センター」に入るテナントである。建物の1階では地元の人たちが集まって映画の上映会やダンス発表のリハーサルや写真展を開き、上の階では外国人リモートワーカーが集まって各々のパソコン画面を見つめ、中庭でZoom会議をしている。何度か訪れるうちに、いつも屋内のデスクから先に埋まっていることに気づいた。屋外のワークスペースのオーシャンビューはすばらしいが、日陰でも眩しすぎて画面が見えづらいことが多いのだ。

その“村”で会った人のうち、「デジタルノマド」という肩書きを受け入れている人はほとんどいなかった。この呼び名を最も熱心に取り上げているのは、それでお金を稼いでいる人たちだ。デジタルノマドの定義は、会社のオフィスにもアパートの長期賃貸契約にもクルマのローンにも縛られることなく世界を旅し、数週間や数カ月、つまり課税対象になる直前までの期間滞在するフリーランサーや起業家である。ポルトガルでは、デジタルノマド、外国人リモートワーカー、海外駐在者、移民、ワーキングホリデー利用者の境界線がしばしば曖昧になる。そして政府は、この種の放浪者たちを定住者に変えたいという願望を隠していない。

いまのところポルトガル政府には、毎年何人の外国人リモートワーカーが国を出入りしているのか、彼/彼女らがどこから来て、どんな仕事をして、どれほどの期間滞在し、どのように暮らしているのか、さらにはより広い規模での国内経済や社会的生活にどれほどの影響を与え貢献しているのかを推測する基盤がほとんどない。スタートアップ・マデイラはデジタルノマド村の実験プロジェクト開始以来、独自の統計を取っており、これまでに8,000人以上のリモートワーカーがこの島にやってきたとしているが、これは推定値に過ぎず、実際よりも少なく見積もられている可能性が高い。この数字に含まれているのはスタートアップ・マデイラのウェブサイトから登録した人だけだからだ。

一方、ノマド村のバーチャル版である「Madeira Islands Slack」は、ぎこちなく退屈で、混沌としている。コーチとして働くノマドたちは、呼吸法、ボディワーク、シャドーワーク、オープンな心のつくり方、チャクラ瞑想などのサークルや有料ワークショップを定期的に開催している。ほかにも、登山をしながら森の中でモデルを撮影するフォトハイクのワークショップ、写真撮影とセラピーを組み合わせた山でのセッション、NFTをテーマにした女性向け交流会などの宣伝を目にした。高台に建つホテルで金曜に開催される「パープルフライデー」のフライヤーは毎週新しいものがつくられてその週出演するDJのラインナップを告知し、その騒がしいパーティーの招待リストは外国人用と地元住民用に分けられている(「パーティーのしすぎで社交疲れを経験したのはマデイラ島が初めてです」とココトは言った)。

わたしが参加したコミュニティランチの後、テーブルをともにしたスコットランド人は6,000人を超えるSlackユーザー全員をタグ付けし、さまざまな大陸からやってきた者同士コーヒーでも飲まないかと呼びかけた。プロジェクトが始まって1年、ピン留めされたいくつかの投稿はすっかり古びて、記録や共通の思い出が残されるはずだった場所にはぽかんと穴が開いていた。最近になってFAQをまとめたページがつくられたが、はじめの1年半は同じ質問が繰り返し投稿されていた──借りられる部屋を誰か知っていますか? フンシャル行きのバスはありますか? レンタカーはどこで借りられる? コワーキングスペースのデスクの予約法って? ビーガン食のお勧めはある? アパートはどうやって探せばいい? ねえ、誰かフンシャル行きのバスがあるか知ってる?

IMAGE: KYLE JEFFERS

取材をしたポンタ・ド・ソル滞在者のうち数人は、デジタルノマド村を通してその小さな町のコミュニティに参加できるかもしれないと楽しみにしていたが、実際に暮らしてみると島民との有意義な交流の機会がほとんどないことにがっかりしたと語った。そのため、自分なりの方法で地元の人々とのつながりを探り、カフェやレストランの店員の名前を覚える、公共交通機関を使う、犬の保護施設でボランティアをする、ポルトガル語を学ぶ、自由参加のサッカーの試合に参加するなどしたという。マデイラ島での長期滞在を考える人、地元の起業家たちとの交流会を立ち上げた人もいたが、あくまでも例外だ。

ホールが公に語っていた目標とは裏腹に、ノマド村の設計、旅人たちが中心となるそこでのライフスタイル、短期間でこれほど多くの人々を受け入れることの影響が相まって、約束された「コミュニティ」の実現は複雑なものとなった。スタートアップ・マデイラのプロモーションビデオはポンタ・ド・ソルがあなたの故郷になると売り込むが──何のコミットメントも責任も歴史も伴わない、浅薄な帰属意識である──、その陰では、ノマドたちがやってくる何世代も前からその地を故郷としてきた人たちが住む場所を追われている。この売り込み文句のなかで、訪れる者は受け入れる者に対していっさいの義務を負わない。どこか聞いたことのある話だ。

木々に覆われた無人の島

15世紀にポルトガル人が初めてマデイラ島に上陸したとき、その無人の島は木々に覆われ、生命に溢れていた。征服者たちがそこをマデイラと名付けた由来は、島で育つ木(árvores)、緑(verde)、林(bosque)、森(floresta)、ジャングル(selva)ではない。由来となったのは、その木々を破壊することで生まれる商品だ──木材(madeira)、材木(madeira)、丸太(madeira)である。入植および商品作物栽培用の土地を開くために放った火は7年間燃え続けたと言い伝えられている。

ポンタ・ド・ソルの住民の多くは現在も農業に従事している。入植当初から栽培が続けられているのはサトウキビだが、現在の主な生産物はバナナだ。ポンタ・ド・ソルの住民は島のほかの地域よりも平均的に貧しく、マデイラ島自体も欧州南西部のうち最貧国であるポルトガルのほかの地域より貧しい。マデイラにいる間、わたしはジョン・ドス・パソス文化センターで開催中の展示を隅から隅まで鑑賞した。展示されていた写真は40年にわたったエスタド・ノヴォ独裁体制下の悲惨な時期に撮られたもので、未舗装の道路、靴のない農民、草ぶきの小屋、痛ましいほどの貧困が写されていた。そのファシスト体制が崩壊して植民地だったマデイラが1975年に自治権を獲得したとき、その諸島の人口の6割は読み書きができなかった。

その後の数十年で、マデイラは強固な観光産業を築き上げた。ポンタ・ド・ソルで宿泊予約可能な場所のほとんどは「アロジャメント・ローカル(地元の宿泊施設)」と呼ばれる個人宅で、地元住民が利用する長期賃貸とは異なる規則が適用され、収益性がはるかに高い。ホールはノマド専用の宿泊部屋を100人分確保したいと語り、ビジネスパートナーのデイヴ・ウィリアムズとともに、不動産所有者たち(不動産投資目的で外国人オーナーも増えている)にインセンティブを与えて計画に参加させようとしている。

もとは中期滞在用宿泊事業だったノマドX(NomadX)をスタートアップ・リスボン(StartUp Lisbon)の支援のもと立ち上げたウィリアムズは現在、Airbnbの競合であるフラティオ(Flatio)と提携している。わたしはホールとウィリアムズが貸主向けに共同で開催したフラティオの説明会に参加した。すべて英語で行なわれたその会で、ホールは望ましい中期入居者層の特徴について力説した──若く、高収入で、意欲に溢れ、健康な人々だ。その主張を視覚的にも示すため、ホールはフンシャルのコミュニティマネージャーをおだててバーピージャンプを披露させていた。

※ようこそ、デジタル・ノマドランドへ(2)はこちら

WIRED/Translation by Risa Nagao, LIBER, /Edit by Michiaki Matsushima)