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●「患者に投与できる可能性のあるものがようやく見つかった」
● 地に堕ちたアミロイド仮説
● ターゲットであるアミロイドの違い
● アルツハイマー病治療薬のある未来

1906年、無名のドイツ人病理学者がある50代女性のの解剖を行なった。女性には高齢者に典型的な行動がみられ、見当識障害、幻覚、失語などの症状のほか、記憶の形成・想起の能力を失っていた。当時利用できるようになったばかりの染色剤を用いて病理学者が見つけたのは、神経細胞(ニューロン)の外側にこびりついた老人斑と、神経細胞内部に積み重なるよじれた繊維だった。それから4年後、その発見はある疾患の診断に必要な特徴として認められ、その疾患には神経細胞の異常を見つけた病理学者の名がつけられている。

推定によれば現在、米国で600万人、世界では3,500万人がアルツハイマー病に罹患しているとみられる。1分に1人が新たに認知症と診断されており、その数は大幅に増えると予測されている。なぜなら、アロイス・アルツハイマーの発見から実に120年近くがたとうとしているにもかかわらず、予防や損傷回復はおろか、病気の進行を遅らせる方法すら誰も解明することができていないからだ。

スー・ハルパーン 

『ニューヨーカー』のスタッフライター。ベストセラー『A Dog Walks into a Nursing Home』、映画化されエミー賞にノミネートされた『Four Wings and a Prayer』など7冊の著書がある。これまで科学、テクノロジー、政治をテーマに雑誌『Times Magazine』『Rolling Stone』『The New Republic』にも記事を執筆。『The New York Review of Books』誌のレギュラー寄稿者のひとりでもある。

患者に投与できる可能性のあるものがようやく見つかった

2022年9月、日本の製薬会社エーザイは、20年あまり開発を続けてきたモノクローナル抗体を早期アルツハイマー病患者に投与した結果、プラセボ投与群と比較して約3年間疾患の進行を遅らせるとみられると発表した。これは、およそ900人の被験者を対象に実行された臨床試験の、投与18カ月で認知機能の低下を27%抑制したという結果に基づく予測である。

確かに、効果は小さく数字も非現実的──よくなる人もいれば、悪化する人もいたという程度──ではあるものの、それよりも重要なのはおそらく、被験者とその介護者の自己申告による生活の質に関するスコアが、抗体を投与された被験者のほうが高かったことだろう。

その発表を受けてすぐに、エーザイ・インク・チェアマンおよびCEOのアイヴァン・チャンは、その抗体、すなわち「レカネマブ」は「治療薬」ではないとしながらも、臨床試験の結果は大きな前進であり喜ばしいと述べた。「患者に投与できる可能性のあるものがようやく見つかりました」。コロンビア大学アルツハイマー病研究センター所長のスコット・スモール博士は、わたしにそう語った。

1906年にアルツハイマーが確認した老人斑は、アミロイドβ前駆体タンパク質からなる。アミロイドβ前駆体は神経細胞内に存在していて、最初は無害だ。原因については現在も研究が続けられているが、とにかく何らかの原因によってアミロイドβ前駆体タンパク質の一部が壊れて断片化し、それらが凝集して形成された老人斑が脳にたまりアルツハイマー病の症状を引き起こすと考えられる。

よじれた繊維質はタウと呼ばれる別のタンパク質で、タウの絡まりがアミロイドの塊によって生じるのか、それとも独立した病変なのかは、研究者のあいだでも意見が分かれるが、いずれにしても、アミロイド斑(老人斑)が発現する人はタウ繊維が形成される可能性も同じように大きいのは、研究の結果からして明らかである。

アルツハイマー病患者の脳内にアミロイド凝集体が認められることから、一般的にアミロイド仮説と呼ばれるある説が導き出された──アルツハイマー病患者の脳にアミロイドの蓄積が確認され、アミロイドが神経細胞を死滅させるのなら、当然、アミロイド斑がアルツハイマー病の原因と考えられる。

アミロイド仮説はこの数十年間アルツハイマー病薬の開発を著しく前進させ、科学者たちはアミロイド斑を攻撃・抑制する、あるいはそもそもその形成を止める物質の探究にあたっている。しかし、研究の成果は芳しくない。脳内にアミロイド斑が発現するすべての人に認知障害が起きるわけではないことが判明し、さらには22年秋までの時点で約200もの抗アミロイド臨床試験が失敗に終わった。アミロイドを除去した物質はあったのだが、それらは認知機能に影響をおよぼさなかったのだ。

ペンシルベニア大学医学教授でペン・メモリー・センターの共同ディレクターでもあるジェイソン・カーラウィッシュは、「この病気がアミロイドによって引き起こされると理にかなった主張ができる科学者はいます。この先、アミロイドが二次的因子である可能性を論理的に説明できる科学者も現れるでしょう。そして、ある意味その中間の立場を取って、アミロイドには何らかの役割があるが、疾患の進行の決定要因ではないと論理的に述べる科学者もいます」と語った。

地に堕ちたアミロイド仮説

エーザイの臨床試験結果が発表されたのは、アミロイド仮説の正当性を巡る議論がとくに緊張をはらんだ時期でもあった。その数カ月前、アミロイド仮説を提唱し2006年に『ネイチャー』誌に掲載された有力な論文に、改ざんされた画像と捏造データが使用されていたことが発覚したのである(『サイエンス』誌はこの件を次のように伝えている。「これらの論文に盛り込まれた実験に基づく証拠の重要な部分は、研究者らの望み通りの結果を示すように、いろいろな画像やデータを集めて切り貼りしてつくられたものにすぎない」)。

発表された論文を信じた科学者たちが、それらのデータや画像をもとにアルツハイマー病の原因物質に対抗する薬の開発を試みては、失敗した。「ずるをして論文を書くことはできる。ごまかして学位を取ることはできるだろうし、助成金も受けられるかもしれない。しかし、それでは病気を治すことはできない」。不正を指摘したヴァンダービルト大学の神経科学者マシュー・シュラグは当時そのように述べた。「生物学はこちらの事情など忖度しない」

その論文によってアルツハイマー病薬の研究は数十年単位で遅れたとも言われていたが、やがて厳しい批判はなりを潜めた。数多くの種類が存在するアミロイドのなかで、問題の論文が取り扱っていたのはたった一種類のアミロイドなうえに、ターゲットとして最も確実なアミロイドではなかったからだ。

しかし、それと時をほぼ同じくしてまたもや研究の足を引っ張るようなできごとが起こった。19年3月に製薬会社バイオジェンが、待望の抗アミロイド抗体──またもや舌をかみそうな名前の薬「アデュカヌマブ」──の臨床試験の結果、アミロイド斑は除去されたものの認知機能の改善に充分な有効性を明らかにすることができなかったと発表したのだ。その後、さらなるデータ解析に基づいてバイオジェンはその発表を撤回し、ふたつの臨床試験のうちのひとつで、わずかに統計的に有意な効果が認められていたと主張した。

バイオジェンは、ひとりの患者にかかる年間の薬剤費が56,000ドル(約733万円)と見込まれるこの治療薬を、米食品医薬品局(FDA)に提出した。バイオジェンの臨床試験結果を見たある株式アナリストは、クライアントに宛てたレターのなかで、アミロイド仮説に「とどめを刺す」結果だと言い切った。ところが、効果が限定的なうえに、局内の専門家の一部から反対意見が出ていたにもかかわらず、21年6月の第一週にFDAはアデュカヌマブを迅速承認制度[編註:深刻な疾患の薬を早く実用化するためにスピードを重視した制度。臨床試験で薬の効果が証明できなくても、効果がある可能性を示すことができた場合、医薬品としての使用が認められる。ただしその後さらに臨床試験を行なって有効性を証明しなければならない。できない場合は承認を取り消されることがある]のもとで承認したのである。

これに対し、専門家らは疑義を表明している。メディケア・アンド・メディケイド・サービスセンター[編註:高齢者向け公的医療保険を運営する米保健福祉省の機関]はアデュカヌマブの保険適用を制限する案を発表し、カーラウィッシュを含む医師たちはこの薬を患者に投与しないと明言した。

それから1年半におよぶ調査を実行した議会は、効果を裏づける証拠が乏しいにもかかわらずアデュカヌマブを承認したFDAとバイオジェンが異例の協力関係にあったと指摘した。議員が入手した内部文書にも、バイオジェンがアデュカヌマブに法外な価格を設定したのは、同社がこの薬を「史上最高の新薬のひとつ」にしたかったからであると記されている。また、調査報告書は、アデュカヌマブ改めアデュヘルム(Aduhelm)には高い価格に見合う価値がないという世論に対抗するために、バイオジェンは開発費の2倍以上の額を治療薬の販促に費やす計画だったことを暴き出した。最終的にバイオジェンは薬の価格を半分にしたが、ほとんど理解は得られなかった。バイオジェンの株価は暴落し、それに引きずられるかのようにアミロイド仮説に対する評価も地に落ちていった。

ターゲットであるアミロイドの違い

そんななか、アデュカヌマブを巡って混乱が起きる数年前に、バイオジェンがエーザイとの提携契約を結んでいたのは不幸中の幸いである。その契約には、エーザイが実施するレカネマブ抗体の臨床試験にかかる費用の半分と、臨床試験が成功した場合は新薬を販売する費用の半分をバイオジェンが分担する取り決めが盛り込まれていた。

バイオジェンはすでに抗体の臨床試験に数千万の資金を費やしており、この契約内容は多少の物議をかもした。だがそれよりも重視されたのは、バイオジェンの抗体の目的が血管壁に蓄積する老人斑の除去だったのに対し、エーザイが研究していたのは血液中を流れる可溶性アミロイドであったことだ。医療系ニュースサイトのスタット・ニュースの記事は、エーザイとバイオジェンのアプローチの違いをみごとな比喩で言い表した──アミロイドを雪に例えるなら、エーザイのターゲットが雪の結晶なのに対して、バイオジェンのターゲットは雪の吹きだまりだ。

「最終的に得られた結論はふたつです」と、当時バイオジェンの企業開発担当副社長だったスティーヴン・ホルツマンは述べている。「まず、原則的に、エーザイとバイオジェンがつくったモノクローナル抗体は同じものではありませんでした。それぞれに特徴が異なるため、同一の効果が出るとは考えられません。次に、アミロイドには多様な種類があり、両社が研究を進めていた抗体の分子のターゲットは異なる種類のアミロイドでした。そのため、アミロイドをターゲットにしている点は共通でも、抗体の分子が認知機能に効果をもたらす可能性は同じではないと考えることには、論理的な根拠があったのです」

ターゲットであるアミロイドの違いが、エーザイの臨床試験がバイオジェンのそれよりも成功した理由なのかもしれないが、そこには次のような要因も作用していた。ひとつは、エーザイの臨床試験はアルツハイマー病の初期段階にある被験者だけを対象に行なわれたこと。それに、被験者になるには脳内にアミロイド斑の蓄積が確認されていなければならなかった。

さらに、第II相臨床試験において、エーザイは特殊な統計解析法を用いて投薬量の違いによってどんなタイプの患者に影響があるかを判断し、臨床試験のパラメーターを結果の反映にも臨機応変に活用した。2,000人近くの被験者を登録したより大規模な第III相臨床試験の時点では、研究者はどの被験者に、どれだけの量の薬をどれだけの期間投与すべきかわかっていたのだ。

ハーバード大学医学部神経学教授でブリガム・アンド・ウィメンズ病院アルツハイマー研究治療センター所長のレイサ・スパーリングは、次のように述べた。「それが第II相、第III相臨床試験のあるべき姿です。つまり、第II相で判明した結果をもとに第III相を設計し、第II相に基づいてまとめた仮説を実際に検証するのです」。エーザイによる臨床試験の結果が発表されるとバイオジェンの株価はもち直し、それに呼応するようにアミロイド仮説への評価も再び高まった。

アルツハイマー病治療薬のある未来

レカネマブ(米国における商品名は「Leqembi(レケンビ)」)は23年1月6日にFDAで迅速承認された。第III相臨床試験の結果を受けて、その後エーザイは完全承認を求める申請をFDAに行なっている。もしそれが認められれば、メディケイドやメディケアのほか一部の民間保険会社がレカネマブの保険適用を開始し、価格は患者ひとりあたり年間26,000ドル(約340万円)程度になると推定される。保険が適用になるまでは、費用は全額患者が負担せざるをえないだろう。

患者はこの薬を2週間に1回注射し、定期的に検査を受けて脳内の状況を確認する必要がある。だが、この薬によって最大の恩恵を受けるのは誰かを見極めるのにはコストも時間もかかると思われる。カーラウィッシュによると、患者ひとりの機能障害の程度を把握するのにかかる時間は1時間ほどだという。だが実際のところ、ほとんどの医師はひとりの患者の状態を評価するのに1時間もかけない。アルツハイマー協会によれば、臨床診断を受けた患者の30%が認知症専門の医療センターでまちがった診断を下されていて、プライマリーケアで治療を受けている患者の場合、その数はもっと多い。

「症状を示しながら、プライマリーケアで”アルツハイマー病”と鑑別されていない、あるいは正しい診断を受けていない患者は現在50~70%にものぼります。定期的な認知機能スクリーニング検査が実行されていないうえに、使いやすくて時間的にも費用的にも効率のよい、正確な診断ツールがないのがその理由です。病気の初期段階の場合、問題はいっそう深刻です」。脳内におけるアミロイド蓄積の有無を調べる血液検査はあるにはあるものの、依然として広く利用されるにはいたっていない。

モノクローナル抗体でアミロイドを攻撃するのには、リスクを伴う。レケンビもアデュヘルムも、脳の浮腫や出血を生じさせる可能性があるのだ。エーザイの臨床試験ではこれまで3名の被験者が脳出血で死亡している(バイオジェンの臨床試験では、脳の出血がみられた被験者の数はもっと多かったが、十中八九それは薬が血管壁の老人斑から不溶性アミロイドを除去するのが原因である。ホルツマンはそれを血管壁から老人斑を「引き剥がす」と表現した)。

だがそれでも、エーザイの臨床試験結果が発表された後にインタビューを受けた被験者──言うまでもなく自分の意志でインタビューを受けた人たち──は、自分自身だけでなく、愛する人たちのためにも、アルツハイマー病の深刻な症状が現れるまでの時間を引き延ばせる可能性があるのなら、リスクを引き受ける価値はあると語った。

その一方で、治療への適格性のあるすべての患者がこの薬を選択するとは思わないと、カーラウィッシュは言う。「この病気とともに生きる喜び、そして介護する側の喜びは大きく、症状が出るまでの時間をさらに引き延ばすことには極めて限られた価値しかない、といったような結論にたどりつく人もいるのではないでしょうか。このような薬が発売されれば、今後数年、数十年後にそれぞれの家族が決断を下すことになります」

アルツハイマー病治療薬のなかには、早くも売り込みを始めている薬もあれば、スタートラインについたばかりの薬もある。それらにはメッセンジャーRNA(mRNA)ワクチン、アミロイドとタウを共にターゲットにする治療法、タンパク質処理の機能不全を治す薬などがある。スパーリングは現在レカネマブを無症状の人々に投与し、可能な限り初期の時点、すなわちアミロイドの蓄積はあるがそれ以外に疾患の兆候がみられないうちに介入することで、より大きな効果が得られるかどうかを確認するための試験を行なっている。

「発症を完全に防ぐことができるか、ほとんどの人が生存中に認知症にならないくらいまで病気の進行を遅らせることができるか、確かめたいと考えています。数年では結論は出ないでしょう。アミロイド抗体療法も20年かけてここまで成功させることができました。期待しています」

THE NEW YORKER/Translation by Takako Ando, LIBER/Edit by Michiaki Matsushima)