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● 歴史の終わりという錯覚
● 現代のウィリアム・モリス効果は?
● 消費者の「本物志向」を加速させる
● 創作者の来歴が重視される

生成AI(Generative AI)モデルの台頭には、歓迎する声と不安視する声の両方がほぼ同じぐらい上がっている。不安視する理由のひとつは、ケヴィン・ケリーの言葉を借りるなら、「人工知能にはほとんどの人間よりも優れた芸術作品を生み出す能力がある」という点だろう。もしそうなら、わたしたち人間はどうなるのだろうか?

しかし、ここで言う「優れた」の意味が、これまでも、これからも、ずっと変わらないと考えるのは間違いだ。むしろ人の好みは変わるので、それに応じて目指すゴールも移動すると考えるべきだろう。人類はこれまでも、テクノロジーの進歩に応じて集団的な嗜好を変えてきた。きっと今回も、知らず知らずのうちに同じことをするだろう。過去の歴史を信じるなら、わたしたち人間の好みは人間の芸術家に有利になるように変わっていくはずだ。

歴史の終わりという錯覚

クシシュトフ・ペルツ

マギル大学ウィリアム・ドーソン国際政治経済学部教授で、最近『Beyond Self-Interest: Why the Market Rewards those Who Reject It』を上梓した。

AIアートであふれかえる世界を想像するとき、社会全体の好みも変わるはず、などとは誰も考えない。いま求められているのと同じような作品が今後も求められ続けると想定するのが普通で、そのような作品をつくる方法だけが変わっていくと考える。ある研究では、そのような心理状態を「歴史の終わりという錯覚(end of history illusion)」と呼んでいる。

人はいまの自分が最も強く抱いている好みでさえ過去10年で移り変わってきたという点はあっさりと認めても、その好みが以後は絶対に変わらないと思い込む。現状をこれ以上ない高みと考えて、それ以上は変わらなくても大丈夫だと安心するのだ。

しかし実際には、わたしたちを刺激したり、落ち着かせたりするものは、わたしたちが意識しないうちに、社会の強い力の作用でどんどんかたちを変えている。そのような作用のトップに君臨するのがテクノロジーの進歩だろう。なぜならテクノロジーの進歩によって「簡単」と「難しい」の間の線引きが変わると、それに応じて「美しいもの」と「そうでないもの」の定義もすぐに移ろうからだ。新たな進歩が可能性の限界を拡げると、集団的嗜好もまた──新たな可能性に乗ろうとするか、距離を置こうとするかはともかく──反応する。

わたしはこれを「ウィリアム・モリス効果」と呼んでいる。1870年代、ヴィクトリア朝の英国でアーツ・アンド・クラフト運動が起こった。ふさふさとひげを生やしたモリスは、この運動の主導者だ。当時この運動が起こったのは偶然ではない。英国は産業革命のピークに達していた。地球上で最も急成長している国が英国で、ロンドンはその最大の都市だった。歴史上初めて、食器、宝飾品、家具などが工場で大量に生産できるようになり、かつてないほどの量の商品が市場に出回った。

モリスと支持者たちは、その新たな豊かさを痛烈に批判した。機械時代の心のない均質さを非難した。そして過去に目を向けて、中世の図柄や自然の形態にインスピレーションを求め、複雑な葉の模様、エレガントなシダ植物、曲線的な花の茎などをデザインに取り入れた。当時としては過激な運動を繰り広げるモリスらは「中世主義者」と呼ばれ、初めのうちは嘲笑の的だったが、まもなく理解者が増え始めた。

テクノロジーが大量生産品を中流家庭にとって手の届く商品にしたのと同じように、モリスらの影響で上流階級の嗜好が変わり、花柄の木版壁紙や、手づくりを強調するためにあえて不完全につくった家具などの人気が高まった。この流行はすぐに英国社会全体に拡がる。19世紀末までには、アーツ・アンド・クラフト運動の影響を受けたインテリアが、英国の中流家庭でも一般的になっていた。

現代のウィリアム・モリス効果は?

ウィリアム・モリスが英国人の好みを変え、ヨーロッパ全土と大西洋対岸の米国にも模倣者を生み出した。しかし、そのモリスもまた、時代の産物だったと言える。時代がモリスのような人物の登場を待っていたのだ。

複雑な手書きの花柄に突然人気が集まったのは、ヴィクトリア朝における工場の労働環境やロンドンを覆う濃いスモッグなどに対する漠然とした不満があったからこそだ。これまで何度も、テクノロジーの進歩が人間の価値観を変えてきた。そして19世紀の英国の例が示すように、その変化は技術に寄り添うのではなく、技術に逆行することが多い。

では、現在の可能性の拡がりにウィリアム・モリス効果はどう影響するだろうか? AIにシナリオを伝えるだけで画像を自動で生成できるようになったいま、わたしたちの美に対する意識はどう変わるのだろう? 流行を予想するのはとても難しいことだが、今回の場合、ヒントには事欠かない。

15年前、ロンドン大学ユニバーシティ・カレッジとコペンハーゲン大学の研究チームが被験者にfMRI装置に入ってもらい、一連の抽象画像を見せた。そして、それらの画像が人間の作品なのか、あるいはコンピューターが生成したものなのかを伝える。勝敗は明らかだった。人々は人間が描いた(同じ)絵が気に入ったと報告しただけでなく、脳の快楽中枢も実際に活性化したのだ。

当時の研究者は予想しなかったが、テクノロジーが進歩して人間とロボットの作品間の差が縮まるにつれ、本能的にロボットよりも人間の作品を好む傾向は強まりつつあるようだ。これは、人間の集団的防衛メカニズムと考えることができるだろう。

見た目はまったく同じイラスト、絵画、詩を並べられても、それらがどのように、あるいは誰によってつくられたかで、人の感じる美的な喜びは異なる。なぜだろうか? これはいかにも現代らしい傾向だと言える。

「フェイク」という概念が最近発明されたものであるという点に注目してみよう。芸術史の研究者は、16世紀に注文された芸術作品のおよそ半分は、オリジナルの模倣品だったと推定している。できさえよければ、それら模倣品も実物とほぼ同じ価値があると考えられていた。オリジナルと模倣品の価格を比べれば一目瞭然だ。ルネサンス期、オリジナル絵画の価格は良質な模倣品のおよそ2.5倍だった。それがいまでは、模倣品には1万分の1程度の価値しか認められないだろう。数百万ドルの値がつく古典派巨匠の絵画を完璧に複製した場合でも、取引額はせいぜい数百ドル程度だ。

コピー市場の規模は微々たるものなので、気に病む画家はほとんどいない。わたしたちの好みは、長い時間をかけて、AIにとって「不公平」どころか「不可解」に思えるであろう方向に移り変わっている。これは学習の結果として得られた嗜好だ。人類は熱心にレッスンを受けてきた。

消費者の「本物志向」を加速させる

現在、ウィリアム・モリス効果がふたたび力を発揮している。モリスが引き起こした手仕事の復興の第一波こそが、現在のあらゆる事柄における「本物」志向の先駆けだった。

国際貿易がかつてないほどに拡大し、安価な外国製品が市場に出回るようになった一方で、西側諸国の消費者は地元で少量生産されている、手書きのラベルが貼られたマスタードに夢中になっている。ここで違いを生むのは、つくり手が誰なのか、そしてわたしたちがつくり手の思いをどう理解するかだ。

著書『Beyond Self-Interest: Why the Market Rewards Those Who Reject It(私欲を超えて〜市場はなぜ、利潤を拒む人びとにそれを与えるのか)』[未邦訳]で、わたしは資本主義の影響で人は利己的なメーカーよりも無欲なメーカーを評価するようになったと主張した。市場が強欲に利益を求める企業であふれるなか、わたしたちが信頼できるのは、収益ではなく技術にかたくなにこだわる──少なくともこだわると主張する──者だけだ。自分を満足させるための行動が利益につながる。まさにパラドックスだ。

わたしたちは仕事に熱くこだわる人を頼もしく感じる。この傾向はファーマーズマーケットだけに限ったことではない。実験で得られた結果から、企業の管理職も情熱的な部下を有能とみなし、たとえその部下の成績がほかの社員よりも劣っていても、真っ先に昇進させることがわかっている。芸術家に対する見方はもっと極端だ。芸術家が市場で成功できるかどうかは、市場での成功に無頓着だとみなされるかどうかにかかっている。

AIモデルの台頭は、この傾向を加速するだけだろう。買い手の顔色をうかがうのではなく、自分を表現するためにつくられた作品に、いままで以上に高い価値が見いだされるに違いない。消費者を喜ばせることが使命のAIロボットには気の毒な話だ。その成り立ちとして、自分自身のために何かに取り組むことは、AIの能力には含まれていない。人間がこれまで好んできたものを学習して、それを新しい色使いで再現するのがAIなのだから。

わたしたちは今後、AIの模倣作にますます疑いをもって接し、言葉や画像の出どころを詳しく調べることになるだろう。本や映画は、AIに頼らずすべて自力でつくった点を宣伝するに違いない。そしてわたしたちはそれらを「優れた作品」とみなすようになる。少量生産されているマスタードの味をスーパーで買える商品よりも「本物」と考えるのと同じことだ。本物と模倣を見分ける手段も洗練され、そのためのテクノロジーも開発されるだろう。

いつものように、その下地はすでにできている。ウィリアム・モリスが英国人上流貴族向けにアトリエで手書きしたタイルを提供し始める10年以上前から、すでにゴシック復興の機運が高まっていたことが知られている。同じように今回も、AI革命が消費者の「本物志向」をさらに加速し、画家もイラストレーターも、あるいは作家も、その波に飛び乗るだろう。人間が独創する芸術作品は、AIの出現によって衰退するどころか、価値を増すに違いない。技術が人間に近づくにつれて、芸術家とロボットの差は大きく開き続ける。

創作者の来歴が重視される

わたしたちが今回の変化で新たに身につけた好みは、今後どんなかたちになっていくのだろうか? ウィリアム・モリスがいくつかのヒントをくれている。

モリスに最も大きな影響を与えたのは、芸術評論家のジョン・ラスキンだった。ラスキンはモリスよりも15歳年上で、モリスが成し遂げたゴシックの復興も、そのきっかけをつくったのはラスキンだったと考えられている。ラスキンは議論好きな思想家で、一連の美的志向と熱心な社会哲学を結びつけて考える人物だった。教会の石造りに関して自分なりの理念をもっていただけでなく、社会制度についても強い信念があった。

ヴィクトリア朝時代の工場で行なわれた分業を非人間的だと批判したうえで、製造者は製造のあらゆる段階に携わるべきだと主張し、「画家は自ら色をつくるべきだ」と言った。そして、モリスがその考えを行動に移し、商売として成功させたのだ。最終的に、モリスは成功企業のトップに君臨したが、自ら色をつくることはやめなかった。創作のあらゆる段階に自ら携わったのである。

この傾向は今後も続くと考えられる。人は、特定の人物のビジョンが反映されている作品を求めるだろう。AI時代には、創作者の来歴が重視されるようになる。これも、ロボットに顕著に欠けている点だ。いまですら、ダミアン・ハーストやジェフ・クーンズなど、現代アートの大物たちが制作の規模とスピードを最大限に高めるために数多くのアシスタントを抱えるスタジオの力を借りていることに不満の声が上がっている。

この声は今後ますます強まり、ルネサンス期の画家でさえ数多くの弟子を働かせていたという杓子定規な言い分は効力を失うと予想できる。ティツィアーノの時代はそれでよかったのかもしれないが、いまはロボット画家がライバルとして参入してきたのだし、人々の嗜好も変わりつつある。

芸術家がAIを新しい道具として採用することはない、と言いたいのではない。19世紀、誕生した銀板写真に対抗して、写真家には行けないような場所に行って絵を描いた印象派の画家たちでさえ、自分の作品のためのスケッチ道具として写真を利用していた。しかしAIの創作物は、個人のビジョンと結びついていない限り、価値が認められることはないだろう。

どうやら、わたしたち人間は何十年も前からAI革命に備え、個人の情熱や目的意識、あるいは人生経験など、ロボットにはすぐに発揮できない象徴的価値を好むように発展してきたようだ。だから、AIが人間よりも「優れた」芸術作品を生むとは考えにくい。AIにできるのは、人間の好き嫌いを変えること。AIをきっかけに、人類の集団的防衛メカニズムが作動するに違いない。悔しい思いをするのは、ロボットのほうだ。

WIRED/Translation by Kei Hasegawa, LIBER/Edit by Michiaki Matsushima)